まちの記憶

2012年3、4月

 観音崎公園遊歩道

 

2012年5月

 若松町3丁目の飲食店街

 

2012年6月

 大滝町のジャンボ・スクエア・ヨコスカが完成したのは1970年(昭和45年)11月4日。地上5階地下2階建てで、西友横須賀店をキーテナントに開店したのは、同じく11月25日でした。20012年(平成24年)4月末をもって再開発のため閉店しました。跡地一帯には超高層の新たなビルが建ちます。

 

2012年7月

  大滝町2丁目「石井ミシン商会と周辺」

 大滝町再開発地域の一角にある石井ミシン商会は、木造3階地下1階建の店舗兼住宅として1929年(昭和4年)に建てられました。創業は1913年(大正2年)で、海軍御用達のミシン販売や工業用ミシンのメンテナンスも行っていました。建築当初、外壁は銅板葺だったそうです。街区一帯の再開発にあたり、ユニークな姿が消えます。

 

2012年8月
 さいか屋横須賀店大通り館 

  横須賀の老舗デパート、さいか屋大通り館が閉店したのは、2010年(平成22)年5月11日。創業は1872年(明治5年)、横須賀磯崎(今の本町)に岡本傳兵衛が雑賀屋呉服店を開業した時に始まります。関東大震災後の1928年(昭和3年)、二代目傳之助が大滝町の現在地に3階建ての店舗を新築。1990年(平成2年)にはファション・グルメ・文化の3館編成となり、横須賀を代表する店舗として親しまれてきました。跡地には高層マンションが建てられる予定です。

 

2012年9月、10月
 旅館・新井閣  

 横須賀駅から本町に向かう国道16号沿いに、起り(むくり)(から)破風(はふ)の堂々とした姿で親しまれていた新井閣は、1930年(昭和5年)に建てられました。それ以前は汐入駅近くで営業していましたが、湘南電鉄横須賀軍港駅(現・汐入駅)の開業に伴い、新築移転。建築主の澤田半(さわだなかば)氏が当世第1級にと贅を尽くした造りで、各部屋ごとの特徴的意匠や軍港風景のステンドグラス、龍型の雨樋など素晴らしいものがありました。1997年(平成9年)に建て替えのため取り壊されました。

 

2012年11月
 船津眼科医院  

   上町商店街を右折、市立うわまち病院手前に瀟洒な洋館がありました。1927年(昭和2年)に建てられた船津眼科医院です。キングポストトラスという洋小屋組みの洋館で、すっきりした美しさは思わず見とれてしまうほどでした。建築主は共済病院の初代眼科部長を務めた船津英治氏。ハイカラな気風の持主で、建物にもその一端がうかがえます。2009年(平成21年)に取り壊され、現在は駐車場となっています。

 

2012年12月

  京急県立大学駅  

 傾斜のきつい切妻屋根に、小屋屋根ともいわれるドーマーウインドが付いた洋風の小さな駅舎は、京急県立大学駅の昔の姿です。京浜急行の前身は、1930年(昭和5年)に黄金町と浦賀間を結ぶ湘南電鉄として開通しました。その時の駅名は「横須賀公郷」その後「京急安浦」と改名し、県立福祉大学開学に合わせて現駅名となり、駅舎も一新されました。写真の駅舎はほぼ開業当時のものです。

 

2013年1月、2月

佐野医院
2013年1月、2月 佐野医院
 京急県立大学駅向かい側にあった佐野医院。1931(昭和6年)建築の木造洋風建築です。写真の右手に入口があり、もちつきウサギのステンドグラスがありました。細長いアーチ型窓、腰壁のスクラッチタイル、霧除け庇の大胆な銅板など個性的な建物でした。2006年(平成18年)に取り壊されました。
 
2013年3月、4月
  ヨネイ横須賀出張所

 本町1丁目、国道16号線とベースの間にある道は終戦まで鎮守府へ通じていました。この道沿いに建っていたヨネイ横須賀出張所は、バルコニーを兼ねた大きな柱型の玄関ポーチが特徴的な事務所建築でした。シンプルな外観の中に、全体を引き締める効果のコニス、2階窓上部のデンティルや壁面の連続模様がさりげなく施されたおしゃれな建物でしたが、2007年(平成19年)に取り壊されました。

  

2013年5月
 湘南学院  
  湘南学院は、2013年(平成25年)4月、日の出町から佐原へ新築移転しました。湘南学院は1931年(昭和6年)に汐入町に「軍港裁縫女学院」として創設され、若松町校舎時代を経て、1939年(昭和14年)に現在の日ノ出町に移転しました。写真の建物は、かつて料亭萬仙荘の湯殿だったもので、学院の所有になってからは職員室や幼稚園として使用されました。美しいS字瓦葺で内部の腰壁には白の角タイルが張られ、大正時代の面影を残していましたが、校舎増築時に取り壊されています。

 

2013年6月
  松岡写真館 

  大滝町の松岡写真館は明治10年代に開業しました。写真の建物は、関東大震災後に、被害を受けなかった民家を移築して建てられたということです。当時は、照明が発達していなかったので、写真館の多くは2階がスタジオで北側にすりガラスを使った採光用窓がありました。松岡写真館も2階にスタジオ、着替え室があり、外観は洋風下見板張り、幾何学模様に仕切られた色ガラス入りの縦長窓が昭和初期の雰囲気を伝えていました。レトロな写真館としてテレビドラマにも登場しました。

 
2013年7月
  湘南内科医院 
  日の出町の湘南内科医院は、昭和初期に建てられたモダンな建物でした。フランス瓦の切妻屋根、下見板と漆喰で仕上げた外壁、光を呼び込む縦長窓で清潔感漂う医院建築です。戦前は伝染病棟、戦後は結核病棟として使われました。内部もモダンな意匠が随所に施されていました。
 
2013年8月

 旧豊浦医院 

 荒崎の手前、大きくカーブしたあたりに建っていたのが地域医療に貢献した豊浦医院でした。瓦葺寄棟屋根で洋風下見板張りのこじんまりした建物です。大正末頃に当時、東洋一のサナトリウムと言われた茅ヶ崎の南湖院の建物の一部を移築したものです。周りの民家とは違う趣が感じられますが、現在は取り壊されました。

 

2013年9月、10月

 双葉写真館

   汐入の双葉写真館は、1936年(昭和11年)に建てられました。3連の洋風窓が並ぶファサードはスクラッチタイル張り、ツタの絡まるおしゃれな建物でした。

 海軍の街として賑わった戦前は、この界隈にも数件の写真館があり、面会に来た家族や兵隊さんなどで賑わったということです。自然光を取り入れるため、写場は2階、1階は居住部分でした。1996年(平成8年)、建て替えられました。

 

2013年11月

   旧坂本郵便局

  坂本郵便局と坂本小学校は長く地域に親しまれてきました。小学校は無くなりましたが、郵便局は旧郵便局の隣に新しく建てられて業務を行っています。

 かつて坂本は、汐入、池上、佐野、逸見を結ぶ交通の要所でした。1930年(昭和5年)ごろ建てられた旧坂本郵便局は洋風と和風が混然としたような外観で、地域のランドマークとも言えました。2階の窓、玄関庇、ドイツ下見の外壁など特徴的な部分で、建築当時は瓦屋根だったそうです。この建物は2004年(平成16年)、道路拡幅に伴い姿を消しました。

 

2013年12月

  横須賀ベーカリー

 横須賀中央駅から共済病院へ向かう商店街にあった横須賀ベーカリーが、建て直しのため取り壊されました。関東大震災後の1928年(昭和3年)に建てられた2階建ての店舗兼住宅で、解体中に当時の建物の様子を知ることが出来ました。2階の梁には太い松丸太が使われ、壁は小舞壁(竹の下地の土壁)でした。来年4月には新店舗がオープンします。休店中に考えられた新商品が、名物のソフトフランスやシベリヤと共に店頭に並ぶとのことです。

 

2014年1月 

  洋館のついた住宅

 1930年(昭和5年)に建てられた日の出町の肥後邸。建築主の肥後富一郎はこのあたりの埋め立て事業を行い、埋立て当時このあたりは肥後町と言われました。フランス瓦の洋館部分は事務所、和館は住宅です。現在、レストラン、高齢者住宅、小さな子どもとお母さんが自由に遊べる愛ランドプラザに建て替えられましたが、肥後邸時代の花崗岩の門柱がメモリアルとして残されています。レストラン横に祀られた、埋め立て事業を語る馬頭観音と共に街の歴史を語っています。

 

2014年2月

  事務所仕様の洋間

 京急大津駅前にあった個人住宅。空色のフランス瓦が美しい洋館のついた家でした。当初は木造2階建てだったそうですが、1941年(昭和16年)当時、勤めていた会社が万一空襲などの被害にあった場合、臨時事務所とすることを目的に改築、台所を移して洋館部分を増築したそうです。玄関脇の事務所仕様の洋間は、細かく桟で区切られた型ガラス入りの窓、腰壁のスクラッチタイルなどが当時を偲ばせていました。2013年(平成25年)解体されました。

 

2014年3月

  金星劇場

   若松町1丁目にあった金星劇場は震災後に建てられた劇場で、2階は住宅になっていました。2012年(平成24年)に閉館した時には成人映画を上映していましたが、芝居小屋、ストリップ劇場、ニュース映画、漫画映画、西部劇映画専門、日活ロマンポルノなどを上映していたことがあったそうです。閉館後、看板がはずされると、正面入り口と左右の出入り口の上に劇場の名を表す「金の星」がはめ込まれていました。外観はピンクのタイルが張られた2階の5本の柱が特徴でした。現在は駐車場になっています。

 

2014年4月、5月

  ライオン堂

 ライオンの石像が店先に鎮座する大滝町のライオン堂は、おしゃれな洋風の建物でした。コンパクトなファサードはシンメトリーで安定感があり、随所に様々なデザインが見られます。パラペットは中央にせり出すように積み上げられた幾何学模様、歯のような形が連続するデンティル、規則的な縦長窓など。昭和初期の建築で、当初はレストランだったようです。写真の時期は印刷所で、裏は駐車場でした。現在は取り壊されてすべて駐車場になっています。

 

