建築探偵のアングル(バックナンバー61~70)

その70

東郷平八郎別荘・庭から
東郷平八郎別荘・庭から

~旧東郷平八郎元帥別荘~


 三笠艦上で「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」とZ旗を揚げ、ロシアのバルチック艦隊との日本海海戦で勝利をおさめた東郷平八郎元帥が、テツ夫人のリューマチ療養のため伊東市に別荘を建てました。1912(明治45)に約400坪の土地を購入し、1929(昭和4年)に地元の大工「里辰」によって建てられた木造平屋建瓦葺の40坪、3年後に離れを10坪増築しています。土地購入から建築までに間があるのは、1914年(大正3年)から7年間昭和天皇のご教育係りとして職務に専念したからとのことです。別荘を建てる前は東京館という旅館を利用し、たびたび伊東に来ていたとのこと。別荘を建ててからは夏や冬の逗留中は釣りや囲碁を楽しみ、地元の子どもたちも遊びに来たりしたそうです。

 1934(昭和9)5月に88歳の天寿を全うされた後、持病の悪化でテツ夫人も同じ年の12月に亡くなられました。その後別荘は石橋正二郎氏に譲渡され、一時海軍省が使用した期間もありましたが、2010(平成22)に東郷神社へ寄贈され、修繕工事ののち2012(平成24)4月から東郷記念館として公開されています。現在は「伊東自然歴史案内人会」が管理と案内を担当しています。(2015.03.02)



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その69

旧城ヶ島分校の佇まい
旧城ヶ島分校の佇まい

~旧城ヶ島分校 海の資料館~


 城ケ島の観光船発着所バス停から、山側に3分ほどの所に公民館と隣接して「旧城ヶ島分校 海の資料館」があります。教室と教師住宅を鉤型に配したオレンジ色のフランス瓦が美しい平屋建てです。木部を造形的に備えたハーフティンバー様式が建物全体の印象です。玄関ポーチの柱や教師住宅外観に特に見られ、教室棟も洋風デザインで統一された大変モダンな校舎です。教室棟の大きな引き違い窓は擦りガラスで、光の調整が図られ、室内の子どもたちは外に気が散ることもなかったのではないでしょうか。

建物は1931年(昭和6年)に三崎尋常高等小学校城ヶ島分教場として建てられ、1955年(昭和30年)には三崎第一小学校城ヶ島分校と改称、1970年(昭和45年)本校に統合され廃校になり、その後は城ヶ島公民館として使用されてきました。今では昭和初期の学校建築物がほとんど姿を消した中で、城ヶ島分校は貴重な建物として、三浦市指定重要文化財となっています。

現在、教室を利用して地域の伝統的な暮らしを紹介する城ヶ島漁撈用具の展示の部屋、当時の教室を再現した部屋を日、木曜日(原則)に公開しています。(2015.02.15



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その68

改札口前の展示
改札口前の展示

~まちの記憶を伝える壁面~


 JR横浜線東神奈川駅は、京急仲木戸駅とペデストリアンデッキで連絡しています。東神奈川駅改札口前の壁面に、横浜線の歴史と横浜が絹と共に発展してきた様子、開業当時の写真や地図が展示されており、まちの記憶を語り継ごうという心が伝わるスペースになっています。タイトルには「日本の輸出貿易を支えた生糸と横浜線の誕生」と記されています。1858年(安政5年)の日米修好通商条約から現在までの横浜の生糸貿易と、生糸の産地、甲州、信州、上州、集積地である八王子との絹の道、横浜線の開業に尽力した人々などが書かれています。横浜は1859年(安政6年)の開港以来、輸出品目のうち「生糸」が大きな割合を占め、横浜発展の礎となってきました。八王子からの生糸輸送に鉄道の必要を訴え、5度目の陳情で1905年(明治38年)、横浜鉄道(私鉄)が認可され、1908年(明治41年)、東神奈川~八王子間が開業しました。出資者は生糸資本家だけでなく、沿線の八王子、相模原、町田などの有力者も加わっています。最近、関東大震災にも耐えた絹倉庫、横浜の旧三井倉庫が取り壊され、絹と共に発展してきたまちの記憶が一つ消えました。(2015.02.01)

 

 

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その67

玉堂邸の庭園
玉堂邸の庭園

~庭園―玉堂邸と万代邸~


 2001年(平成13年)10月、浜市金沢区富岡の市指定文化財であった旧川合玉堂別邸が焼失、2002年(平成14年)1213日焼失後初めて庭園が公開されました。難を逃れた茅葺の門をくぐって紅葉が美しい庭園へ。玉堂邸は1919年(大正8年)に完成した茅葺数寄屋造りのアトリエ兼住居で、玉堂は1936年(昭和11年)まで過ごしています。畑だったところを買い求め、自然の姿の庭を造り、雑木、竹、梅などを植え、小川を配した回遊式庭園としました。当時は眼下に海が広がり房総まで見はるかせたそうです。

