建築探偵のアングル

アングル120

桜咲くレンガ
桜咲くレンガ

~横須賀レンガの一生~

  

横須賀は坂と階段が多いのが特徴です。崖があれば擁壁がある。擁壁は時代によって石積みだったりコンクリートブロックだったり、石積みにモルタルが塗られていたりと様々です。ちょっと気にして探すと市内あちこちでレンガの塊で積まれた崖が見られます。関東大震災で崩壊した軍関係の施設などをブロック状にして石積み代わりに使われたものだと言われています。

   レンガには製造したところを示す刻印が押されていることが多く、市内で製造されたものでは「ヨコスカ製鉄所」が最も古いとされていますが、よく知られているのが「桜」の刻印で、葛飾にあった小菅集治監で製造された囚人煉瓦とも呼ばれるものです。刻印は平面にあるのがほとんどで、長手や小口面が見える場合が多い崖積みではなかなか見つけられません。写真の単弁桜のレンガは三春町の春日神社近く、側溝だった暗渠の側面に見られる刻印です。このレンガは明治20年代に製造されたと思われ、主に陸軍施設に使われたそうですが、どうしてこの場所にあるのかは近所の方もわからないとのことです。いずれにしても明治、大正、昭和、平成といろいろな場面で歴史をつないできた単弁桜がひっそり咲いていました。(2017.04.01

 

 

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アングル119

番場浦の採掘場跡
番場浦の採掘場跡

 ~真鶴の新小松石~

  

 千代ケ崎砲台は浦賀から燈明堂入り口バス停を左折、燈明堂への道を右折し軍道でもあった坂の上にありますが、現在は一般開放されていません。千代ケ崎砲台は1892年(明治25年)12月6日に起工し、1895年(同28年)2月5日に竣工、1944年(昭和19年)7月まで設置されていました。この砲台に使用されているのが真鶴の新小松石です。新小松石は「相州堅石」とも呼ばれ、15万年前に形成された箱根外輪山溶岩グループの安山岩で、土木・建築用に使用されており千代ケ崎砲台や横浜船渠2号ドック(現ドックヤードガーデン)にも使用されています。新小松は現在採掘されていませんが採屈場跡は見ることができます。景勝地として知られる真鶴の三ツ石海岸から海岸沿いに歩くと番場浦の石切り場跡に行かれます。板状節理の切り出した様子がよくわかり海岸なので運び出しにも便利だったと思われます。

   岩海岸近くにある民俗資料館は、採掘・販売・据え付けなど石材業を行った土屋大次郎家旧宅で、石材関係の資料や生活用品などを展示。資料館の資料によると横浜港の整備や横須賀の軍港築港などの工事に大量の石材を供給し、帰りの船には日用雑貨を積んできたということです。(2017.03.17

 

 

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アングル118

防衛大学校の坂からの富士山
防衛大学校の坂からの富士山

~横須賀から見る富士山~

 

 建築関係の9団体で構成される「よこすか都市景観協議会」が設けた≪すかまち景観デザイン賞≫が発表されました。第1回目の今年は、美しい景観づくりを促進する「景観デザイン部門」に「ニフコYRP防爆棟・実験棟」など3件、「富士山ビューポイント部門」には応募写真の中から8点(8か所)が選ばれ、「富士見小学校とその付近から見た富士山」が大賞になりました。「雄大な富士山を見ながら過ごした小学校時代の風景は一生の宝です」との講評でした。「防衛大学校に上がる坂」からの富士山は、探偵団とのコラボで坂道歩きをしている坂道研究会の吉田さんの作品です。

 谷戸と坂、階段と石積みは横須賀の特徴的な地形であり景観形成の材料でもあります。歳をとると暮らしにくい、車が入らない、商店街が減って買い物が不便、病院にも行かれないなどの声もありますが、静かで緑豊か、ご近所との日頃のお付き合いと助け合いなど住めば都の条件もいっぱいあります。

 YRPの緑豊かな台地に建築された、環境に配慮された建物として受賞したニフコ。横須賀らしい景観の魅力を採り入れた建築が増えるといいですね。(20171.03.01

 

 

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アングル117

展望台だった防空指揮所跡
展望台だった防空指揮所跡

~猿島の展望台~

 

 三笠艦と猿島は昔から横須賀を代表する観光施設です。冬の間の猿島航路は土、日、祝日のみに運行されていますが、2月は市政記念の市民割引で通常の半額で利用できました。はとバス、キンツリと観光バスでの来島者の多いことにビックリ。ガイドがグループ分けで弾薬庫や兵舎を案内していました。

