建築探偵のアングル

アングル170

ビル群の中にあって存在感のある横山大観記念館
ビル群の中にあって存在感のある横山大観記念館

~横山大観記念館~

 

  日本画家横山大観の記念館となっている旧宅は、台東区池之端1丁目、不忍池の近くにあります。建物は木造2階建ての数寄屋風日本家屋で1階には一時暮らした茨城県五浦の地にあった鉦鼓洞(しょうこどう)の名をつけた客間、第2客間、寝室、台所などがあり、画室は2階につくられています。この場所は大観が1909年(明治42年)から1958年(昭和33年)に89歳で亡くなるまで自宅兼画室として過ごしたところです。大観は岡倉天心などと日本美術院を設立、同院が1906年(明治39年)五浦に移転したのを機に移住しましたが1908年(明治41年)に五浦の自宅が全焼。再び上京してここに自宅を構えましたが1945年(昭和20年)の東京大空襲で蔵を除き全焼、1954年(昭和29年)に庭園も併せてほぼ以前と同じに再建されたのが現在の記念館です。大観は建築家にあこがれたこともあるほど建築に詳しく、庭を含めて建物は自身で設計しています。1976年(昭和51年)から記念館として一般公開され、2017年(平成29年)に国史跡及び名勝に指定されました。現在各部屋は季節ごとに展示替えされ展示されています。建物に関しての調査も進んでいるそうです。見学コースには絨毯が敷かれ、一部屋は売店として活用されていました。

 周辺は高いビル群、不忍池を散策するのが好きだったという大観を感じる静かな佇まいの旧宅です。(2019.05.01

 

 

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アングル169

見番だった井土ヶ谷町内会館
見番だった井土ヶ谷町内会館

見番だった井土ヶ谷上町第一町内会館~

 

 京急弘明寺駅から踏切を渡って弘明寺商店街と反対方向の旧道を行くと、真新しい住宅街の中に入母屋造り瓦葺きの玄関が人目を惹く2階建ての町内会館の建物があります。現在の外観は外壁がトタン張りとなっていますが、1937年(昭和12年)の建築当時は下見板張りだったそうです。2階は28畳の大広間で、格天井にはケヤキの1枚板が使われているとのことで、近代和風建築の特徴を今に伝えています。2018年(平成30年)9月に外壁の復元計画が具体化したことで横浜市歴史的建造物に認定されました。見番は芸者の稽古場所であり芸妓組合の事務所でもありました。この辺りは昭和の初めごろには10軒ほどの料亭があり、昭和26年ごろまでは花街として栄えていたということですが、役目を終えてからは警察の寮になり1976年(昭和51年)から町内会館として使われています。町内会館としては初めての横浜市認定歴史的建造物で、町内のシンボルとしての今後の活用が期待されています。

   近くには北条政子が化粧に使ったと伝わる「化粧の井戸」とお手植えのカヤの木がそびえる浄蓮寺があり、井戸は今も変わらず水をたたえていました。(2019.04.15

 

 

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アングル168

昭和10年建築の九里学園校舎
昭和10年建築の九里学園校舎

~九里学園高等学校校舎~

 

 米沢市門東町の街なかに風格ある九里学園の木造校舎があります。学校は1901年(明治34年)、「女性としての徳と社会で役立つ技能を身に着けさせる」ことを目的に「九里裁縫女学校」として設立されました。設立者の九里とみは近代和裁を渡辺辰五郎に学び、北里柴三郎や福沢諭吉の影響を受け、男尊女卑の時代に女子自立の教育を目指しました。現存する校舎は1935年(昭和10年)に建てられ、今も1階には理事長室、校長室や事務室など、2階は教室として使われています。木造2階建て瓦葺でL字平面、中央に垂直線を強調した玄関、外壁は下見板張りのハーフティンバーで2階窓枠下にある気抜きの小窓がアクセントです。昭和初期学校建築の好例として1997年(平成9年)に国登録文化財となりました。1999年(平成11年)からは男女共学です。近くに1922年(大正11年)建築の米沢織物を展示販売する洋風ファサードの「米織会館」があります。

