建築探偵のアングル

アングル130

復元された日輪兵舎
復元された日輪兵舎

~復元された日輪兵舎~

  

 水戸市内原町に2003年(平成15年)2月にオープンした「内原郷土史義勇軍資料館」があります。内原郷土資料と満蒙開拓青少年義勇軍の資料が展示されています。国策事業として1938年(昭和13年)から終戦までの7年間、満州開拓農業を営む目的で全国から14歳から18歳までの青少年を募集し、満蒙開拓青少年義勇軍を組織し、満州へ渡るまでの3カ月間、農業訓練や集団生活の訓練を行ったのが内原訓練所でした。当時日本は凶作続きだったため、食料増産の目的で満州での農地開拓・食糧増産計画を進めました。満州での大農経営を夢見た農家の2、3男を中心に7年間で86530人の少年たちがここでの訓練ののち満州へ渡りました。

 訓練生の宿舎は日輪兵舎と呼ばれる太陽のような円形の建物で、大きさは直径109メートル、内部は中2階造りで1棟当たりの最大収容人数は75名、通常60名ほどが暮らしました。創案者は古賀弘人(1893年(明治26年)~1948年(昭和23年))で構造が簡単で工期が短く低価格だったため何棟も建ちました。資料館の中庭に復元された日輪兵舎があります。窓が多く明るい室内でプライバシーはないものの、現在でもキャンプ場などに使えるユニークな建物でした。(2017.09.01

 

 

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アングル129

シャッターが閉まったヤジマレコード本店
シャッターが閉まったヤジマレコード本店

~横須賀の商店~

  

 今年に入って横須賀の老舗商店の閉店が続きます。1949年(昭和24年)創業(横須賀経営経済史年表)の平坂書房が閉店し、文教堂書店に引き継がれます。書店としては継続されることになりましたが、長く親しまれた「平坂書房」の名前はなくなります。ただし、馬堀店はこのままの店名で独立営業するそうです。

   戦前からレコードの老舗として知られた「ヤジマレコード本店」が7月末で閉店しました。映画の主題歌が商店街に流れ、新曲が出ると筆書きで歌詞を入り口に張り出すので紙に書き写しに行った、という思い出のある人も。店内に生けすがあった魚籃亭、海軍カレー発祥の海軍カレー館、明治初期創業の家庭用品のフジワラは休業に入り、鰹節の沼津屋、そのほか酒店や飲食店など看板を下ろしたところもあります。

 時代の変化はめまぐるしく、交通・通信・様々な機器の対応に追いつくのもままなりません。今年の5月号掲載の本町の看板建築はこの8月に取り壊されました。日々暮らしているだけで、まちも時代も生きていることを実感します。(2015.08.15

 

 

 

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アングル128

東京湾海上交通センター
東京湾海上交通センター

 ~東京湾海上交通センター~

  

 国内初の洋式灯台として観音崎灯台が点灯したのは1869年(明治2年)1月1日。関東大震災後に建設された3代目となる現在の灯台は、照度に合わせて点灯する無人の灯台です。

   観音崎バス停からつづら折りの坂道を上ると灯台のような白いレーダー塔のある建物があります。呼び出し名称の≪とうきょうマーチス≫として知られる東京湾海上交通センターで、浦賀水道航路、中ノ瀬航路と行き交う船舶が集中し混雑する東京湾口の海上交通の安全を守ることを目的に、1977年(昭和52年)に運用開始され、今年で40周年を迎えました。センター建設のための調査が1970年(昭和45年)に始まり工事に6年を要しました。何しろ終戦まで観音崎はすべてが要塞地帯だったので、掘れば弾薬庫や砲台、地下通路などが迷路のようにあるため工事は難航したそうです。

   東京湾口からは横浜・川崎・東京・千葉・木更津と重要港が多く、最重要水域として全国7か所の海上交通センターの中で初めて運用されたのが観音崎でした。近年、情報収集や通信技術の発達、レーダー能力アップにより運用業務を共用して効率化を向上させるため、来年1月から横浜の第3管区海上保安本部へ移ることになったそうです。ここは無人になるそうでレーダーのみが寂しく働きます。周辺は砲台跡、トンネルなど戦跡が残っていますが、灯台もセンターも無人化ということでは技術の進歩を知ることになります。(2017.08.01

 

 

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アングル127

几帳面に出会った「うみべ」
几帳面に出会った「うみべ」

~几帳面に出会う~

 

