建築探偵のアングル

アングル110

静岡市に残るヴォーリズ作品
静岡市に残るヴォーリズ作品

静岡を愛したマッケンジー夫妻の屋敷~

 

 静岡市駿河区高松に国登録文化財の旧マッケンジー邸があります。設計者はアメリカ人宣教師で建築家のヴォーリズでスタッコ壁にスペイン瓦葺きの木造2階地下1階建て塔屋付きの洋館で、1940年(昭和15年)に建てられました。建築主は日本茶輸出貿易商社の静岡支店長として1918年(大正7年)来日したマッケンジー夫妻で、この地に永住するために建てた住宅です。暖炉はありますが、夫ダンカンは喘息の持病があり使わなかったそうです。3階の望楼は趣味の天体観測用で縦長アーチ窓が4方に並んでいます。明るい日差しをいっぱいに受けるようなテラス付き居間や多角形のサンルーム兼食堂。和室の使用人部屋が二間、居心地よさそうな明るい2階部分にあるのが印象的でした。

 建築翌年、日米開戦のため夫妻は一時帰国、戦後再来日しましたが、その間は住友金属の幹部住宅として使われていました。夫の死後エミリー夫人は社会福祉に尽力、静岡市名誉市民第1号に選ばれました。1972年(昭和47年)帰国にあたって敷地の半分を静岡市に寄贈、残りの土地と建物は静岡市が買い取り、現在は市教育委員会の所管で見学、展示、コンサートなどに使用しています。(2016.11.01

 

 

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アングル109

電柱をよける歩行者
電柱をよける歩行者

 ~歩道を考える~

 

 車歩道が分離された道路が横須賀に登場するのは、主に関東大震災後の都市づくりの頃と思われます。

 1962年(昭和37年)、二葉の立野団地、早稲田団地とともに竣工した不入斗の鶴ヶ丘団地。現在、鶴が丘循環のバスが通っていますが、不入斗総合体育館に沿ったケヤキ並木の先、鶴が丘1丁目から大明寺隧道あたりの歩道とされる道幅は、水道敷設敷地に縁石を加えた40センチほどで、ところどころにコンクリートの電柱が張り出し、車いすでも乳母車でも買い物カートでも人と人のすれ違いにも一度車道に降りなくてはなりません。車の交通量も多くゴミ集積場もあるなど使いにくい歩道と思います。

   横須賀中央の旧パシオスビル跡地に、地上15階建てのマンション計画が進行中です。大滝町商店街に面した表通りに駐車場入り口、ゴミ集積場をつくるということで、駐車場設置のためには車歩道の段差をなくすため歩道を切り下げる必要があり、歩道に傾斜ができてしまい、車いすなどの通行に支障が出ることも考えられます。市民に支持される開発が進むことを願っています。(2016.10.15

 

 

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アングル108

日和山から見た現状
日和山から見た現状

 ~宮城県閖上へ再び~

  

 アングル27で東日本大震災後の宮城県名取市閖上を掲載しました。今年、926日に再び訪れました。日和山には今も訪れる方が多くいました。すべて流され、平らになった地域がまだ前面に広がっていました。震災復興の旗を前面に付けたダンプがひっきりなしに行き来して嵩上げ用の土を運び込んでいますが、復興半ばという印象でした。

   小さくてわかりにくい写真ですが、右の真ん中あたりに杭のようなものが見えますか。2014年(平成26年)に建てられた高さ8.4メートルの供養塔で、この辺りに到達した津波の高さだそうです。植物の芽吹きをイメージしたデザインで「亡き人を悼み 故郷を想う 愛する御霊よ 安らかに」と刻まれています。津波は海底の土砂、壊れた家などのがれきを巻き込んだ真っ黒い塊でした。

   日和山の近くに貞山堀という運河があって、そこを境に海側には住宅を造らず水産加工工場の敷地になるそうです。今でも仮設住宅暮らしの方もいるということですが、助かった住宅も嵩上げにともなって家を持ち上げる必要があるとのこと。「住む」ということの大切さが感じられました。(2016.10.03

 

 

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アングル107

再開発が予定される旧パシオス
再開発が予定される旧パシオス

 ~生まれ変わるか「したまち」~

  