2014年6月

   海軍航空技術廠

   横須賀市浦郷町に海軍航空廠が竣工したのは1933年(昭和8年)ごろでした。1940年(昭和15年)に海軍航空技術廠と改称、航空機の機材の性能の研究・調査などにあたっていました。建物は鉄骨造でシンメトリーに構成された3階建て、中央は4階建てで中心となるのは旗竿刺し、装飾的な持ち送りのあるエントランス上の2階部分にはバルコニーが張りだし、堂々とした様は軍の威厳を表していました。昭和初期の価値ある建物でしたが2004年(平成16年)解体されました。

 

2014年7月

   本町の通り

 国道16号沿いの米海軍基地正門周辺はマンションなどへの建て替えが進んでいます。左端にトヨタの看板、震災後に建てられた瓦葺二階建て商店と英文翻訳業の2軒はマンションに建て替えられ、右端に見える瓦葺商店もビルに建て替えられました。

 

2014年8月

 船越の飯田屋 

   船越仲通商店街中ほどの路地を入ったところにある割烹飯田屋は、1928年(昭和3年)創業し、2007年(平成19年)に廃業しましたが、建物は現存しています。

  ヒノキの舞台がある大広間、透かし彫りの欄間、手の込んだつくりの襖や建具など、海軍工廠で栄えた船越の往時を語る建物です。写真は大広間の床の間。 

 

2014年9月、10月、11月

  米が浜の文化興業

  国道16号に面した米が浜の「文化興業」社屋は、1938年(昭和13年)に松田組事務所として海軍技師設計により建てられた木造の近代建築でした。戦後は長く文化興業が使用していましたが、社屋移転により取り壊されることになりました。凹凸のあるユニークな外観でライト調とも言われ、横須賀市の景観賞を受賞しています。

 横須賀の歴史を語る建物が消えることになりました。

 

2014年12月

 銭湯 当世館

 上町1丁目、中里通り商店街の中ほどにある元銭湯の当世館は、大正初めに当時寄席だった「当世館」を買い、風呂屋に建て替え、名前は当世館を引き継ぎました。関東大震災で倒れ、今の建物はその後建て直しました。現在は廃業となりましたが、建物はそのままで、地域のお祭りなどの時に開放されることもあります。写真の時は若手グループの古書市。タイルの浴槽、男性女性の境にはモザイクタイル、鏡、カラン跡など賑わった営業当時を伝えています。銭湯も少なくなりました。 

 

2015年1月

   小松原医院

 聖徳寺坂上にあった小松原医院の白い瀟洒な建物は、1928年(昭和3年)に建てられた産婦人科医院でした。外観の特徴は規則的に並んだ縦長の窓。建物全体の印象を明るく、温かく、清潔に感じさせます。2棟の建物の間に物干し台を作ることで、奥の建物にも光が十分とりこまれます。基礎には松杭が大量に使われていたそうです。現在は、優しい印象の医院に建て直され、小松原レディースクリニックとなりました。駐車場奥に旧医院の庭にあったソテツが植えられています。

 

2015年2月

 横須賀税務署旧庁舎

 横須賀税務署は一昨年、上町から平成町へ移転しました。税務署のあった辺りは江戸時代には公郷村田戸と言って水田の用水用ため池「田戸堰」があったところです。池の端の地名もため池に由来しています。税務署の庁舎がこの地に建てられたのは1914年(大正3年)、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失し、その後幾度かの建て替えを経て1970年(昭和45年)に完成したのが鉄筋4階建ての庁舎でした。昭和40年代には縦のラインを強調するビルが多く建てられました。税務署前バス停も聖徳寺坂上に変更されました。

 

2015年3月

 横須賀警察署

 横須賀市役所前に建つ横須賀警察署は、2015年(平成27年)6月に新港町に新築移転する予定です。現庁舎は1970(昭和45)に完成した5階建てで、各階に規則的に並んだ大きめな縦長窓、うだつのような袖壁、モザイクタイルの縦のラインが建物全体の特徴です。横須賀警察署の開設は1877(明治10)で、平坂の児童図書館のあたりにモダンな洋風建築の庁舎が建てられています。

駐車場を含む広い跡地がどのように利用されるのか気になるところです。

 

2015年4月

 半原水源地

 1921年(大正10年)に海軍水道として完成し、戦後は横須賀水道として横須賀市民へおいしい水を送っていた横須賀水道半原系水道が、2015年(平成27年)3月31日に水利使用権が切れて廃止となりました。愛川町半原から、横須賀市逸見浄水場までの53キロを送水する水道施設の建設には、当時の最新技術と技術者が国家プロジェクトとして今でも使用に耐えられる施設づくりを行いました。表紙写真は2013年(平成25年)1031日に撮影したものです。全コースを踏査した資料集が完成しました。平坂書房、信濃屋で販売中。

 

2015年5月

 逸見浄水場

 横須賀水道半原系の水道施設は、旧海軍によって1921年(大正10年)に完成しました。横須賀から約53キロ離れた愛川町半原で取水し、逸見浄水場まで約1日をかけて原水が送られ、逸見浄水場で浄水したのち海軍工廠などへ送水されましたが、市民の水道としても分水されていました。戦後は市に移譲され、横須賀水道の象徴でもあった半原系統の水道施設は、2015年(平成27年)3月末で水利権が切れ、近じか取水扉が閉められます。なお、逸見浄水場の建物7棟は国登録文化財となっており、横須賀の水道の歴史を語っています。

 

2015年6月

 田浦町役場

 1928年(昭和3年)発行の「田浦町誌」によると、町役場はまちの中心である船越字駒寄の小高い丘陵に、鉄筋コンクリート2階建て、階下は事務室、階上は会議室で、最新式の建築法による堅牢で外観も美しい建物、と記されています。1926年(大正15年)12月中旬竣工、1926年(昭和元年)1228日執務開始。田浦町が横須賀市と合併した1933年(昭和8年)以降は田浦支所に。田浦行政センターが出来た後は学童保育所などとして使われてきましたが、2007年(平成19年)以降は空き家となっています。今でもデザイン性豊かな佇まいのまま、往時の田浦町の繁栄ぶりを偲ぶことが出来ます。京急田浦駅から10分ぐらい。

 

2015年7月

 聖ヨゼフ病院

   緑が丘諏訪神社前に建つ、特徴的なアール状の建物が聖ヨゼフ病院で、1939年(昭和14年)に建築士立原道造の所属する石本建築事務所の設計で建てられました。この地にはもと、諏訪小学校と横須賀市役所がありましたが、関東大震災で被害を受け移転、その跡地に海軍軍人家族のための病院「財団法人海仁会病院」として設置され、戦後は横須賀初のカトリック病院「聖ヨゼフ病院」として一般患者の診療を行うようになりました。

 

2015年8月

 みどり屋

 お祭り用品の店として知られる上町商店街のみどり屋。昭和初期の建物が点在するレトロな雰囲気の商店街の中で、目を引く看板建築です。関東大震災後の一時、バラック建築で商いを再開、その後、1931年(昭和6年)に現在の建物を建てました。銅板葺の外観、重くて大きなガラス扉、高い天井、色つき型板ガラスの美しい欄間。美しく丁寧に手入れされたお店に入ると、建物を大切にしている気持ちが伝わります。「第1回よこすか海の手景観賞」を受賞した建物です。

 

2015年9月、10月

 ティボティエ官舎

   横須賀製鉄所の副官、ティボティエの官舎として1870年(明治3年)ごろに建てられた東日本では最も古い洋館と言われています。2001年(平成13年)米海軍からの取り壊し予定の連絡があり、緊急調査が行われました。調査の結果、古い図面通りに洋風屋根組が残っており、木造の柱の間にレンガ積みの壁、石の基礎も見つかりました。「文化財建造物保存技術協会」立ち合いで解体工事が行われ、保存されてから10年が過ぎました。建物が建っていたのは対岸のヴェルニー公園から見える米軍基地内の小高い丘です。

 

2015年11月

 ドブ板通り

 本町ドブ板通りは、今では横須賀の観光地としての知名度が高く、ハンバーガーやカレーライスを目当ての行列ができるほどです。終戦直後は、進駐軍相手のキャバレーやスーベニアが立ち並び、女性はめったに立ち入れない場所でした。戦前は、日本の兵隊さんが故郷に帰る時などの土産物店でにぎわいました。ドブ板通りの地名の起こりは明治10年代後半で、元町の裏通りに流れていた溝川に板でふたをしたことに始まり、鉄板で蓋がされたのは昭和初期のようです。1811年(文化8年)のころは田園地帯で人家もなかったようです。 

 

2015年12月

 盛福寺管路隧道

 横須賀軍港水道として知られる半原系水道みちの、横須賀市内への入り口ともいえるのが、逗子市沼間と横須賀市田浦を結ぶ≪盛福寺管路隧道≫。全長158.2メートル、入り口には焼き過ぎレンガ、要石、帯石、笠石が装飾的に配されています。水道の専用隧道のため通行はできませんが、1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)までは一般の通行が許可されていました。ここから国道16号までは海軍の境界杭≪山形2条と海≫が多数みられます。

 

2016年1月

   旧横須賀市保健所の建物

 現在、米が浜の共済病院駐車場となっている一角にあるのは、横須賀市保健所だった建物です。保健所は1952年(昭和27年)10月に佐野から新築移転し、当初中央保健所という名称でしたが、米が浜の保健所と呼ばれ親しまれていました。1974年(昭和49年)に改築し、1997年(平成9年)に北部・南部の保健所を統合、横須賀市保健所となりました。2001年(平成13年)に西逸見のウエルシティ3階へ移転したあと、建物は衛生試験所として使われていましたが、現在取り壊し中です。子どもたちの検診や予防注射などに行った思い出のある方もいることでしょう。

 

2016年2月

    田戸台の旧裁判所合同庁舎

 旧裁判所の建つ丘は長官山と呼ばれています。突き当りに旧海軍の鎮守府長官官舎があることに由来しています。地方・家庭・簡易裁判所と検察審査会の入った合同庁舎は、2012年(平成24年)12月、新港町へ移転し、現在は空き家です。横須賀の裁判所は、1889年(明治22年)、汐入に治安裁判所横須賀出張所とし置かれたのが最初で、翌年に区裁判所と名称変更、関東大震災で全壊し、その後何か所か移転、田戸台へは1949年(昭和24年)に来ました。木造庁舎でしたが、1957年(昭和32年)に鉄筋コンクリート建てに、その後、増築を繰り返し、1985年(昭和60年)に現在残る建物が完成しました。窓の大きな4階建の明るい雰囲気の庁舎で、平成町からも望めます。

 