  島の一番高台に展望台跡があります。現在は危険なためか入ることが禁止されていますが、かつては展望台として子ども達にも人気でした。ここは第2次世界大戦中の防空指揮所と言われているコンクリート製の施設で、斜面に入り口部のある地下施設と、構築時期が異なる地上2階建て施設で、屋上へ上がる階段がありますが、戦後、部分的に改変された可能性もあるそうです。広場からは横須賀市街、スカイラインの美しい丘陵、大きな富士山を見渡せますが、樹木が茂った外海側の千葉方面は望めません。樹木の根はレンガ構造物にとっても負担かと思いました。

  1847年(弘化4年)、江戸幕府によって台場が築かれてから太平洋戦争終結まで軍事施設であった猿島ですが、歴史を伝える史跡として朽ちながらも頑張っています。(2017.02.15

 

 

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アングル116

旅籠時代を再現した柏屋の内部
旅籠時代を再現した柏屋の内部

 ~大旅籠柏屋(かしばや)~

  

 東海道の品川宿から21番目の宿、岡部宿。町並みは南北に約1.5キロで宇津ノ谷峠の手前の宿場でした。内野家が元禄年間から明治時代までの約180年間本陣を務めた大旅籠柏屋ですが、2回の火災にも遭いました。当初の建物は残っていませんが、江戸時代に再建された建物が現在残っています。1973年(昭和48年)に「岡部宿本陣跡」として市指定史跡に指定されています。

 岡部町では「東海道岡部宿歴史のふるさとづくり推進事業」の一環として柏屋の修復を行いました。建設当初の姿を再現するために発掘調査、解体調査、「諸入用之覚」など資料調査を行い、1836年(天保7年)に建てられたことが確認できました。古い部材はできるだけ手を加えず使用、腐った部分などやむをえない部分のみ新しい材に、推定は避け確実な証拠に基づいた復元を基本に行い、1998年(平成10年)に工事が完了。同年1026日、国の登録有形文化財に認定されました。2000年(平成12年)から主屋は江戸時代の旅籠の様子や人々の暮らしを展示・体験する歴史資料館となっています。広い中庭には蔵を利用したギャラリー、食事処などなどもあり、子ども達の体験学習も行っています。(2017.02.01

 

 

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アングル115

どっしりとした構えの山田酒店
どっしりとした構えの山田酒店

~三崎の街を行く~

  

 バス停三崎港周辺は「うらり」を中心にマグロや野菜お目当ての観光客が多いところです。土蔵造りの店蔵やそれぞれに個性的な戦前の店舗が並び、三崎の景観を保っている地域です。バス停向こう側に山田酒店の大きな看板とどっしりした入母屋造瓦葺の商店があります。昭和初期に建てられた店舗付き住宅で、昔は米・みそ・酒の城ケ島への荷扱いをしていたそうです。今も酒屋さんの商いをしており、店内の造りは建築当時のままです。2年前から後ろの土蔵造りの母屋を旅館にしました。≪酒宿≫山田屋は素泊まり専門、1泊4000円で8畳と10畳の二間、人数に関係なく1日1組。希望があればご主人が三崎の昔を話してくれるそうです。「飲みたかったら1階で買って持ち込めばいいよ」。

   隣の長く空き家だった蔵を3年ほど前に壁紙専門店として若い職人さんが開業、世界中の壁紙を扱っています。探偵団が三浦市の建物調査をしたのが2003年(平成15年)。まちの様子もだいぶ変わりました。漁具船具の専門店が減ったこと、商店街のシャッターと空き地が増えたこと、蔵造り店舗の飲食店化が目立つことなどが感じられました。調査時から変わらぬ佇まいの建物も多く見られました。(2017.01.15

   

 

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アングル114

宇津ノ谷峠の明治のトンネル
宇津ノ谷峠の明治のトンネル

~宇津ノ谷峠明治のトンネル~

 

 静岡県のまちなみ50選に選定されている宇津ノ谷の家並みは山間の集落です。1590年(天正18年)、秀吉の小田原攻めの際に馬のワラジを差し出した村長の忠左衛門に礼として拝領された秀吉の陣羽織を伝える≪お羽織屋≫を始め、古民家がなだらかな坂道に沿って東海道の難所の一つ宇津ノ谷峠に向かって立ち並んでいます。突き当りを右に行くと峠越え、左に行くと国登録文化財、静岡市都市景観賞に選定された≪明治のトンネル≫があります。説明板によると1874年(明治7年)、杉山喜平次など地元の有力者7人が発起人となりトンネル工事を開始。総工費24800円余り、労役人夫延べ15万人で1876年(明治9年)6月に完成した日本初の有料トンネルでしたが、火災で入り口が崩壊し、1904年(明治37年)にイギリス式4重レンガ積みに修正。1930年(昭和5年)に旧国道トンネルが開通するとあまり使われなくなったため保存状態が良好とのことです。

