建築探偵のアングル

アングル150

秋田市赤れんが郷土館
秋田市赤れんが郷土館

~秋田市立赤れんが郷土館~

 

  秋田市大町、赤れんが郷土館は旧秋田銀行本店本館として1909年(明治42年)に着工し3年後に完成した赤れんがの建物で1994年(平成6年)に国重要文化財に指定されました。秋田銀行創業100周年、秋田市政施行90周年を記念して1981年(昭和56年)秋田市に寄贈され、修復工事の後、1985年(昭和60年)に開館、毎年7月7日には七夕コンサートなど記念行事が行われています。当初、銀行は建て替えも検討されたようですが、市民の願いと熱意の働きかけもあり保存活用となったそうです。見学にはボランティアガイドの説明があります。

 レンガ造2階建て、外壁は2階が赤い化粧れんが、1階は白の磁器タイル、東京駅と同じ宮城県産の玄昌石の屋根、土台は男鹿石の切り石積み、内部には国内各地産の大理石、腰材には蛇紋岩が使われ美しい緑が印象的でした。

 秋田市では1982年度(昭和57年度)から良好な都市景観に貢献しているものを表彰して≪景観賞≫のプレートを掲示しています。赤れんが郷土館は第5回の1986年度(昭和61年度)の受賞。玄関近くに寄贈されたいわれと並んで景観賞のプレートが付けられています。横須賀市にもあったらいいのにと思いました。(2018.07.01

 

  

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アングル149

強首温泉樅峰苑の圧倒される玄関破風
強首温泉樅峰苑の圧倒される玄関破風

~豪農の宿 強首樅峰苑~

 

 慶長7年(1602年)、常陸国水戸から出羽国に移封された佐竹義信を初代とする秋田藩。藩主と共に当地に入り、庄屋を務め地域一帯の開発、いもち病に強い稲(強首)の改良など地域の中心的役割を果たしてきた小山田家の住宅として1917年(大正6年)に建築されたのが秋田県大仙市の強首温泉樅峰苑です。1914年(大正3年)の強首地震でそれまでの茅葺大屋根が倒れたのを教訓に、耐震技術を京都で習得した宮大工井上喜代松が3年がかりで完成させました。建物は擬洋風で表玄関の屋根の最上部に千鳥破風、中上部は入母屋造、下部は唐破風、内玄関は起り破風と様々な様式を取り入れた大正期の豪農屋敷の建物で、国登録文化財に登録されています。廊下は約16メーターの一枚通しの秋田杉、3部屋通しの長押などインドから輸入した床柱のタガヤサン以外は自山から伐り出した材木とのこと。総檜の浴槽、内部の設えにも随所に特徴や仕掛けが見事です。

   強首地区一帯は暴れ川「雄物川」の洪水での氾濫を繰り返し、財産や家畜の被害に遭ってきました。集落の周囲を堤防で取り囲み水害を防ぐ目的の≪強首輪中提≫が2002年(平成14年)に完成し、地域住民の暮らしが守られるようになりました。(2018.06.15

 

 

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アングル148

拓殖大学国際教育会館
拓殖大学国際教育会館

~拓殖大学国際教育会館~

 

 1899年(明治32年)から1900年(同33年)の義和団事件は中国民衆の外国人排斥運動を日・英・米・露・独・仏・墺連合軍が北京を攻略したことで終結、清は連合軍に多額の賠償金を支払いました。日本では義和団事件の賠償金を元に、東洋文化を研究するため「東方文化学院東京研究所」を建設しました。内田祥三(よしかず)博士の設計で1933年(昭和8年)に建築された和風東洋風の建物です。太平洋戦争後は東大、外務省、大蔵省などと所有が移り空室の時期もありましたが、2000年に創立100年を迎えた拓殖大学が大きな変更をせずに保存活用をするとのことでこの歴史的建物を取得、2003年(平成15年)から拓殖大学国際教育会館として別科 日本語教育課程と大学院言語教育研究科の授業を行っています。一棟の建物からそれぞれの国の思惑、世界の歴史の臨場感が感じられた気がしました。建物玄関に鎮座していた獅子の彫刻は現在、東大に据えられています。設計者の内田博士は安田講堂はじめ震災復興期の東大の建物を多く手掛け東大総長も務めました。平穏で緑が美しい講堂前庭園、学生と学校の攻防があった記憶も感じさせず、学生の就活では官僚志向も多いこのごろのようです。(2018.06.01

 

 

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アングル147

右第一海堡、左第二海堡
右第一海堡、左第二海堡

~東京湾第一海堡~

  