2016年3月

  大津の婦人会館

 馬堀町1丁目の住宅街に建つ「婦人会館」は、『施設配置適正化計画』の適用建物としてこの3月末で閉館となります。1980年(昭和55年)に開館して以来、日本庭園を含め、多くの市民に愛されてきました。元は浦賀ドックの上級社員の社宅、接待用や福利厚生施設などとして使われてきました。木造平屋一部2階建てで、平屋部分は明治時期、2階分は昭和初期の建築と思われ、会議室、調理講習室、学習室、幼児遊戯室などがありました。敷地2288.67㎡、建物388.7㎡。閉館後は売却の予定とのことです。 

 

2016年4月

  旧横須賀鎮守府長官官舎

 「長官山」と呼ばれる田戸台の丘の上に建つ海上自衛隊田戸台分庁舎は、横須賀鎮守府司令長官官舎として1913年(大正2年)に竣工した、平屋建て洋館と2階建て和館の接合した住宅です。旧海軍司令長官34代、終戦後は9人の在日米海軍司令官の官邸として使われ、1969年(昭和44年)に防衛庁に移管されました。今年は4月1日から5日まで一般公開されています。掲載写真は今から30年以上前に撮った雪景色の長官邸です。その後何度か改修され、現在は外壁にレンガタイル、チューダーアーチにはサッシがはめ込まれ、内部も改装されていますが、建築的、歴史的に貴重な横須賀の財産の一つであることに変わりありません。

 

2016年5月

   廃止となった半原水源地沈殿池

 半原水道の水は、中津川右岸の山裾をくり抜いた取水口から、約500メートル先に4池ある沈殿池を経由して逸見浄水場へ送られていました。廃止になるまで大正時代の施設・設備も多く稼働していました。現在、沈殿池は空の状態でコンクリートの底が見えます。側壁はコンクリートブロック造で、19331934年(昭和8~9年)ごろ水需要が増えたため沈殿池周囲の壁を1メートル嵩上げしました。上部の黒く見える部分がそれです。向かい側にフロート、オーバーフロー管が見えます。愛川町ではこれら施設の利活用を考えているようです。横須賀市としても7市1町に関わった近代遺産の活用が考えられないでしょうか。

 

2016年6月

  米が浜≪料亭小松≫

 海軍料亭として知られた≪小松≫は、1885年(明治18年)に田戸で開業、その後、1923年(大正12年)に米が浜に新築移転しました。その時の建物は写真右側に屋根の部分が見える旧館で大工棟梁は小笠原兼吉、現在はマンションに建て替えられています。写真左の大広間のあった新館は1934年(昭和9年)竣工の木造大建築で、大工棟梁は藤井寅吉。大広間には6坪の舞台、中央には桐と鳳凰の二重欄間、折り上げ格天井に紫檀の床柱が堂々とした構えでお客さんを迎えていました。2016年(平成28年)5月16日夕方、休業日で無人の建物から出火、炎と黒煙に包まれ無残にも灰燼と帰してしまいました。横須賀の歴史の1ページが閉じられたと感じました。 

 

2016年7月

  三春町の旧・横須賀市救急医療センター

 横須賀市救急医療センターは、田戸台にあった旧横須賀市医師会館内に1977年(昭和52年)に開設されたのが最初でした。1980年(昭和55年)4月1日に三春町の国道沿いに新築移転、夜間・休日などの急患の診療に当たってきました。2005年(平成17年)からは指定管理者制度により横須賀市から(社)横須賀市医師会が管理運営に当たっています。2014年(平成26年)4月1日、新港町に新築移転し、内科、小児科、外科の夜間などの急患に対応しています。三春町の旧施設は、2016年(平成28年)5月に建物が解体され、現在更地になっています。

 

2016年8月

  旧横須賀重砲兵連隊営門

 現在坂本中学、桜小学校の校門として残るレンガの門柱と塀は、横須賀重砲兵連隊の前身である重砲兵第一・第二連隊の正門として1907年(明治40年)に竣工した横須賀に残る数少ない明治時代の建造物であり、市民文化資産に指定されています。上町方面には陸軍施設が多く、終戦後は兵舎などを新制中学の校舎に転用、多くの子どもたちの学び舎となりました。坂本中学と隣接して不入斗中学もあります。

 

2016年9月

  市立万代会館

 津久井の市立万代会館は、経済界で活躍し、青山学院理事長、校友会長などを歴任した万代順四郎(18831959)氏が、トミ夫人の保養のため1937年(昭和12年)に購入した別荘でした。順四郎氏亡き後もここで暮らしたトミ夫人は1978年(昭和53年)永眠。夫人の遺志により土地・建物・維持保存のための有価証券とともに横須賀市に遺贈され、市立万代会館として市民に開放されています。施設適正化計画では老朽化のため廃止が検討されていますが、保存活用を願う声が上がっています。10月1日「湘南邸園文化祭 横須賀の茅葺民家万代会館で過ごす」を開催します。皆様のご参加をお待ちしています。

  

2016年10月

  横須賀上町商店街の看板建築

 関東大震災の復興期に建てられた看板建築と呼ばれる商店建築が多く見られるのが上町商店街です。震災後、防火目的で建物前面を銅板やモルタルなどを使い、ビルの様に立ち上げ、装飾的に仕上げたモダンな商店建築を看板建築と呼んでいます。2軒の看板建築が並んでいますが、2階を見ると、左側の建物には両側に戸袋があり、右側の建物には縦長の上げ下げ窓があります。左側は和風、右は洋風のデザインが取り入れられていることがわかります。

 

2016年11月

 築110年の石渡文右衛門邸

 三春町の奥まった一角に1907年(明治40年)に建てられた文右衛門家があります。文右衛門家は代々名主を務める網元だったそうですが、この家を建てた明治のころには海軍工廠へ行っていたとのことです。大黒柱と恵比寿柱、小舞壁を中心に座敷が配されています。書院造の座敷などほとんど建築当時のままですが、繊細な組子障子には保護のためガラスを嵌め込むなど、家の隅々まで建物を大切に伝え、住まわれている様子がうかがえます。樹齢300年以上という黒松は昇龍の姿で家を守っているようでした。

 

2016年12月  

 元海軍大将 井上成美の住居跡

 横須賀市長井、荒崎海岸を眼下にした台地に≪最後の海軍大将≫と言われた井上成美が最後まで暮らした住宅があります。探偵団が初めて訪れたのは1993年(平成5年)のことで、相模湾に面した日当たりのよい海側に居間、応接間、寝室があり庭には大きなソテツが植えられていました。建物は、1934年(昭和9年)に建てられたイギリスの田舎風赤レンガ葺き平屋建てで暖炉が2か所、玄関には≪INOUE≫彫られた楕円形で真鍮の小さなプレートが付いていました。その後さまざまな変遷があり、現在は無人で建物の外観はすっかり変わっていますが、井上を語る証人となっています。(関連情報 建築探偵のアングル112

 

2017年1月

   田戸の赤門と道標

表紙2017年1月 田戸の赤門と道標 聖徳寺坂下に横須賀市民文化資産に指定されている長屋門があります。≪田戸の赤門として親しまれている木造瓦葺の寄棟造り、この辺りでは珍しいなまこ壁の腰壁で、間口8間、奥行き2間の堂々とした姿は今でも田戸のランドマークです。戦国時代は小田原北条氏に仕えた浜代官、江戸時代には三浦郡の総名主を務めた永嶋家の門です。中央の赤く塗られた門扉はケヤキ材で江戸時代のもの、他の部分は何度か手を入れてあるとのことです。赤門へ向かって右角に≪公郷村之内大田津 右大津・浦賀道 左横須賀・金沢道≫と刻まれた石造円柱形の道標があり、永嶋家に沿った細道が昔の浜道でした。

 

2017年2月

 東中里町内会館

表紙20017年2月 東中里町内会館

 町内会館の建物は地域によって様々ですが、うわまち病院近くにある東中里町内会館は洋風デザインを基調としたファサードが特徴で、探偵団で訪れた町内会館では市内唯一と言えます。室内は2階に大広間がある和風の造りで、1932年(昭和7年)に建てられました。水平ラインを強調したシンメトリーの構成、モダンな建物の多い上町らしい町内会館です。東日本大震災後、地域での助け合いの大切さが再認識され、コミュニティーの中心的役割の町内会や自治会活動が見直されてきました。 

2017年3月

   立川紙店

 汐入駅前ロータリーの商店街に、ひときわ目を引く大きな切妻屋根と蔵のある「立川紙店」がありましたが、この2月に特徴ある姿を消しました。立川紙店は藤沢出身の立川安五郎が1872年(明治5)年に湊町、現在のヴェルニー公園あたりで創業、一帯が軍用地となった明治20年代半ば以降に汐入に新築移転、防火のため蔵を造りました。当初は漁網・漁具・たばこ・麻なども販売していたそうです。若松町の川島紙店も同時期に湊町で創業、材木商を兼ねていました 。

 

2017年4月  

 田中屋呉服店

 田中屋呉服店は若松町3丁目、米が浜通りへの角にあります。創業100年近くになる老舗で、初代は滋賀県彦根出身の梅吉さん。この場所へは関東大震災後に移ってきたそうです。建物は昭和初期に見られる特徴的なデザインが施された看板建築で畳敷きの売り場、大きなショウウインドウには季節に応じた品物が展示されていました。現在、建て替え中

で、12月末ごろには新装開店するそうです。

2017年5月

 横須賀の看板建築

 看板建築と呼ばれる商店建築は、1975年(昭和50年)に藤森照信東大教授が学会で発表し名づけられました。以前は銅板張りとか額縁の家などとも言われていたそうです。1923年(大正12年)の関東大震災後から昭和初期にかけて防火の必要から建物前面に銅板やタイル張り、モルタル塗装などに装飾的な細工を施したりして建てられました。横須賀では下町、上町、田浦などに多く見られました。写真の建物は本町の三河屋さんです。因みに大火にみまわれた街でも昭和初期には看板建築が多く建てられています。

2017年6月

  JR横須賀駅

 階段のない駅として知られるJR横須賀駅は1889年(明治22年)6月16日に開業しました。現在の駅舎は1940年(昭和15年)に新築されたものですが、1914年(大正3年)の改築当時の面影を伝える駅舎と言われています。正面の丸いかもめマークの所には時計が嵌め込まれていました。駅舎右手からは乗車券を呈示して手荷物を託送するチッキの窓口がありましたが1986年(昭和61年)、制度が廃止されました。ヴェルニー公園ができる前には海軍工廠への引き込み線路が残っていました。コンコース、ホームなどに昔の様子が見られます。