 横須賀市津久井に万代順四郎が夫人の保養のため住み始めたのが1936年(昭和11年)。松の向こうに海が光る小高い丘でした。夫妻は戦時中の東京大空襲で住居を焼失してからは津久井に住み、庭を開墾して畑にし、果樹を植えミツバチを飼い自給自足で生活します。毎朝馬糞を拾い肥料も自前で作っています。順四郎亡き後、トミ夫人はバラを育て地域の方々との触れ合いを大切に暮らして来ました。夫人の没後横須賀市へ寄贈され、現在は松を主体とした庭園で、地域の避難場所ともなっています。茅葺数寄屋風の佇まいと共に大切にしたい景観です。畑を庭園に、庭園を畑にと時代と住む人によって風景は作られていきます。(2015.01.15)



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その66

立派な梁の弓道場
立派な梁の弓道場

~信州松代の文武学校~

 

 真田家9代藩主・真田幸教が、武士の子弟の教育に蘭学・西洋砲術などを取り入れた文武学校を開校したのは1855年(安政2年)、建物は1853年(嘉永6年)に完成しており、近代学校建築への過渡期の建物と言われています。1870年(明治3年)に廃校になり、廃藩置県後は松代小学校の校舎としても使われましたが、1953年(昭和28年)に国指定史跡となり、1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)にかけて保存修復整備が行われ、1979年(昭和54)年から一般に公開されています。現在文学所と御役所は修復中でしたが、槍術・弓術・剣術・柔術の各道場は今も使われており大会などが行われるそうです。それにしても各道場の梁の太さ、長さ、数の多さは圧倒的で、160年を超える歴史を感じます。中には他へ移築した建物を再移築してきたものもあります。

整備にあたって隣接する現・松代小学校の4階建てコンクリート校舎を木造2階建てに建て替え、周辺の景観との調和が図られました。今でも小学校の入・卒業式には文武学校の門を通るそうです。

  街並み景観をまちづくりの重要なポイントとし、「城下町松代街並み景観賞」を設け、受賞建物には木製プレートが付けられています。(2015.01.01)

 

 

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その65

公開されている象山地下壕
公開されている象山地下壕

~平和を伝える松代地下壕~

 

 第2次世界大戦末期の1944年(昭和19年)、大本営を移転し、本土決戦の最後の拠点とするため、長野市松代町の《舞鶴山、皆神山、象山》を中心に善光寺平一帯に分散して造られたのが「松代大本営」と言われる地下壕です。敗戦までの9ヶ月間に10キロ以上掘り進むため、延べ300万人の労働者と、当時で約2億円が投入されたと言うことです。立ち退きや強制労働させられた地元住民、動員学徒、約6000人とも言われる朝鮮の人たちも工事に従事しました。舞鶴山の地下壕は、天皇・皇后御座所と宮内省などが移転予定で、壕の内部は皇居にふさわしい建築がなされ、巨大なトンネルの中に家が建てられています。ここは現在、東洋一と言われる気象庁の地震観測所となっています。

 政府機関の移転予定だった象山地下壕は、佐久間象山誕生の地に近く、現在は《思索の小道》と名付けられた観光コースの近くにあります。碁盤目状に掘られた総延長5853mのうち500mが公開されています。入り口近くに工事のために命を落とした日本人と朝鮮人の慰霊のため《追悼平和祈念碑》が1995年(平成7)年に建てられ、平和の大切さを伝えています。忘れてはならない記憶です。

 (2014.12.15)

 

 

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その64

山懐に建つ吾蔵記念館
山懐に建つ吾蔵記念館

~川村吾蔵記念館~


 中央公園に立つ「デッカー司令官」胸像の作者、川村吾蔵記念館が長野県佐久市田口にあります。小海線の臼田駅から徒歩で20分ほどの龍岡城跡に隣接した五稜郭公園の一角に2010年(平成22年)に開館しました。

吾蔵は、臼田村(現佐久市)の米屋の3男として1884年(明治17年)に生まれ、中学時代に芸術家を志します。20歳で渡米、その後渡仏しエコール・デ・ボザールなどで学び31歳のときニューヨークに移ります。肖像彫刻を制作する傍ら酪農家から理想体型の乳牛模型を依頼され、理想的な乳牛の模型を100対も作ったことで「牛の吾蔵」として知られるようになります。1940年(昭和15年)に帰国。太平洋戦争開戦で世田谷のアトリエから故郷へ疎開、終戦を迎えます。