 大火の多かった三崎では、防火のため石材が多く使われています。主に房州石を使った木骨石造の蔵造りなど、100年以上前から昭和初期に建てられた建物などがまちを特徴づけています。三崎町3丁目の「うみべ」は現在クラフトショップですが、以前は下駄などを扱う履物店でした。大正初期に建てられた店蔵、2階建ての住居、倉庫としての蔵すべてが蔵造りで、住居部分の開口部にも防火扉を付けるなど火に対する備えが万全の建物です。几帳面に出会ったのは住居部分2階の天井の桟でした。角を丸く削りその両側に段をつけるという手の込んだ造作で、寝殿造りの几帳の柱に用いられたことに由来するそうです。几帳面は物事の隅々まできちんとするという意味もあり、建築主の心構えを現したものだとも感じました。

 三崎のランドマークと言える「料理旅館三崎館」は創業1908年(明治41年)の老舗で、現在の建物は19321934年(昭和7~9年)の建築。大広間は横須賀の米が浜にあった「料亭小松」がモデルでした。大広間の間仕切り欄間は現在三崎の海南神社の山車に取り付けられています。以前は材木商や大工でもあったことで銘木が随所に使われています。(2017.07.15

 

 

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アングル126

圧倒される茅葺屋根日向薬師の宝城坊
圧倒される茅葺屋根日向薬師の宝城坊

~茅葺が美しい日向薬師宝城坊~

 

 伊勢原市日向の山にどっしりとした茅葺のお堂があります。現在では日本三薬師の一つ「日向薬師」として知られる714年(霊亀2年)に行基菩薩が開創したと伝えられる古刹です。源頼朝が大姫の病気平癒を祈願するために訪れていますが、付近の尾根道からは江の島・鎌倉が正面に見え、近しい気がしました。現在の堂宇は1660年(万治3年)徳川家の助力で再建されたもので、その後2回の大修理が行われましたが、このたび平成の大修理が約7年半にわたって行われ、2016年(平成28年)にその堂々とした姿を現しました。

   お堂は解体修理し、部材は痛みのひどい部分は新しくし、ほとんど昔のものを使うことが出来たということです。柱や梁のオレンジ色の部分にはベンガラ、黒い部分にはニカワとスミを混ぜたものを塗り、茅は御殿場の萱場のものということでした。お堂には平安・鎌倉・室町の仏像が安置されています。

  横須賀の万代会館の屋根の補修の茅も、御殿場からボランティアの方が自費で購入して葺いてくれていました。日本民家園で使用されている茅も同じ材料ですが、万代会館は表情豊かな数寄屋を採り入れた別荘建築が特徴です。(2017.07.01

 

 

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アングル125

多摩の歴史と自然を伝える旧聖蹟記念館
多摩の歴史と自然を伝える旧聖蹟記念館

~旧多摩聖蹟記念館~

  

 多摩市連光寺の都立桜ケ丘公園内にある旧多摩聖蹟記念館は、12本の太い列柱が入り口付近を取り囲むように配された円形の建物です。明治天皇が兎狩りと鮎釣りで4回この地を訪れたことから、内大臣を務めたことがある田中光顕によって建てられた明治天皇の顕彰記念館でした。設計者は関根要太郎、施工は大倉土木、1930年(昭和5年)6月26日に竣工した高さ11メートルの地上1階建て鉄筋工ンクリート造で、建物中心に高さ3メートルの明治天皇の銅像があります。一時は老朽化のため取り壊しも検討されましたが昭和初期の近代建築として保存の要望が強く、1986年(昭和61年)多摩市指定有形文化財として指定、多摩市が改修後、管理・運営しています。2002年(平成14年)には東京都により「特に景観上重要な歴史的建造物等」に選定されました。

   明治天皇は横須賀造船所(現米海軍基地)へ数回行幸されています。最初は1872年(明治4年)1121日、お召し艦「龍驤」で午後3時に横須賀港へ到着、造船所新庁舎前波止場から上陸されました。現在横須賀幼稚園の建つあたりの向山行在所に2泊して造船所内の各工場などをつぶさに見学されました。(2017.06.15

 

 

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アングル124

Yデッキ下の公衆電話ボックス
Yデッキ下の公衆電話ボックス

~さようなら公衆電話ボックス~

  

 NTT東日本の公衆電話ボックスが姿を消しつつあります。近年、携帯電話、スマートフォンなど通信手段の多様化により公衆電話の利用が急激に少なくなってきたことで事業収入が悪化し、このままでは安定したサービスが続けられなくなったことが主な理由だそうです。けれども500メートル圏内に1台は置くようになっているので全部がなくなるわけではありません。担当者の話では、中央駅周辺は特にボックスが多かったので撤去される数も多く、電話線が地下埋設なので撤去工事には時間がかかりますが9月を目途にしているとの事でした。跡地は県や市の道路管理者が有効に活用してほしいものです。