2017年7月

 洋館付き住宅

2017年7月 洋館付き住宅

 ドブ板通りの山側、横須賀幼稚園手前に建つ個人住宅です。急勾配で緑色の洋瓦が美しい洋館付き住宅です。1936年(昭和11年)建築で、国府津の宮大工夏目猶吉が泊まり込みで建てたということです。外壁のスクラッチタイル、色ガラス入りの上げ下げ窓も当時のままで、主屋の和館の瓦も重厚で全体に安定感が感じられます。海軍水交社御用時代から現在まで、移り変わりゆく街の様子を語る建物です。 

2017年8月

 猿島の発電施設

 猿島に上陸してまず目につくレンガ造の建物は、電気燈機関室として1893年(明治26年)から1895年(明治28年)に建設されたもので、島の上部にある電燈所(照明所)の照明用発電を行っていました。内部は右側に発電機室、左は汽潅室で、石炭庫があり、そばに地下水槽があります。機械室の奥には一時宿泊用の小部屋がありました。煙道を通った煙はレンガ積み煙突へ送られます。積みかたはイギリス積み(オランダ積み)で、明治期のレンガ建造物として貴重な歴史・文化遺産です。 

2017年9月

 昭和を伝えるイタリアン

 京急逸見駅にほど近い商店街にあるイタメシパッポーナは、昨年6月にオープンしたイタリアンレストランです。建物は昭和初期建築と思われる看板建築で、以前は牛乳屋さんでした。アーケードの上には装飾的なファサードが向かいの歩道から見えます。33年間の料理人キャリアに終止符を打って2年半後、偶然通りかかったこの建物は今まさに解体作業中。一瞬にしてほれ込んだマスターはもう一度お店を開くことになりました。入り口ガラス戸、ひびの入った土間、大型冷蔵庫あとはそのままに、引き違い窓は厨房の食器戸棚、2階への階段踏板はカウンターの腰板にと元の建物を引き継いで復活した建物も喜んでいるようです。

2017年10月

 保存活用が決まった万代会館

 施設適正化計画で廃止となっていた市立万代会館の存続がこの2月に決まりました。今後どのように運営されるのかははっきり決まっていませんが、まずは基礎調査を行い、建物のゆがみや不具合を洗い出して修理や補修などを行い、活用方法を決めていくことになります。探偵団は1014日湘南邸園文化祭の一環として今年も≪横須賀の茅葺民家 万代会館を寿ぐ≫を開催します。保存が決まったことを祝い、市指定無形文化財≪佐島の御舟唄≫の皆さんにもご参加いただきます。皆様にご参加いただきご意見をお寄せいただければ幸いです。

2017年11月

  JR横須賀駅コンコース

 今年の6月に掲載したJR横須賀駅の再登場です。1940年(昭和15年)に建築され、それ以降、部分改修は行われましたが建築当時の姿を伝えているとされてきました。階段のない駅として何気なく通過するコンコースの天井板がこの10月にはずされ、屋根を支えるトラスが登場しました。がっちりしたトラスは軍港駅の駅舎としての堅牢さを物語っています。塗装と耐震補強を施したそうで、今後はレトロな街の入り口として利用客の目を楽しませてくれます。  

2017年12月

    国登録有形文化財横須賀上町教会

2017年12月 国登録有形文化財横須賀上町教会

 2003年(平成15年)に文化財登録された上町教会は1931年(昭和6年)に建築されました。下見板張りの外観にとんがりアーチの窓が並んだシンプルな教会は、モダンな街並みの上町を語る建物でもあります。左側の2階建て牧師館部分は建築当初は平屋でした。礼拝堂は当時のままの姿でめぐみ幼稚園の園舎としても使われています。このほど耐震補強も含め2階建て部分を改修することになりました。24日にはどなたでも参加できるクリスマスキャンドル礼拝が行われます。

2018年1月     

 汐入商店街の看板建築

 汐入商店街は戦前から海軍工廠への通勤路として賑わっていました。朝晩は工廠へ通う職工の下駄の音で話も聞こえないぐらいだったとのこと。震災後の道路整備に合わせ、看板建築や出し桁の商店が建てられ、現在も当時を知る建物を見ることが出来ます。写真のクリーニング店は紺屋(こうや・染物屋)として1933年(昭和8年)に建築され、終戦後からクリーニング店になったそうです。建築は地元の大工さんで、竣工記念に設えてくれたという立派な神棚が今も商売繁盛と家族の健康を見守っています。 

2018年2月

 長岡半太郎記念館・若山牧水資料館

2018年2月 長岡半太郎記念館・若山牧水資料館

 世界的物理学者で第1回文化勲章受章者の長岡半太郎博士が、子息の家庭教師だった森崎盛之助の紹介でこの場所に土地と茅葺農家を購入し、別荘としたのは1910年(明治43年)。風光明媚なこの地で亡くなる1950年(昭和25年)まで過ごしました。1981年(昭和56年)、博士の業績を顕彰するため京浜急行が茅葺民家風の記念館を建て横須賀市へ寄贈したのが現在の記念館・資料館です。室内には元の建物の大黒柱が展示されています。保養や療養に適した下浦には明治の初めから著名人が多く逗留しています。トミ夫人の保養のために万代順四郎が津久井に住んだことも、現在医療施設が多いことも下浦の恵と言えましょう。 

2018年3月

 千代ケ崎砲台跡

2018年3月 千代ケ崎砲台

 首都の玄関口の守りとして観音崎砲台、猿島砲台に次いで江戸時代の平根山台場跡を中心に建設されたのが西浦賀の千代ケ崎砲台です。このたび第3砲座跡と左翼観測所跡が発掘調査され、砲床下部構造などが公開されました。構造自体がしっかり残っているのは貴重であるとして国指定史跡となり現状保存されるそうです。弾薬庫などには小菅集治監のレンガ、砲床には真鶴の新小松石、擁壁には房州石、塁道側溝には御影石も一部使われています。人力で築かれた砲台は各地での石切り、レンガ焼成運搬、建設など壮大な国策事業が展開された様子が想像できます。

 

2018年4月

 汐入の大黒湯

 汐入駅から坂本方面へ向かう途中に、大黒様の笑い顔が軒下に印象的な大黒湯がありました。入り口正面に≪釜使用不能のため本日をもちまして閉店させて頂きます。長い間ご利用誠に有難うございました。平成30216日大黒湯店主≫の貼紙がありました。1950年(昭和25年)から営業していたそうで当時は本町方面で働く女性たちで賑わったということです。今は近所の方が多く、いつ再開するの?と聞かれるそうですが釜が壊れたのを区切りにやめることにしたそうです。 

2018年5月

 横須賀に残る近代建築

 京急田浦駅近く、東芝ライテックの一角に建つセセッション風の建物は、1913年(大正2年)5月に竣工した鉄筋コンクリート2階建ての旧海軍造兵部本館で、当初は製図工場としても使われました。直線を強調し、機能性を重視した外観は逸見浄水場の建物にも共通したデザインで、当時の海軍建築を語るとともに横須賀に残る貴重な近代建築です。 

2018年6月     

 最善堂時計店

 最善堂時計店は大滝町1丁目、ドブ板通りへの角に建つ時計店です。1927年(昭和2年)建築の木造2階建てモルタルで、時計、眼鏡、装飾品を扱っていました。扇、太鼓、だるまなどに時計をはめ込んだ装飾時計が故郷へ帰る兵隊の土産として人気があったそうです。現在はからくり時計や日本の観光地が描かれた酒器、こけし、Tシャツなどお土産品全般が横須賀観光土産として喜ばれているそうです。レトロな建物はドラマやまち歩きなどのテレビにも登場しています。

2018年7月

 大滝町山仙事務用品店

 千日通り、さいか屋の次の角に建つのが事務機器・事務用品を商う山仙。ちょっと大きい看板の上に、出し桁造りの特徴が道路に面した二方向に見られます。この建物は小松、映画館谷川館や高砂クラブなどを建てた大寅が建てました。大寅の名前の刻まれた石灯篭が共済病院脇の米が浜神明社境内に奉納されています。 

 

2018年8月

 米が浜のアンティークショップMERAK 

 共済病院から米が浜通りを少し安浦方面へ向かったところにあるショップで、元は戦前に建てられた住宅と医院でした。石が嵌め込まれた門柱、しゃれたデザインの金属製フェンス、程よい植え込み、両開きの入り口引き戸と横長の窓の上には水平の霧除け。水平を強調した当時のデザインがコンパクトに収まっています。以前お話を伺ったところ、通りに面したこの部屋は歯医者さんだったそうです。今では西洋アンティークのお店が昔のままの建物を利用してお店になりました。建物が引き継がれて良かったと思いました。

 

2018年9月           

 市立うわまち病院

 『仁術は 国の宝よ 風かほる』六世松竹庵有之の句碑が建つのは市立うわまち病院敷地内の外れ。同病院はこのたび老朽化と土砂災害特別警戒区域に指定される見込みであることから移転することが決まりました。この地には1896年(明治29年)東京湾口の防衛、また横須賀鎮守府とともに要塞地帯法に指定された地域に関する出版物、写真を検閲する≪東京湾要塞司令部≫が置かれました。戦後、国立横須賀病院として地域医療に貢献、その後横須賀市に移管されうわまち病院となりました。句碑は1966年(昭和41年)、建物新築時に玄関わきに建てられましたが病院改修にあたって現在地に移動。横須賀の記憶となる句碑が病院移転後も地域の歴史として残ることを願っています。

 

2018年10月 

 陸上自衛隊久里浜駐屯地本部庁舎

2018年10月 陸上自衛隊久里浜駐屯地本部庁舎
 1939年(昭和14年)海軍通信学校として建てられた庁舎は左右対称の3階建て一部4階の白亜の建物です。当時の軍庁舎建築の堅牢で権威的な姿の外観で、中央に掲揚ポールの聳える姿が象徴しているようです。縦長窓が多く、明るい内部が想像される近代建築で、設立当初からの正面の円形庭園が落ち着きを演出しています。