 横須賀市でも民間有志の寄付で1887年(明治20年)、船越に梅田隧道が開通しています。船越新田、田浦、浦郷にかけて海岸が海軍用地となり、上陸も船の通行も禁止となったため、長さ210メートルの隧道が開削されたのです。(2017.01.01

 

 

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アングル113

花沢地区の街並み
花沢地区の街並み

~静岡県焼津市の「焼津市花沢伝統的建造物群保存地区」~

 

 焼津の地名はヤマトタケルの東征の際、この辺りで賊に襲われ、囲まれて火を放たれたのを草薙の剣で燃える草をなぎ倒し脱出したという伝えから「やきつ」と呼ばれていたことに由来するそうです。

 2014年(平成26年)9月に国重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは、焼津市北方の山間部、花沢川に沿った30戸ほどの山村集落で、周辺のミカン畑と山林などの斜面地を含んだ地域です。建築物としては主屋、附属屋、蔵、寺社。工作物としては石造物、石垣、石積み、石段など、環境物件として河川や自然物が含まれています。輸出用ミカン栽培で栄えたころは一面ミカン畑だったそうですが今は盛んではありません。花沢川に沿った集落はきれいに積まれた石垣の上に作業小屋、奥に立派な主屋があります。付属屋である作業小屋の羽目板の一部が隠し窓になっていて開いているときには農作物を無人販売しています。蔵をカフェにするなど伝建地区の活性化に向けて集落全体がうごきだしたように感じました。駐車場、トイレなどが整備されましたが観光地化していない静かな山里の風情が素敵でした。(2016.12.15

  

 

 

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アングル112

寄贈されたオルガン
寄贈されたオルガン

~井上大将のオルガン~

 

 三崎口から荒崎行きバスに乗り終点で下車、バス停前にある真新しい荒井町内会館に最後の海軍大将井上成美ゆかりのヤマハ製足踏み式リードオルガンが置かれています。井上は終戦後から1977年(昭和52年)1215日に86歳で亡くなるまで、最初の妻喜久代さんの結核療養のために別荘として建てたこの家で暮らしました。自宅で英語塾を開いたことはよく知られていますが、授業が終わるとギターやアコーデオンで英語の歌を歌い、休み時間には子ども達におやつを出してくれるなど厳しくも優しいミスター井上として慕われていたそうです。海軍時代からピアノや琴の演奏もするなど音楽への造詣が深かったことでオルガンもきれいにひかれたことでしょう。

   町内会館にあるリードオルガンは、1963年(昭和38年)ごろ井上から長井保育園に寄贈され10年ほど使われた後、物置にしまわれていましたが、2014年(平成26年)に処分するかどうかとなった時、ゆかりの地である荒井町内会館で保管することになったとのことです。翌年には「井上大将のオルガンを復活させる会」が発足、イベントが開催されました。オルガンが元の音色を取り戻すためにはかなりの費用が掛かるそうで今は演奏ができない状態です。いつかは残されたオルガンが井上成美の人物像と共に地域歴史を語る宝となることでしょう。(2016.12.01

 

 

 

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アングル111

大人気の道の駅保田小学校
大人気の道の駅保田小学校

~道の駅 保田小学校~

 

 久里浜からフェリーで金谷へ。内房線浜金谷から一つ目の保田駅から徒歩で15分、富津館山道路鋸南IC近くに2015年(平成27年)1211日、来街者にも地元住民にも親しめる施設を目指しオープンした「道の駅 保田小学校」があります。1888年(明治21年)に保田尋常小学校として開校した歴史ある学校でしたが、近年は70人程度に児童数が減少、勝山小学校と統合し2014年(平成26年)4月からは勝山小学校の校舎で鋸南小学校として新たに出発。40年余り前に建築された保田小の鉄筋校舎の教室をそのままにリノベーションし、案内所、ギャラリー、体験室、食堂、音楽室などにしました。窓側に自由に使える縁側としてのベランダ、エレベータ、きれいなトイレ、お風呂を新設、宿泊もできます。体育館は地元商品を中心にお土産などの販売スペースになっています。「道の駅保田小学校新聞」を発行するなど官学民一体でまちの活性化に取り組んでいる様子がうかがえました。開設1周年、この盛り上がりを維持する努力をしているとのことです。

 横須賀市では歴史ある豊島小学校が5年後には統合されるという話もあるようです。地域の活性化のために役立てる工夫は考えられないでしょうか。(2016.11.15