   横須賀経済経営史年表によると、横須賀郵便局で電話交換業務が開始されたのは1905年(明治38年)3月18日で、1907年(明治40年)末の電話加入者は224人でした。各家庭に電話が引けるようになったのは昭和40年代ではないでしょうか。今では電話器ともいえないほど多機能が付けられ、ラインやゲーム、予約、買い物、支払い、なんでも応じてくれる分身の様になりました。でも、基本は顔を見て、相手を感じながら話せると楽しさも数倍です。(2017.06.01

 

 

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アングル123

作業風景
作業風景

景観性に富んだ型押し舗装~

  

 横須賀市のドブ板通り商店街に続く、本町通りの水道管工事に伴う車道舗装工事が進んでいます。≪型押しカラーアスファルト舗装≫という工法で、景観性に富んだ優れものです。歩道・軽交通道路・遊歩道・駐車場などに使われているそうです。アスファルト舗装した表面を熱で温め、テンプレートという約2×3メートルの型を敷いてローラーで圧入し、しばらくして取り外すと型押しパターンが舗装表面に転写され立体模様がつきます。単調なアスファルト舗装があっという間に敷石のブロック舗装の様な表情に変わります。テンプレートの型押しパターンによっては様々な意匠が付けられるということです。段差やガタツキがなく滑り止め効果がある、パターンが目地状になっているので水切りがよく、ブロック舗装に比べて施工が短期間。本町の場合は最後にカラー塗装をしてさらに路ごとの個性を表現するそうです。今なら工事現場を見学できるはずです。

   目地の部分にたばこの吸い殻がはさまって、ちょっと取りにくいように感じました。歩きたばこのポイ捨てや空き缶の投げ捨てにも気をつけたいものです。(2017.05.16

 

 

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アングル122

冬木立かな自衛艦
冬木立かな自衛艦

~只(はんしょう)の冬木立~

  

 ヴェルニー公園の一角に正岡子規の文学碑『横須賀や只帆檣の冬木立』が建てられています。子規は1888年(明治21)年、第一高等中学校の学生だった8月の夏季休暇に、同級生と共に船で横須賀を訪れ、浦賀・横須賀方面の旅をしました。この句はこのとき詠んだもので句集「寒山落木」に収められており、1991年(平成3年)に横須賀市の文学碑9号として建碑されています。帆檣(はんしょう)は帆柱のことで、真夏に詠んだ句ですが艦船のグレーの帆柱が冬木立のように感じられたということのようです。当時の軍港横須賀の風景が詠まれた一句です。

   現在のヴェルニー公園は戦後、臨海公園として開放され、引き込み線跡やプール、ブランコなどがありました。今では軍港巡りが横須賀一の観光スポットで、米軍の空母が入っているときは大人気です。北朝鮮が話題になった昨今、子規の句のような光景が見られました。自衛隊の艦船と米軍の艦船、米空母の帆檣が整然と並び「横須賀」を再認識しました。現在の公園は記念碑、慰霊碑、句碑、胸像、衛門、大砲、スチームハンマーなど軍港都市として発展してきた横須賀文化の展示と同時に桜やバラが美しい憩いの場所となっています。(2017.05.01

 

 

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アングル121

自然を満喫バンガロー
自然を満喫バンガロー

~ソレイユの丘のキャンプ場~

  

 長井海の手公園「ソレイユの丘」にオートキャンプ場がオープンしました。バンガロー5棟とテントサイトで、年間70008000人の利用者を見込んでいるようです。バンガローの建築コンセプトは『環境と一体化し、非日常が体験できるテントに代わる宿泊施設』ということで、住宅の寝室と野天(野宿)で寝る場合の双方の快適感を得ようという建物です。建物概要は木造平屋建てで塗料も含め自然素材を使用、風を意識したスレート片流れの屋根、星空を楽しめるように開口部を広くした3枚建ての引き戸。アカシアのフローリング床、壁は珪藻土、シナ合板の天井で太い松丸太の梁がより自然を感じさせてくれます。

 自然素材とは木、土、草などを利用する建築材、見てすぐわかるのは津久井の万代会館。茅葺に象徴される建物であるばかりでなく、光、風、空気なども取り込んだ健康的に過ごすという目的を持った民家です。万代会館はこの2月、施設適正化計画から外され、概ね10年以内に取り壊し売却の網からはずれました。横須賀市内には歴史を語る建物がほとんど見られなくなりましたが、一棟の茅葺民家の存在をどのように活かすかは私たち市民に課せられました。(2017.04.15