 千葉県富津岬沖の第一海堡へ行きました。久里浜からフェリーで金谷へ、浜金谷からは本数の少ないJR内房線で青堀まで約30分、そこから一時間に一本のバスで富津公園終点へ。岬まではそこから歩いて約20分。1966年(昭和41年)、旧陸軍用地が整備され松林の広がる富津公園が開設されました。広大な公園は旧陸軍技術本部富津試験場として試験射撃などが行われていた歴史があり、今でも当時の姿を残しています。

 岬の突端には五葉松をイメージした明治100年記念展望塔が1973年(昭和48年)に建てられ、360度の視界を楽しめます。岬から約15キロの位置にあるのが第一海堡で面積23,000㎡、1881年(明治14年)から1890年(同23年)にかけて建設され、写真左奥の第二海堡は41,000㎡で1889年(明治22年)から1914年(大正3年)にかけて建設されました。共に地籍は富津市で、2007年(平成19年)に撤去された第三海堡は横須賀市の地籍でした。いずれも建設の中心は、横須賀市中里(現上町)に住んだ陸軍工兵少佐、西田明則で横須賀市富士見町の聖徳寺新墓(しんばか)に海堡のある東京湾に向かって墓が建てられています。第一海堡へは危険ということで渡れませんでした。(2018.05.15

 

 

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アングル146

松聲閣
松聲閣

~細川家の学問所だった松聲閣~

  

 文京区の椿山荘近くにある区立肥後細川庭園は江戸時代には細川家の抱屋敷、下屋敷があった場所で、1887年(明治20年)ごろに細川家の学問所「松聲閣」が置かれ、関東大震災後は仮本邸として使用されていたようです。1950年(昭和25年)に西武鉄道が所有、その後東京都が買収し都立公園時代を経て2000年(同50年)に文京区に移管され、改修工事が終わった2016年(平成28年)にリニューアルオープンし現在は室内無料見学、喫茶席、有料貸室になっています。整備事業は2014年(平成26年)から行われ、既存木材や器具をできる限り再利用し、過去の図面や写真を参考に原型に近い形で整備されました。工事工法は今では珍しいとされる柱と屋根をそのままに全体を持ち上げる≪揚屋工法≫が用いられ、工事見学会も行われたそうです。オープンにあたって指定管理者制となり、公園財団と西武造園の共同企業体による肥後細川庭園パークアップ共同体が運営しています。建物管理、来客対応などを行い、建物の修理などは区の予算で行うそうです。

 区では「新江戸川公園からはじめる緑と歴史のまちづくり」事業のために協議会を組織し区民や観光客に愛される風情ある都市公園に努めているそうです。(2018.05.01

 

 

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アングル145

カフェUOSA  入口
カフェUOSA 入口

~古民家活用~

 

  汐入駅から坂本方面へ3分ほどのところを右折、4軒目ぐらいの角に「CaféUOSA」と小さな看板のあるカフェがあります。店名のUOSAはこの建物が昭和3年に建てられた「魚佐」という屋号の魚屋さんだったことに由来します。海軍工廠で働く人や軍人が多く住んだ戦前から終戦前後には、多くの魚屋さんの2階は結婚式や宴会場として使われていました。魚佐の2階も手摺のついた階段が2か所あり、大きな窓のある明るい広間です。現在カフェとして利用しているのは店舗と居間の部分。営業は土・日の13時から17時ごろまでですがアットホームな中で講座やコンサートも開催されています。建物を大切にとのオーナーの願いのこもったカフエとなっています。

 この辺りからさらに奥の汐入5丁目、200段階段の上に建築家、公務員などのグループが空き家を改修した「みんなでつくる山の家」があります。近所のお年寄りの集う場所でもあり、時には落語会やコンサートも行っています。

   このほかにも最近空き家活用のニュースを耳にしますが、長く維持してほしいものです。押入れ・床の間・濡れ縁・廊下なども少なくなってきたと感じます。(2018.04.15

 

  

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アングル144

染井の蔵
染井の蔵

 ~ソメイヨシノの里駒込染井の蔵~

 

 オオシマザクラとエドヒガンザクラの交配種と言われるソメイヨシノは、幕末の染井村が発祥とのことで≪染井よしの桜の里公園≫はじめ小学校や社寺、霊園など桜のトンネルを含めてあちこちにソメイヨシノが咲き誇っていました。シダレザクラで知られる六義園は柳沢吉保から岩崎弥太郎の所有を経て東京市に寄付されて一般公開となりましたが、染井村辺りは大名屋敷が多かったため大規模な植木屋が多数あったそうです。その一軒が「門と蔵のある広場」として提供されている丹羽茂右ヱ門家の屋敷跡の一角で、2009年(平成21年)開園しました。広場には旧藤堂家下屋敷から移築された腕木門と1936年(昭和11年)築の鉄筋コンクリート造2階建ての蔵があります。蔵の出入口鉄扉内側に五三の桐の家紋、扉上部と柱には大理石が張られ床は檜。梁などに当時流行った洋風の意匠が用いられています。外壁はモルタル下地に砕石粒洗い出し仕上げ。外壁は腰巻、水切り、雨押さえ、窓庇など丁寧な仕事ぶりが際立ちます。建築当時の流行意匠が伝わる建物です。2008年(平成20年)国登録文化財に登録され、地元ボランティアにより展示などの際に公開されています。(2018.04.02