 旧西友跡地の再開発で住宅と医療を中心とした超高層の「リドレ」が建設され、周辺道路もきれいに整備されつつあります。この辺りは1970年(昭和45年)完成のジャンボ・スクエア・ヨコスカを中心とした一角で長く市民に親しまれていました。1959年(昭和34年)に横須賀市制50周年記念事業協賛を受け、新しい都市づくりの先駆けとして誕生したのが「三笠ビル商店街」です。不燃化建築で全天候型の商業ビルは全国的にも画期的で、通産大臣賞などを受賞しています。1969年(昭和44年)に整備された田原屋横須賀店はパシオスと名を変え子どもからお年寄りまで、幅広い層のファションで人気でしたが、現在お店は平成町のホームズへ移転し、隣接した店舗ともども閉店となっていました。最近再開発の予定が告示されましたが、新たな中央の顔としての気構えを持った、街づくりに貢献した建物と商業施設や住宅が期待されます。

 「したまち」は三浦半島一の繁華街として昔から親しまれてきました。さいか屋大通り館、西友撤退などがありましたが、街は生きもの。新しい魅力ある「したまち」を作り出すエネルギーに期待しましょう。(2016.09.15

  

 

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アングル106

築地で見た看板建築
築地で見た看板建築

~築地市場の建物~

  

 このところ移転問題が話題となっている築地市場。周辺には朝日新聞社やがんセンター、築地本願寺、波除神社など様々な目的を持った大きな建造物があります。場外市場の店舗には、ちょっと目を上に向けると銅板葺きや洗い出しの看板建築など意匠を凝らしたレトロなお店が並んでいて、建物散歩にも楽しい地域です。2020年の東京オリンピック・パラリピックに合わせて築地に道路を通す必要が迫っている、逆算して移転時期を決めたことが今になって問題が浮き彫りになったように聞きます。大切なまちづくりを帳尻合わせから始めないというのは難しいことでしょうか。

 横須賀市では公共施設適正化計画が進行しています。時々説明会が開かれますが、それは一方的に行政が計画を説明するということで、意見を聞く場ではないようです。確かに要望をすべて取り入れることは不可能です。無駄も不要もたくさんあります。今後人口も激減し、空き家も増え、コミュニティーの崩壊もあり得るでしょうし歳入も減るでしょう。計画が発信する前に、いまの子ども達が住んでいて良かった思えるちょっと先の街の姿を描いてみませんか。(2016.09.01

 

 

 

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アングル105

個性的な商店建築
個性的な商店建築

~震災復興商店街~

  

 江東区清澄3丁目、地下鉄清澄白河駅近く、清澄通りに関東大震災後の1928年(昭和3年)に「震災復興商店街」として建てられたモダンな建築の店舗群があります。建物の後ろ側は東京都指定名勝≪清澄庭園≫で、三菱財閥の岩崎家が所有していた≪回遊式林泉庭園≫です。関東大震災後東京市に寄付され、1932年(昭和7年)から一般公開されています。現在の商店街のあたりでは岩崎家が長屋を経営していたそうで、震災で倒壊した後、東京市が震災復興事業として鉄筋コンクリート2階建て耐震耐火構造で棟割長屋の市営店舗付き住宅を新築しました。建物は5~8戸ずつが一棟で間口は2間半、1戸ずつファサードに個性があるデザインが見られ、アールデコ調の凹凸の装飾が全体を統一しています。戦災時にも建物は焼け残り、戦後は払い下げられて個人所有となったそうです。「昔は市場みたいに何でも揃う商店街でした」と、当初から3代目という印鑑屋のご主人。清澄通りには、ちんちん電車が築島から柳島まで走っていたそうです。

  震災後の商店といえば、横須賀の上町商店街の看板建築が知られています。こちらはすべて個人が建てた店舗付き住宅で、個性的なファサードが並びます。(2016.08.15

 

 

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アングル104

表参道の平和を願う記念碑の建つ緑地
表参道の平和を願う記念碑の建つ緑地

 ~平和を願うモニュメント~

  

 地下鉄表参道駅を出て、すぐのところに「和をのぞむ」という碑が建つ小さな緑地があります。港区政60周年にあたる2007年(平成19年)1月に建立された平和を願う記念碑で、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化し、表参道のケヤキは燃え、青山通り交差点付近では火と熱風で多くの人が亡くなった。戦災で亡くなった人々の慰霊と戦争のない世界平和を祈る、という内容の碑文が刻まれています。