 終戦後、デッカー横須賀基地司令官が軽井沢を訪れた際ガイドを務め、司令官から「横須賀基地美術最高顧問」として横須賀へ招聘され、家族と共に1947年(昭和22年)横須賀へ。EMクラブ舞台裏の大部屋を住まいとアトリエに創作活動を行い、デッカー司令官胸像、サングラスとコーンパイプのないマッカーサー像などを制作しましたが、1950年(昭和25年)胃癌のためヨゼフ病院で死去。(2014.12.01)



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その63

市民文化資産の軍港逸見門
市民文化資産の軍港逸見門

~逸見波止場の衛門~


 秋のバラが美しいヴェルニー公園には、国重文のスチームハンマーを展示するヴェルニー記念館、小栗上野介とヴェルニーの胸像、開港碑、海軍の碑を始め海軍に関係する慰霊碑、正岡子規の歌碑など横須賀の歴史を語るモニュメントが点在しています。歩道近くに帽子をかぶったような形で建つ8角形の一対の建物が市民文化資産に指定されている旧逸見波止場の衛門です。「衛門」は軍施設入口にある門・番兵小屋という役割で、それぞれに「軍港逸見門」「逸見上陸上」と記されています。元はもう少し横須賀駅寄りにありましたが、公園整備の際に、胸像や記念碑などと一緒に今の場所に移動しました。衛門の建物は高さ約4メートル、銅板葺ドーム型屋根で、鉄筋コンクリート造、外壁はタイル張り、鉛筆のように先がとがった8角柱になっていて、地面にささった状態で建てられています。建築年代は明治末から大正初期と考えられます。以前、火災により一棟のやねが焼け落ち、再現されましたが本来の形より少しこんもり丸くなっている方が再現されたドームです。ボードウオークの下の岸壁は昔の石積みのままで、ガントリーグレンの痕跡を見ることもできます。(2014.11.15)



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その62

落ち着いた趣の黒塀通り
落ち着いた趣の黒塀通り

~住民がつくる美しいまちなみ~

 

村上には趣のある小路がいくつもありますが、黒塀通りという塀を黒く塗った安善小路と言う通りがあります。松尾芭蕉がこの地に宿泊し、寺町の浄念寺に参詣したとされています。浄念寺は日本で一番大きい土蔵造りの寺、1818年(文化15年)の建築、江戸で図面を引いて村上の宮大工が建てました。1964年(昭和39年)の新潟地震で壁がすっかり落ちてしまい、トタンを張って凌いでいたそうです。それも限界にきていよいよ壊そうかと言う時に岐阜高校の水野先生と言う方が調査に来て、日本中で他にない大変貴重な建物だと言われ、市長を代表として行政、市民、檀家が一体になり資金集めを行い無事元の姿になり、1991年(平成3年)、国の重要文化財に指定されました。

 安善寺の山門、古い家、土蔵などを活用して美しい街並みを作ろうと言う《黒塀プロジェクト》が2002年(平成14年)に住民の発意で始まりました。黒塀1枚1000円で寄付を募りブロック塀の上に板を張り黒ペンキを塗り風情ある街並みを作りだしています。現在340mを達成しています。《景観に関する住民協定》を1000人の協力で締結。国交省の《美しいまちなみ大賞》を受賞しました。(2014.11.01)

 

 

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その61

村上の町屋吉川酒舗
村上の町屋吉川酒舗

 ~ 城下町村上の町屋~ 

 

   新潟県村上市は、お城山と呼ばれる臥牛山の麓に広がる城下町です。肴町、鍛冶町、寺町、細工町など町名が町の個性を語っています。営業中の町屋の公開、家々に伝わる屏風を展示する「屏風祭り」など観光事業が盛んで、訪れる観光客にも皆さん親切に話をしてくれます。肴町の吉川酒舗の若旦那の話し。「村上は間口で税金が決まったので、うなぎの寝床みたいに奥へ長いのです。この店は2000年(平成12年)に修理した時、1826年(文政9年)の棟札が見つかり、大工棟梁高田儀左衛門と記してありました。入り口の大戸に1827年(文政10年)米屋と記されているので、当初は米屋で土間に米俵が積んであったようです。客間の梁は溜漆塗りで、1年に一度磨くのですがピカピカです。」漆を寝かせて上澄みを使う溜漆は、堆朱が盛んな当地にあっても貴重なもの。土間、大戸、神棚などすべてが受け継がれています。また、侍屋敷の特徴があり、18世紀後半に建築されたと思われる茅葺民家の重要文化財若林家住宅には、地域のボランティアの方がお茶の接待、お土産販売をしていました。酒と鮭の町村上は、朝日連峰を源とする三面川の鮭漁、伏流水による酒造りも盛んで、〆張鶴、大洋盛があります。 (2014.10.15)

 

 

 

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