 

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アングル143

国登録の中島酒造所明治18年建築、奥座敷は天保年間築
国登録の中島酒造所明治18年建築、奥座敷は天保年間築

~佐賀県鹿島市の伝建地区~

  

有明海にそそぐ浜川の右岸に浜庄津町浜金谷町、左岸に浜中町八本木宿の二地域がそれぞれ伝建地区に指定されており、一帯が肥前浜宿界隈として町並み保存と観光に取り組んでいます。右岸地区は港町であり商工業の街としても賑わっていたそうです。左岸地区は長崎街道の脇街道であった多良海道に沿って江戸時代から酒造業が盛んだったそうでそれぞれに特徴ある建物が建ち並んでいます。左岸地区には現在も酒造通りと名付けられるようにいくつもの酒造蔵があり、国登録文化財の建物も6棟ありいずれも堂々とした佇まいで見学できるところもあります。

 「100年後の子ども達に残そうこのまちを」と、肥前浜宿まちづくり協議会により、まちづくり憲章が定められ「浜宿独特の歴史と生活文化にあふれた活力のある町の実現」に向けて活動しています。またNPO法人肥前浜宿水とまちなみの会では伝建地区指定10周年にあたる2016年に≪まちなみ保存と醸造文化の継承≫を日本ユネスコ協会連盟へ未来遺産登録するなど、まち全体で自分たちのまちを大切にとの思いが伝わる地域でした。(2018.03.20

 

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アングル142

旧香港上海銀行長崎支店
旧香港上海銀行長崎支店

~旧香港上海銀行長崎支店~

 

  長崎のグラバー園から見下ろす港、松が枝町に重厚な建物がありました。国指定重要文化財の旧香港上海銀行長崎支店で、下田菊太郎設計で1904年(明治37年)に竣工、1931年(昭和6年)に長崎支店が閉鎖後、警察署や資料館となっていました。その後取り壊しが計画されましたが、市民の保存要望を受け、解体的保存修理を行い、2014年(平成26年)4月に「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」としてリニューアルオープン。1階は多目的ホールで、銀行時代そのままの大きなカウンターや暖炉、シャンデリアなどを見学でき、有料貸出もしています。かつては右隣に1898年(明治31年)開業の長崎ホテル、左側に日本海運業に貢献したウオーカー商会が、前面の海岸にはサンパン(小舟)が多数停泊し国際貿易港として賑わっており、香港上海銀行は在留外国人貿易商が主な取引先の特殊為替銀行でした。

   設計者の下田菊太郎は明治から昭和初期に活躍した鬼才建築家で帝冠様式の生みの親と言われていますが、現存するのはこの建物のみということです。長崎は洋館が多く、このあたりは賑やかな商港で、海は同じでも横須賀の軍港とはちょっと違う個性でした。(2018.03.01

 

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アングル141

日本遺産「針尾送信所」
日本遺産「針尾送信所」

~旧佐世保無線電信所(針尾送信所)~

  

 2015年度(平成27年度)に文化庁が創設した「日本遺産」。横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4軍港都市が日本の近代化を支えたということで日本遺産に認定されました。

  太平洋戦争開戦を告げる「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したとされる佐世保市の針尾送信所は1918年(大正7年)から1922年(同11年)にかけて建てられた旧海軍の送信施設で、巨大な3本の長波無線塔が一辺300メートルの正三角形状に建ち、中心に電信室があります。3本の塔はいずれも鉄筋コンクリート製で高さが136メートルあるところから「イサム君」と呼ばれているそうです。基底部は約30畳分、頂部は10畳分ぐらいの円錐形煙突状で頂部に赤色灯が付けられており、現在は半年ごとに電気屋さんが内部の鉄梯子を30分かけて上り、付け替えているそうです。

 2013年(平成25年)に国重要文化財に指定されたのをきっかけに保存会ができ見学が可能になりました。半地下式2階建ての電信室は敗戦まぢかに地階部分が埋められ屋上には砲弾除けの厚いコンクリート屋根が付けられました。今後建造当時の姿に戻す予定だそうです。(肝心の電波塔が大きすぎて写真に撮れませんでした。すみません。)(2018.02.15