2018年11月            

 消えた個性的な建物

2018年11月 消えた個性的な建物

 戦前の建物が残る横須賀市米が浜通り。2018年8月に一棟の事務所兼住宅の建物が姿を消しました。道路の角地に2間×2間半の広さで自然石の土台、モルタル洗い出しの外壁で、側面に波板鉄板が張られた2階建て、屋根は低い寄棟のようでした。外壁の洗い出しはグリーン系で、柱型にも横のラインが通りしゃれた感じでした。跡地はバイク3台、乗用車1台の駐車場になりました。

  

2018年12月         

 横須賀市文化会館

  深田台の高台に建つ文化会館は1965年(昭和40年)5月29日に開館しました。大ホール、中ホール、展示場や会議室は今も活発に利用されていますが、当時は結婚式場もありました。大ホールは丸窓が特徴で船をイメージしているそうです。この地には市立病院がありましたが1962年(昭和37年)に焼失、それ以前は海軍病院があったところです。博物館、彫刻広場が隣接、中央公園頂上には海を見渡す良好な景観を維持するための眺望点が指定されています。

 

2019年1月    

   鰻の河金    

  大滝町2丁目の鰻の『河金』は木造2階建てで蔵造のような白壁のファサードが特徴のお店でした。階段を上がった2階は畳の宴会場と小座敷があり、落語の鰻屋を想像させる昔ながらの風情を伝えていましたが12月に取り壊されました。隣のコンビニも以前は出し桁造りの建物でした。生まれ変わりながら街も成長しています。

 

2019年2月

   旧寺坂靴店

 中央駅から平坂を上がると左手に3階建ての『SAGA設計』の事務所があります。ここは1932年(昭和7年)に建てられた店舗兼住宅で、現状は塗装されていますが、正面は「こはぜ張り」という銅板張り、屋根は片流れ、現在はアルミサッシュですが当時は木製枠の洋風上げ下げ窓がシンメトリーに配されています。靴店時代は前面にショーウインドウを広くとった店舗、2階は2重窓の和室で3階は洋風仕立てになっています。当時の設計青図が残っており震災後のまちづくりを知るうえで大変貴重な資料といえます。

 

2019年3月

 ショッパーズプラザ横須賀

 1991年(平成3年)、スーパーマーケット「ダイエー」をキーテナントとして開業したショッパーズプラザ横須賀。現在はイオン横須賀店としての営業を続けています。カルチャースクール、プール、ボウリング場はじめ、市内唯一の映画館、プロを目指すミュージシャンも活躍したステージなど店舗以外にも楽しい空間を提供していました。3月末で全館リニューアル工事に入り、2020年の営業再開を目指すそうです。ここは住友重機械工業横須賀分工場の跡地。海側デッキの下には横須賀のシンボルであったガントリーグレンの基礎部分が残っています。その先のフェンスを挟んだ先はアメリカです。

 

2019年4月

 横須賀上町教会・めぐみ幼稚園

 横須賀市内の民間建物として唯一の国登録文化財に登録されている上町教会の改築工事が終了し、331日に竣工式が行われました。建物は1931年(昭和6年)にカナダの教会から寄贈された材料で建築され、当初幼稚園部分は平屋でしたが1950年(昭和25年)に2階を増築しています。改築設計にあたって文化庁の許可を得、外壁には繊維混入セメント板が使われましたが、外観はまったく以前と変わりません。耐震のための鉄筋ブレスも天井や壁に多数設置され安全な園舎と快適な牧師館、歴史を伝える会堂となりました。

 

2019年5月

 旧平作小学校

 旧平作小学校はしょうぶ園近く平作5丁目に1973年(昭和48年)開校、2013年(平成25年)に閉校になりました。校舎は現在の阿部倉アパートのところにあった城山を崩し、田畑を埋め立てて建設されました。校歌に「城山の土 礎に 建ちし明るい学び舎は」とある城山は衣笠城の搦手として重要だったところということです。鉄筋コンクリート3階建て、教室は全部で17、建築は馬淵建設が行いました。校舎は解体後、新たに中学校給食センターが整備され、秋以降にはおいしい給食が市内の中学生に届けられることでしょう。

 

2019年6月 

 デイまちにて・もうひとつのカフェ

 安浦町1-1、国道16号からも見える瓦葺きの古民家がデイサービスとゆったりくつろげるもうひとつのカフェです。楠が浦(現ベース)で江戸時代から営業していた米穀商泉屋が稲楠土地交換で安浦へ移った際に建物を移築、米穀商と郵便局を営んでいました。江戸の細工の残る内部、外観の特徴は手すりの張り出した2階窓と銅板の戸袋。カフェは月曜から土曜の2時から6時まで。

 

2019年7月 

 JR久里浜駅

 1944年(昭和19年)4月1日、久里浜地区の軍需物資の拠点として鉄道省横須賀線の駅として開業。翌年8月には終戦というあわただしい中の開業だったことでしょう。衣笠駅と共通する佇まいの駅舎はほとんど当時のまま。現在天井が外されトラスが見えるのは横須賀駅・衣笠駅も同じです。横浜Fマリノスの練習場が計画されている駅裏の「みんなの公園」は、現在新築中の浦賀警察の奥。ローカル感満載ののんびりした駅前広場が広すぎるのも久里浜の歴史の1ページを語っています。 

 

2019年8月

 銅板葺きの3階建て

2019年8月 銅板葺きの3階建て

 上町商店街は個性的な店構えやオリジナルな商品を扱う店舗の多い商店街です。関東大震災後に街並みが整備され、防火を兼ねた看板建築や石材を壁などに用いた商店が、昭和初期ごろまでに建ち並びました。現在もレトロな街並みとして人気のある建物の一つが銅板葺きの3階建て。1階にはアンティークとアクセサリーの工房。元は旅館で後ろ側の郵便局と一体の建物でした。戸袋などにいくつもの銅板模様が見られます。

 

 

2019年9月 

 半原水源地跡地

2019年9月 半原水源地

 愛川町半原の横須賀水道半原水源地が今年(2019年)3月末に愛川町に約9000万円で売却されました。1921年(大正10年)に海軍水道として竣工し、戦後は横須賀水道のシンボルとして逸見浄水場までの53キロを70メートルの高低差で中津川から原水が送られていました。愛川町では跡地利用を観光・産業連携拠点づくりの一環として温浴施設をメインに構想が練られているそうです。逸見浄水場建屋は国登録文化財、日本遺産にも認定されています。工事関係者の銘板はじめ、近代化に貢献した水道遺産の活用が横須賀水道に期待されます。

 

2019年10月 

 横須賀市重要文化財指定された市立万代会館

 このたび横須賀市内の建物としては初めて市立万代会館が横須賀市重要文化財に指定されました。建築年代は昭和初期で鉄板葺きの玄関棟と4棟の茅葺が庭園に面して雁行という、どの部屋へも風と陽の入るよう設計された数寄屋風民家です。戦中戦後を通して財界のリーダーとして活躍した万代順四郎がトミ夫人の病気療養のために1937年(昭和12年)に購入した別荘でした。順四郎亡き後はトミ夫人が暮らしましたが1978年(昭和53年)トミ夫人が他界され、その遺言により土地建物が有価証券とともに横須賀市へ寄贈され、1980年(昭和55年)から文化活動のために利用されてきました。現在は耐震等の工事のため閉鎖されています。1019日に邸園文化祭を行いますのでご参加ください。ニュース欄にご案内があります。

2019年11月    

 看板建築の不動産会社

 本町2丁目交差点は米軍基地正面ゲートに面し、16号をまたいでエレベーター付きの歩道橋があります。ゲート向かい側に「TAIYO HOME MIRITARY APARTMENT & HOUSES FOR RENT」の黄色の看板があります。主に米軍人向け賃貸住宅を扱う不動産会社で、英語での対応いたしますと大きく書かれています。物件は市内マンションが多く、3DKの場合18万円から20万円の家賃が主流のようでした。建物は看板建築で、特徴は2階角のパラペットが一段高くなっているところです。元は光学機器感光材料・写真用品の販売の白井商会として知られていました。震災後に多く建てられた看板建築も次第に姿を消していく中、堂々としたたたずまいを引き継いで横須賀の記憶を語っています。

 

2019年12月

   昭和初期建築を伝えるお座敷天ぷら《天庵》

  坂本5丁目、バス停坂本で下車し旧道に回り込むと和風門構えの天ぷら《天庵》があります。海軍将校の住まいとして昭和3年から6年にかけて6丁目の宮大工高橋さんが設計施工したそうです。昭和30年ごろに譲り受けた現当主が当初のままの建物を受け継ぎ、5年ほど前から天ぷら屋さんを営業しています。書院造の8畳間に棟木まで届く黒檀の床柱、昭和初期の日本建築を生かしたお店は落ち着いた雰囲気です。富士山溶岩で三峰神社を想定した庭園も風情があります。営業は予約のみ。

2020年1月

 秋谷・若命家長屋門

 横須賀市の市民文化資産は国・県・市の文化財には指定されていませんが広く市民に親しまれ、将来も大切に保存する必要のあるものを昭和60年制定の文化振興条例に基づき指定したものです。若命家の長屋門は江戸時代後期に建築され、瓦ぶき屋根、壁は漆喰、腰壁はなまこ壁、門扉は内開きの欅の扉でかつては柿渋が塗られていたそうです。正面に向かって左手は米蔵と納屋で、現在は若命家に伝わる歴史資料の展示スペースに、右手は8畳の床の間付き座敷になっており、武家造り屋敷の様式から生まれたと言われます。幕末に本陣として訪れた江川太郎左衛門、鳥居耀蔵などの名の記された木札が保存されています。 

2020年2月      

 永島家の長屋門 

 佐野4丁目の上りバス停の路地の突き当りに《佐野温泉のぼり雲》とゴルフ練習場があります。温泉入り口が江戸時代末期(19世紀前半)に建築されたと推定される市民文化資産の長屋門です。門前の市道は明治ごろまで三崎街道として使われていました。黒門と呼ばれた長屋門は桁行7間(約126m)梁行2間半(約4.5m)、寄棟造の桟瓦葺きですが、元は茅葺で大正ごろに瓦葺きに改修したそうです。温泉施設設置にあたり横浜国大の大野敏教授の指導助言でできる限り建築当初の姿に復元し曳家しました。大野教授には万代会館調査にあたって指導助言報告書作成などに尽力していただきました。

  