   緑地を囲む一角に、旧町名の由来板とまちの移り代わりを表した二枚の地図が嵌め込まれています。それによると徳川家康入府後、青山の地名となった青山忠成の屋敷地となり、維新後の1886年(明治19年)には陸軍青山練兵場となり、陸軍大学校や青山師範学校、女子学習院が設置されましたが、1913年(大正2年)、青山練兵場が明治神宮社地に選ばれ、明治神宮へ向かう表参道が設けられたとのことです。今ではブランドショップが神宮まで続き、観光地としての人気も高いファッショナブルな街の中に、平和の大切さを先人の願いとして伝えている碑の大切さを感じました。(2016.08.01

 

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アングル103

木立に囲まれたアールデコの館
木立に囲まれたアールデコの館

 ~東京都庭園美術館~

 

 JR目黒駅から10分ほどの港区白金台に《アールデコの館》として知られる国重要文化財の東京都庭園美術館があります。旧朝香宮邸として1933年(昭和8年)建築された鉄筋コンクリート造2階建て一部3階建て地下1階の建物です。明治以降上流の暮らしは日常生活には和館、接客用には洋館という構成が主流でしたが、朝香宮邸は1階を接客用、2階を日常生活の場として、皇籍離脱する1947年(昭和22年)まで暮らしたとのことです。広い敷地内の木立の中にシンプルな外観の静かな佇まいの建物ですが、内装はフランス人のアンリ・ラパンの設計で、建物内外そのものがアールデコを今に伝える芸術展示のようです。企画展以外に年1回は室内写真撮影もできる建物公開があります。

 江戸時代には高松藩松平家の下屋敷があった場所でした。朝香宮家退去後は吉田茂が総理大臣仮公邸として使用、その後西武鉄道へ払い下げられ、白金プリンス迎賓館になりましたが、1981年(昭和56)年東京都に売却、1983年(昭和58年)から都立美術館として公開されています。今では誰でもアールデコの世界を見ることが出来、時代を生き抜いた建物の力を感じます。(2016.07.15

 

 

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アングル102

根津嘉一郎が増築した洋館と庭園
根津嘉一郎が増築した洋館と庭園

~熱海の近代建築「起雲閣」~

 

 熱海駅前はウイークデイでも楽しそうな観光客がいっぱいです。運転手さんは「新婚旅行で賑わったころほどではないけど盛り返していますよ」。JR熱海駅も大改装中で、活気にあふれていました。

 駅から20分ほどのところに土塀に囲まれたお屋敷があります。現在、熱海を代表する近代建築として市指定有形文化財であり、観光施設と同時に市民の文化施設として活用されている「起雲閣」です。

 大正・昭和の海運王だった内田信也が実母の静養のため1919年(大正8年)に建てた2階建て和風の別荘。車いすで移動できるようシンプルな造りで畳廊下、バリアフリーになっています。1925年(大正14年)に鉄道王として知られる根津嘉一郎が取得、中国風や英国風なども取り入れ異文化が融合した洋館と庭園を増築。1947年(昭和22年)からは桜井兵五郎が取得し「起雲閣」と名付けて旅館を開業しましたが1999年(平成11年)に廃業し競売に。翌年に熱海市が取得し一般公開しています。旅館時代に増築された大広間は音楽サロンとしてリニューアル、客室も文化活動や展示会などに有料で貸し出すなどし、今までに100万人が訪れたそうです。まちの魅力が増えました。(2016.07.01

 

 

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アングル101

復元された鶴翔閣内部
復元された鶴翔閣内部

 ~横浜三渓園の鶴翔閣~

  

 横浜市本牧の国指定名勝三渓園は2016年(平成28年)に開園110周年を迎えました。三渓(富太郎)は明治から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した実業家。「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産になってから、横須賀製鉄所の妹として富岡製糸場が紹介され、横須賀との繋がりがクローズアップされるようになりました。富太郎は1902年(明治35年)富岡製糸場を三井から譲り受け、1939年(昭和14年)まで経営に当たりました。経営者として、また、文化人として知られる富太郎が、家族との住まいとして1902年(明治35年)に建築したのが床面積約290坪の鶴翔閣でした。居住用の棟、来客用の棟など平面が鶴の飛翔の形に似ていることからの呼び名だそうです。5階建てに相当する高さの茅葺屋根は、傷んだところはその都度さし茅をし、30年ぐらいで葺き替えるそうです。一度は取り壊しの話も出たそうですが、横浜の文化継承の目的で、1998年(平成10年)から解体・調査・聞き取りなどを行い、2000年(平成12年)に復元され、現在は貸出施設としても活用されている横浜市指定有形文化財です。横須賀市の茅葺民家、市立万代会館の存続も不可能ではなく、活用が考えられると思います。(2016.06.15