2020年3月

 菓子処「突貫」

 坂本坂上、三差路の角に菓子処「突貫」があります。「突貫団子」と言えば横須賀では知られた名称です。坂本の突貫は1939年(昭和14年)に平坂の本店からのれん分けで開店し、現在2代目。震災後建築された出し桁造りの店舗は建築当時の欄間窓やガラス戸、展示ケースが落ち着いた雰囲気です。注文を受けてから作る人気のおはぎを求めるなじみ客が列をつくることもあります。突貫の名のお店は今ではここだけになったそうです。突貫団子はみたらし団子につけられた戦時中の名前とのことでした。

 

2020年4月

 うぐいす坂下の瀟洒な洋館 

 平坂上の道路元標脇を汐入方向に浦賀道を進みます。この先にあるのが「うぐいす坂」。登り口に建つ洋館は𡈽愛犬医院として知られていましたが、昭和初期に建てられたときは小児科として開業しました。このころの医院建築は洋館で窓が大きく明るいモダンな建物が多く見られました。玄関前には「もっこく」が植えられています。

  

2020年5月 

 汐入宮元商店会

 宮元商店会は坂本坂下から汐入駅に向かう商店街です。明治のころから坂本一帯には重砲兵聯隊はじめ陸軍施設が多く設置され、周辺には海軍工廠関係者の住宅が尾根の上に向けてたくさん建てられました。商店街には出し桁造りの商店が軒を並べ銭湯、郵便局もありましたが、いずれも最近取り壊されました。亀甲模様の銅板の戸袋と窓の簾が美しい近田商店の看板が往時の賑わいを伝えています。

2020年6月 

 さいか屋の閉店

 横須賀の商店の代表格「さいか屋」横須賀店が来年2月に閉店することになりました。1872(明治5年)、岡本伝兵衛が浦賀から横須賀村磯崎(現在の本町)へ出て呉服商を始めたのがさいか屋の発祥です。1912(大正1年)には座売りから陳列方式を取り入れ、呉服のほかにもタンスや洋品も扱う百貨店の形となり、関東大震災後に大滝町の現在地へ移りました。

 昭和時代には、さいか屋のお好み食堂で食事をし、屋上遊園地で遊ぶのが子ども達のハレの日でした。2010年には大通館が閉店、現在跡地は駐車場に、バス停からもさいか屋の名が消えました。近年は大手デパート、地方都市の老舗百貨店の閉店が珍しくなくなりました。

2020年7月

 昭和初期の事務所建築

 田戸小学校近く、米が浜通りに建つ瀟洒でシンプルな事務所建築は、昭和初期に土木建築請負業の事務所として建てられ、その後税理士事務所となっていました。玄関のガラス扉の左右に鉛の分銅で上げ下げする縦長の上げ下げ窓などほとんどが建築当初のままとのことでした。扉を開けて入るとモザイクタイルの床、受付の小窓、その奥に板張りの広い事務所、2階は畳敷きだったそうです。こうした造りは同年代に建てられた事務所建築に共通していました。

2020年8月      

 凛とした風情の看板建築

2020年8月 凛とした風情の看板建築

 1937年(昭和12年)に開通した中里トンネルから、はまゆう公園に向かう緩い坂を上る途中に、すっきりした白い看板建築の美容院があります。元は左側に階段状の屋根が続く3軒の建物でした。2階の窓の桟が細かく装飾的で1階は光を取り入れたたくさんのガラス窓、窓欄間も規則的で、ブルーの水平屋根と2階のラインがかっちりした昭和の建物です。  

 

2020年9月

 理容店の窓

 汐入駅から坂本への商店街には今でも戦前からの個性的な建物が多く見られます。かつては海軍工廠へ通う職工の下駄の音で話もできなかった時間帯があったそうです。最近銭湯と郵便局がなくなりました。写真の理容店もずいぶん前から閉じられています。2階左右の柱型には水平の切込み、正面は三角にとがった先端を中心に3本の縦じま、押し開き入り口とタイルの腰壁、明かりがたっぷり取り込める理容店独特の窓。昭和初期に好まれたファサードデザインの建物です。

 

2020年10月 

 まちの記憶を伝える理容店

 国道16号に面した安浦3丁目のキムラ理容店は、安浦埋め立て後間もない昭和初期に開店しました。その当時は今よりもっと道路が狭く建物は現在の道路にかかっていたそうです。16号が拡幅することになり裏が庭だったので現在の位置まで曳き屋したとのこと。店部分は1955年(昭和30年)ごろ直したそうですが、装飾的なカーブと3本の柱型のある理容店独特のデザインの外観、大きな窓、タイルの腰壁、踏み込みのモザイクタイルと木の床などレトロな雰囲気の理容店です。ちなみに道路拡幅時には建物前面を取り壊された家もありました。

 

2020年11月

 建物全体を引き締める斜めの線

  「良美軒」と、入り口両脇のガラス窓に書かれた理美容院は安浦3丁目、かつての繁華街にあります。理美容院独特の室内の明るさを取り込む横長のガラス窓、入り口上部に三色の床屋さんの目印が取り付けられていますがずいぶん前から営業していないそうです。柄タイルの腰壁、窓や入口ドアの木製枠が建物全体の印象を柔らかにしている中にインパクトを感じる直線が斜めに配されたドアの押手です。この通りには柔らかなお湯で知られる銭湯もあります。

 

2020年12月

 上町の出桁造りの洋品店

2020年12月 上町の出桁造りの洋品店 上町商店街からうわまち病院への角を曲がるとすぐ右手に出桁造りの「望月商店」があります。震災後に建築された2階建てで、現在は1階の店舗部分の半分は薬局です。もちづき洋品店の店内は改修されていますが2階は当時のままだそうです。当初は洋裁生地販売と裁断、冬は毛糸で、夏は広い毛糸だなの前に生地を垂らして夏仕様にしていたとのこと。戦後は輸出用のバテンレースの内職を取りまとめて横浜へ納めていたそうです。今は洋裁小物などを扱っています。

 

2021年1月 

 釜屋金物店

2021年1月 釜屋金物店

  上町銀座商店会の結成は1947年(昭和22年)。平坂上の「花卯」横の階段は現在の上町と若松町の境界あたり、向かい側に「釜屋金物店」。出桁造りの堂々とした商店で、レトロな町・上町で最初に出会う建物です。2020年(令和2年)12月から商店街のアーケード撤去が始まり、まず釜屋さんの前が外されました。木造2階建て、瓦葺き、建物側面に房州石が防火のために使われています。2階の戸袋は亀甲模様の銅板葺き、雨樋も銅板です。順次アーケードが取り払われ、商店街に昭和の建築が姿を現せてくることでしょう。

 

2021年2月

 横須賀とさいか屋

   さいか屋横須賀店が2021年2月21日に閉店となります。1872年(明治5年)現在の本町に創業し、震災後の1928年(昭和3年)、現在駐車場となっている大滝町の大通りに百貨店を開業しました。以来、三浦半島で最も知られる商業地の中心として誰からも親しまれてきました。2010年(平成22)年大通館が閉店となり、バス停からもさいか屋の文字が消えました。さいか屋は横須賀原風景のワンシーンでもあります。存続を願う声を受け一部分が営業を続けるようになったとのこと。下町の賑わいを取り戻せるよう再生さいか屋に期待しています。(まちの記憶 バックナンバー 2012年8月 参照)

 

2021年3月

 三笠ビル商店街

 日露戦争で勝利した東郷平八郎元帥から名称を頂いたとして知られる三笠ビル商店街。1932年(昭和7年)には三笠通商店街商業組合を設立、1953年(昭和28年)にアーケードを設置、三年後には第1回全国商店街サービスコンクールで神奈川県トップに。現在の三笠ビルは、1959年(昭和34年)に横須賀市市制50周年記念事業協賛を受けて建設された防火帯建築という不燃化建築です。翌年には県の建築コンクールで横浜市の旧庁舎とともに「県の輝く10建築」として受賞しています。建築当初から営業している商店、新しい店舗、変わらぬ賑わいの三笠ビル商店街です。

 

2021年4月 

 上町銀座商店街アーケードの向こう側 

 上町銀座商店街のアーケードの撤去が2020年(令和2年)12月から始まりました。40年以上利用されてきたアーケードの撤去で、建物のファサードが現れました。この県道は関東大震災後の復興道路として整備され、それに合わせて建築された当時の建物が多数現存しています。撤去されたアーケードの向こう側から銅板や不燃材を用いた看板建築、日本家屋の特徴を伝える出桁造りの商店などが現れ、街の記憶がよみがえります。

 

2021年5月 

 旧太安堂本店

 京急逸見駅から国道16号への道路の拡幅工事が進んでいます。汀橋交差点近くに建つ旧太安堂時計店本店の建物は、今から40年近く前に震災後に建てられた店舗の写真をもとに宮大工によって復元建築されました。太安堂の創業は1901年(明治34年)、当時の逸見地域には造船所の官舎が多く賑わっていました。道路の拡幅に合わせて左折用隅切りのため取り壊されることになっています。

 

2021年6月

 看板建築の意匠を見る

 看板建築が多く残る上町商店街が、アーケード撤去後の商店街の特徴を生かしてまちづくりを考えているそうです。商店のファサードや日よけなど各店舗の工夫や、県や市との連携で歩道、街路灯、電線などの整備を図るとのことです。写真の看板建築の意匠の特徴は、パラペットにつけられた櫛形のディンティルとその下のロンバルディアアーチと呼ばれる小さな連続アーチです。現在は不動産事務所ですが元は日本生命事務所でした。

 

2021年7月  

 横須賀新港のフェリーターミナル

2021年7月 横須賀新港フェリーターミナル

 2021年7月1日、横須賀新港と新門司港を結ぶ東京九州フェリー「はまゆう」「それいゆ」の2隻が就航します。横須賀新港にはフェリーターミナルが建設されました。1階は受付窓口で2階は待合室。ガラス張りの室内からは東京湾が望めます。新門司港への2345分発の前後にはカフェや売店も利用できるようです。今まで一般は立ち入れませんでしたが、毎日9時からは一般も入場できるそうです。入り口は救急センター前になります。

 

2021年8月

 昭和初期の商店建築

 上町3丁目商和会、柏木田から続く商店街にかつての賑わいはありませんが、昭和を感じる建物が見られます。池田家庭用品店と大きく書かれた銅板一文字葺き外壁の店舗付き住宅もその一軒で、2階の戸袋は額縁のついたひし型の銅板。2階霧除けは屋根と同じ勾配ですが、店舗部分の1階には軒蛇腹が施された洋風の庇。建物全体を屋根、軒、2階の手すり、1階庇で水平線を貫く昭和初期のモダンな外観になっています。洋風庇の奥には内樋が付けられています。用品店は家庭で使うものなら何でも扱っていました。

 

2021年9月

 三浦半島の古刹龍本寺

 猿海山龍本寺は深田台の文化会館近くにある日蓮宗の古刹です。創建は1253年(建長5年)、開山は日蓮上人、開基は石渡左衛門とされ、日蓮が房州から鎌倉へ向かう途中にこの地でご祈念を行ったことに始まります。現在の本堂は200年以上前に建てられた建物で、関東大震災にも耐えた三浦半島で最も大きな寺院建築です。正面の向拝にかけられた虹梁には迫力ある龍、米ヶ浜の名の起こりともいわれる俵を積んだ帆掛け船の彫刻が彫り込まれ、日蓮上人の物語を伝えています。そのほかお寺の建物を守る伽藍神や奉納額、木組みなど200年を経て今なお見事な建築に圧倒されます。

 

2021年10月 

 横須賀の茅葺民家万代会館

 市立万代会館は京急津久井浜駅から徒歩5分ほどのところに建つ横須賀市重要文化財の建物です。特徴は4棟の茅葺屋根で、大正末から昭和初期建築と思われる数寄屋風別荘建築です。1936年(昭和11年)からは戦前から銀行家として、戦後はソニーの前身である東京通信工業の会長、青山学院の理事長として若者たちを応援してきた万代順四郎・トミ夫妻の住まいでした。1978年(昭和53年)、夫人がなくなられた後、その御遺志によりソニーの株券3万株とともに横須賀市へ寄贈され集会施設として使用されてきましたが、現在は耐震工事のため内部は公開されていません。

 

1023日のイヴェント案内がニュースのコーナーにあります)

 

2021年11月  

   汐入のシンボル ハーフティンバーの家

 眺望の良い汐入の高台に建つ洋風の2階建て、妻壁のハーフティンバーが谷を超した向かい側からも目につきます。1924年(大正13年)春、海軍技官だった建て主が自らデザインして建てたということです。最近、内部をシェアハウスとしてリノベーション。おしゃれな空間に生まれ変わりました。ここからさらに奥へ進み、突き当りに「うぐいす山木工教室」があります。洋館の次に取り組んだ古民家も同じオーナーが自ら内装工事を行いながら皿や箸などの工作を教えています。「大工が趣味」と改修作業に励むオーナー。開いているのは()()。汐入の山に新しい風が吹いています。

 

2021年12月  

   横須賀市立中央図書館

 横須賀市立中央図書館は1963年(昭和38年)に緒明山に建設されました。現在の旧館と呼ばれる右手の3階建てです。建設費は当時小川町で鶏卵事業を行っていた諏訪末雄氏の寄付によるものでした。海老名市出身の末雄氏は1910年(明治43年)農家の8男として生まれ、私立光明学園を卒業ののち銀行員を経験、その後卵の行商から横須賀で鶏卵卸事業を興し成功しました。第2の故郷である横須賀に恩返しがしたいということで所有地を売却し、建設費を寄付。当初は2階建てで翌年の3階増築分も寄付しました。現在の新館増改築は1983年(昭和58年)、緒明山配水池跡に読書公園も整備されました。

 

2022年1月

 半原水源地跡地の開発

   相模川の支流・中津川、半原の山裾をくり抜いた取水口から取り入れた原水を、高低差70m53㎞離れた逸見浄水場まで送水する横須賀軍港水道は、1912年(明治45年)2月に着工し、1921年(大正10年)完成しました。太平洋戦争後は横須賀市営水道として横須賀水道のシンボルでした。2007年(平成19年)取水停止、2015年(平成27年)廃止となり水源地は愛川町に譲渡されました。愛川町ではまちの活性化に向けて跡地開発が始まりました。今年度は建屋、樹木等が撤去され、ベンチュリーメーター室も取り壊されるそうです。愛川町の発展に水源地跡地が有効利用されることを願っています。

 

2022年2月  

  上町の洋風建築

 上町商店街からうわまち病院前を通り、はまゆう公園方面へ向かう坂を上った三叉路にモダンな佇まいの洋風建築の住宅があります。1939年(昭和14年)ごろ建築された木造2階建て、外壁は下見板張り、瓦棒ぶき屋根、直線的なかっちりした印象の建物ですが、玄関の軒回りに強調された水平線が昭和10年代の特徴を感じさせます。玄関や住まい部分の高窓には菱形の色ガラスなどを使ったデザイン、玄関庇の持ち送りなどにも昭和の洋館の特徴が生かされた素敵な建物です。

 

2022年3月

 旧浦賀警察署庁舎

 2020年(令和2年)10月、京急久里浜駅近くに移転した浦賀警察署は2023年4月から「横須賀南警察署」と改称されます。移転前の旧庁舎は1960年(昭和35年)建設の3階建てで1981年(昭和56年)に増築しています。浦賀警察署は1878年(明治11年)、横須賀警察署の浦賀分署として発足し1926年(大正7年)に分離独立、以来横須賀市東部を管轄し、親しまれてきました。庁舎横にはこの辺りの昔の様子を記した「大衆帰本塚」があります。1864年(元治元年)の建立で、碑文は浦賀奉行所与力中島三郎助の文章と筆跡です。

 

2022年4月

 よこすか近代遺産ミュージアム・ティボディエ邸

 近代日本の幕開けとなった横須賀製鉄所の建設は1865年(慶応元年)に始まりました。製鉄所副首長の官舎として1869年(明治2年)ごろ建てられたのがティボディエ邸で、横須賀の歴史と文化を紹介するルートミュージアムのサテライトとして昨年再現され、当時の部材等の一部も展示されています。(まちの記憶2015年9月参照)ヴェルニー公園にはヴェルニー記念館、陸奥の主砲と砲弾、ヴェルニーと小栗の胸像、逸見波止場衛門、海軍の碑、軍艦山城、長門、沖島の碑、国威顕彰のモニュメント、正岡子規の句碑があります。「よこすか近代遺産ミュージアムティボディエ邸」の名は汐留バス停にも追加されました。

 

2022年5月  

 須軽谷の長屋門

 三浦海岸から市民病院へのバス路線で宮の里バス停前に立派な長屋門があります。天保以来、須軽谷村の名主をつとめ屋号を「サンエム」という鈴木家の長屋門で、ご先祖は三右衛門、領主から村の行政を任されていました。長屋門は寄棟造茅葺屋根で、20年ぐらい前に瓦型銅板を乗せています。建築年代ははっきりしないそうですが19世紀前・中期ごろとのこと。扉はなかったようです。向かって左に厩、右は物置、中2階には天王社(八幡社)のお祭り用具や長持、糸車などが入っていたそうです。鈴木家に保存されていた文書は「相州三浦郡須軽谷村(鈴木家)文書」として翻刻され、市立中央図書館資料室で閲覧できます。

 

2022年6月

  浦賀の看板建築

    京急浦賀駅から西浦賀へ向かう商店街に銅板葺きの看板建築の建物があります。蔵造り、石造り、出し桁造りなどの多く見られる浦賀で、前面に銅板を用いたほぼ正方形に近い建物は印象的です。戦後まもなく荒井久治郎さんが創業し、現在は3代目という荒井表具店です。縁取りを巡らせた四角い上部に弧を描くのはパラペットの飾りです。庇のついた窓が少し中央からずれてつけられていて緊張感を和らげます。

 

2022年7月

 三角ペデュメントの看板建築

2022年7月 三角ペデュメントの看板建築

 上町商店街のキャッチコピーは「いいじゃんうわまち」です。《粋で親切飾らないまち》を表現しています。真ん中にメダリオンのついた大きな三角形のペデユメントのパン屋さんは元時計屋さんでした。この角から「うわまち病院」への市道は病院移転に合わせて道路を15mに拡幅するため、隣のお菓子屋さんと横の洋品店とともに取り壊される計画です。 

 

2022年8月

 蔵のある美しい風景

2022年8月 蔵のある美しい風景

  鴨居の高橋勝七が《中横須賀》と呼ばれた横須賀中央駅周辺の埋めたて事業を行い、造成した土地を「若松町」と命名しました。高橋家は鴨居にあった会津藩の陣屋の世話をしたことで「若松」の名を賜ったということです。観音崎大橋から山側を見ると、緑の小山を背に白漆喰の蔵が美しく建っています。旧道を挟んで「浜への路」の石段があり、もやい石とともに海からの景観が優れているところから「第3回国際海の手文化都市よこすか景観賞」を受賞しています。

 

2022年9月

 上町商店街の看板建築

2022年9月 上町商店街の看板建築

 平坂上、上町銀座商店街のアーケード撤去が終わりました。前面が銅板葺きの看板建築がいくつもあり存在感を増しています。戸袋などにいろいろな銅板模様がみられる3階建ての看板建築の商店は当初、海軍御用達の「蓬莱屋旅館」で、後ろ側の郵便局も含めた建物でした。中央に広い階段があり、3階部分は畳敷きでした。現在は欧米の古着やアンティークショップなどとして各階ごとに個性あるお店になっていてレトロな街に溶け込んでいます。 

 

2022年10月

 茅葺民家万代会館

 横須賀市重要文化財に指定されている「市立万代会館」は、4棟の茅葺が連続した数寄屋造りの民家です。昭和初期に別荘として建てられ、昭和11年に銀行家の万代順四郎がトミ夫人の療養のために買い求めたとき、サンルームと10畳和室を、またその後兄の療養のためとして現在椿の間と名付けられた奥の一間を増築しています。波打つガラス、一本丸太の梁、細かい銅細工、欄間や枇杷床など茅葺の静かな佇まいは簡素で合理的な住む人の生き方が感じられる建物です。22日に湘南邸園文化祭で建物案内などを行います。(ニュース欄を参照してご参加ください)

 

2022年11月

 歴史をつなぐ長屋門の扉

 若葉幼稚園は横須賀市金谷の景色の良い小高い丘に建っています。園舎の一角に地域の歴史を感じさせる立派な長屋門の門扉が設置されています。旧名主の福本家が350年以上前に建てた当時茅葺だったという長屋門の扉で、扉に付けられた入八双金物と饅頭金物も健在、幼稚園開園後は門の両側の部屋も園舎や職員室に使用されたこともあったそうです。2012年(平成24年)園舎建て替えのとき、長屋門の扉をモニュメントとして残すことになり、今も元気な園児たちに親しまれています。

 

2022年12月

 国登録有形文化財横須賀上町教会でクリスマスを

 上町教会・付属めぐみ幼稚園は2003年に国登録有形文化財として登録されました。会堂は1931年(昭和6年)に建築されたキングポストトラスの木造2階建てで下見板張りの洋館です。建築当初は平屋でしたが間もなく2階部分を増築しています。尖塔アーチが並ぶ窓は鉛の分銅の上げ下げ窓、リードオルガンは大正時代の西川オルガン製。24日にはキャンドル礼拝、25日にはクリスマス礼拝が行われます。ニュース欄を参考にお出かけください。

 

2023年1月 

 田浦の倉庫群

 JR田浦駅から長浦港周辺には大規模な倉庫群が建ち並んでいます。港湾合同庁舎手前に今では珍しくなった《のこぎり屋根》の建物があります。旧海軍軍需部の施設として1939年(昭和14年)に建築された面積96559㎡の兵器修理場だった建物です。軽量鉄骨造、接合部はリベット、柱、梁はトラス組。その右側の建物は1928年(昭和3年)建築の鉄骨造で旧軍時代は光学兵器庫。画面には見えませんが、のこぎり屋根の左には1917年(大正6年)建築のレンガ造2階建ての倉庫があります。いずれもフェンス越しに外観が見られます。

 

2023年2月

 船越の洋館付き住宅、国登録に

 令和4年(令和3年度)、横須賀市内で新たに3棟の建物が国登録有形文化財に登録されました。船越町の西崎邸は1928年(昭和13年)ごろに建てられた瀟洒できりっとした佇まいの洋館で、小高い丘の上に立ち、逗子への街道沿いから眺めることができます。建物を3Ⅾ調査した解説が市博物館で展示されています。(ニュース欄参照)

 

2023年3月 

 上町商店街の建て替え

 2024年度(令和6年度)、市立うわまち病院が久里浜へ移転します。それに合わせて街の表情も少しずつ変わるかもしれません。商店街の中ほどに建て替えのため現在更地となっている一角があります。更地に接した母屋は格子戸が美しい住宅で、以前の聞き取りでは関東大震災後の1927年(昭和2年)に建て替えた2階建て、むかしは仕事着の「藍染」の染物屋「深田の藤屋」として知られていたということです。

 

2023年4月

 米が浜通りの看板建築

 米が浜通りは1889年(明治22年)に埋め立てによって誕生しました。以前は龍本寺の山の下から中央公園崖下あたりは海でした。埋め立て後は歓楽街として賑わいましたが、関東大震災後に復興整備され、今の共済病院が移転してくるなど商店街が発展してきました。今も見られる昭和初期に建てられた看板建築がまちの歴史を感じさせます。写真の建物は小波鉄板が後付けされていますがパラペットや霧除けに銅板が見られ建築当初は銅板葺きだったことがうかがえます。

 

2023年5月 

 鳥海病院の解体

 追浜駅前大通りに建ち、駅前のシンボル的建物であった「鳥海病院」が解体されました。築山が無くなり通りから見える建物には12階の上げ下げ窓、玄関ポーチの脇の丸窓など昭和初期のデザインが感じられ、追浜の歴史を語る近代建築でした。市内では近年に船津眼科医院、佐野医院、ヨゼフ病院など特徴的な昭和初期の病院建築が無くなりました。鳥海病院はアングル2022020.09.01)参照を。追浜駅前は再開発計画が進行中で、道路幅やバスターミナル整備、高層ビルも計画されています。 

 

2023年6月

  看板建築の銅板模様

 横須賀市の上町商店街は関東大震災後に建てられた商店建築がレトロな街並みを構成して若い人にも人気です。写真左は人気の古着と仕立てもしてくれるお店としてリニューアル。二階部分はどちらも手の込んだ銅板模様で飾られ、窓は縦長上げ下げ窓と、引き違いだったと思われる戸袋付きの窓。銅工職人の技が建物を引き立てます。

 

2023年7月

 汐入の旧毛利医院

2023年7月 汐入の旧毛利医院

  汐入商店街から少し入ったところにこの辺りでは珍しい川石が積みあがった門柱のある旧毛利医院があります。1911年(明治44年)に建てられた診療所で、関東大震災では2階建て住居部分は壊れましたが、平屋の玄関と医局は被害を受けなかったそうです。玄関屋根は特徴的なむくり庇、懸魚や蟇股、玄関灯が家の格を表しています。現在は横須賀の伝統文化を伝える毛利塾で、玄関を入ると正面に日下部鳴鶴の扁額「窮理活物」が掲げられています。

 

2023年8月

 浦賀みちの石造りが日本酒バーに

2023年8月 浦賀道に日本酒バー

 明治末建築の2階建て、米穀商だった店舗兼住宅が建つのは江戸から浦賀へ通じる浦賀みち。現在は上町大通りと並走する本通りとも呼ばれる旧道。もとの米屋を意識して屋号は「ヨネヤ」としたという。瓦葺き屋根、防火のため石造りの店舗部分から住居まで一体としたリノベーションで5月におしゃれな日本酒バーに生まれ変わりました。2階のガラス窓など外観からは時代を感じますが、もとの家の建具や木材を活かしたインテリアも新鮮です。昼はおにぎり販売も。

 

2023年9月

 横須賀中央駅前プライムビル周辺の再開発

 湘南電鉄、現在の京急線が黄金町から浦賀まで運転開始したのは1930年(昭和5年)。ガードの手前に見える平坂は1877年(明治10年)ごろに開通したと言われます。平坂から正面に見えるプライムビルの建つ街区は再開発事業が進行中で、2025年着工、2028年完成を目指しています。Yデッキとつながる高さ127m、地下1階地上33階建て、商業施設、ホテル、マンションが入る複合施設となる予定です。再開発ビルが横須賀中央の顔となることが期待されます。

 

2023年10月

 万代会館の茅葺屋根補修

2023年10月 万代会館の茅葺屋根補修

   市立万代会館は2019年(令和元年)9月24日に横須賀市重要文化財に指定されました。その後耐震診断が行われ、耐震工事へと進むことになっています。現在は茅葺の補修としてサシガヤを行っています。右の建物は工事が終わりきれいな茅葺屋根に、左側は進行中で足場が架けてあります。1021日に湘南邸園文化祭で小屋組みの話をします。8日午後から大滝町のリドレ1階で万代会館の写真展示をします。お出かけください。(ニュース参照)

 

 

2023年11月 

 入母屋屋根の家

 主に日本家屋の屋根には・入母屋・切妻・寄棟が多く見られます。入母屋屋根は上部は切妻屋根のように2方向勾配、下部は寄棟屋根のように4方向勾配になっています。切妻屋根は本を開いて伏せたような山形の屋根、寄棟屋根は4方向の勾配屋根で構成され棟のある屋根で四つ屋根ともいわれます。表紙の建物は入母屋屋根で瓦棒ぶき、外壁は簓子(ささらこ)下見板張り(下見板を少し重ねて切込みの入った押縁で

押さえる)の堂々とした佇まいの日本家屋です。

 

 

2023年12月

  歴史を伝える上町教会・めぐみ幼稚園の建物

  1931年(昭和6年)に建てられた教会・幼稚園の建物は2003年(平成15年)に国登録有形文化財に登録されました。築92年の今年、礼拝堂と園舎である会堂の床をリニューアル。かつての床材の一部は記録保存として牧師館入り口に設置しました(ニュース欄参照)。クリスマス礼拝は2410時半、キャンドル礼拝は17時からどなたでも参加できます。建物内部の佇まい、大正時代のリードオルガンの音色にも歴史が刻まれています。 

 

 

2024年1月

 地域文化を伝える中里神社

2024年1月 地域文化を伝える中里神社

  中央駅から平坂を上がり右手参道奥に生産を司る倉稲魂命(うがのみたまのみこと)が鎮座する中里神社があります。1817年(文化14年)稲荷神社として造営され、現在の拝殿は1908年(明治41年)に改築。建物は母屋の屋根と向拝の屋根がなだらかな曲線を描く「流造り」で「神明造り」から発達した造りです。日本の神社の約7割が流造りと言われています。軒下に掲げられた文字の消えた奉納俳額に代わり、俳句は新たな説明板で読むことができます。

 

 

2024年2月

 横須賀市立児童図書館

2024年2月 横須賀市立児童図書館

 横須賀中央駅から徒歩1分、全国でも珍しい児童のための独立した児童図書館があります。閲覧室、学習室、ネットコーナー、お話室などを備えた鉄筋コンクリート2階建てで開館は1974年(昭和49年)7月。1947年(昭和22年)に市立職業紹介所跡地に市立横須賀図書館が開館したのがこの地でした。その後、図書館は昭和38年緒明山へ移転、子どものための図書館の必要を感じた当時のさいか屋社長岡本伝之助氏の指定寄付5000万円で児童図書館が建てられました。図書館は戦後の横須賀文化をけん引し、子ども達に親しまれてきました。

 

 

2024年3月

 再開発が始まる若松町のヨコビル

2024年3月 再開発が始まる若松町のヨコビル

 再開発計画が進行中の中央駅前若松町。旅行センター、レストラン、カラオケなどが入るヨコビルも再開発街区の一角で数年後には生まれ変わります。若松町は明治12年、鴨居の高橋勝七が埋め立て、屋号の若松屋から町名が付けられました。ヨコビルのあたりは明治・大正のころから活動写真の常設館「谷川キネマ」「谷川館」、昭和30年代には横須賀劇場と映画館として知られてきました。ヨコビルとして開館したのは昭和41年2月、翌年にテナントとして丸井横須賀店が開店しています。

 

 

2024年4月

 横須賀美術館を楽しむ

2024年4月 横須賀美術館を楽しむ

 横須賀市市制100周年を記念して横須賀美術館は2007年(平成19年)に開館しました。2024年(令和6年)建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞した山本理顕氏設計で同氏の代表作の一つと言われます。地上2階地下2階、鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、外側はガラス面で覆われ、美術館として懸念される潮風を風景に取り込み、要塞地帯として生き残った観音崎の自然と地形、日本初の灯台など地域の物語に静かに溶け込む建物です。屋上庭園から行き交う船と東京湾をのぞみ、螺旋階段から建物の構造を見ながら図書室へ。ワークショップ、レストランなど滞在型美術館としてのコンセプトが楽しめます。