 横須賀では1931年(昭和6年)に汐入町で誕生した「軍港裁縫女学院」が翌年若松町へ移転、「軍港裁縫女学校」に。現在は佐原に近代的な校舎の湘南学院となり男女共学です。(2019.04.01

  

 

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アングル167

米沢駅のモデルでもある工学部文化財建物
米沢駅のモデルでもある工学部文化財建物

 ~旧米沢高等工業学校本館~

 

 現在は山形大学工学部である旧米沢高等工業学校本館は米沢市の歴史の中心である上杉神社から20分ほどのところにあります。全国で7番目の高等工業学校として開設されたのは1910年(明治43年)、本館は1909年(明治42年)に起工し翌年7月に竣工。1949年(昭和24年)に山形大学工学部に改組されました。設計者は文部省建築課の技師中島泉次郎(18611943)。ルネサンス様式を基調とした木造2階建て一部1階建て両翼94メートル、両翼には小塔形の階段室があります。寄棟造で屋根中央部は宮城県産玄昌石のスレート、左右は桟瓦で葺かれています。下見板張りの外壁は月ごとに色の違うテーマで5時から10時までライトアップされています。因みに3月は緑内障予防月間で緑色が壮大な洋館を照らします。1973年(昭和48年)国重要文化財に指定され、現在は紡織・色染・電気通信などの資料館や展示室として無料公開(予約制)されているほか、階段教室や漆喰塗りの天井飾りが素晴らしい会議室などでコンサートも開かれているそうです。

   棟飾りなど雨漏りによる傷みの補修、石塀の改修が行われていますが、建物にとって雨はけっこう大敵です。(2019.03.15

 

  

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アングル166

旧市原重治郎邸の蔵
旧市原重治郎邸の蔵

~白楽の旧市原重治郎邸~

 

 神奈川区白楽、東横線白楽駅近くに立派な佇まいの邸宅があります。横浜市の歴史を生かしたまちづくり認定歴史的建造物に認定された旧市原重治郎邸です。主屋は洋館付きの木造平屋建てで1925年(大正14年)に、土蔵は木造2階建てで1932年(昭和7年)に建てられました。石塀に囲まれ、きれいに積まれた擁壁の上から土蔵の2階部分が見え、賑やかな駅前商店街に貫録の姿でまちの歴史を語っています。

 横浜市では、横浜らしい個性と魅力あふれる都市景観をつくり出している歴史的建造物の保全・活用を進めるため、1988年(昭和63年)に「歴史を生かしたまちづくり要綱」施行しました。歴史的建造物には「登録」と「認定」がありますが、旧市原邸は景観上重要な価値があること、所有者との協議で「保全活用計画」を定め認定歴史的建造物となりました。建物の外観保全など改変には届け出が必要ですが改修等には助成が受けられます。

 横須賀では昭和初期建築の茅葺民家「万代会館」の保存活用が進められています。耐震工事が終了するまでには2~3年かかりそうですが横須賀の歴史と地域の個性を語る建物として再開が期待されます。(2019.03.01

 

 

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アングル165

工事が中断している旧鎌倉図書館
工事が中断している旧鎌倉図書館

~旧鎌倉図書館~

 

  鎌倉市役所に隣接した御成町に解体工事が中断され、骨組みがあらわになっている「旧鎌倉図書館」が建っています。鎌倉の図書館は1911年(明治44年)に創設されましたが関東大震災で倒壊。その後、市内在住の実業家間島弟彦の遺言をついだ愛子夫人の多額の寄付により1936年(昭和11年)10月、木造2階建て一部3階建て桟瓦葺切妻、洋小屋組みの鎌倉町立図書館が再建されました。1階の児童閲覧室、2階の婦人閲覧室は室内の明るさや設えの意匠など隅々まで心のこもった建築だったそうです。現在の中央図書館建設後は市内中心部の歴史的建物として2015年(平成27年)に保存が決定され、学童保育施設として活用されることになっていました。2018年(平成30年)4月から解体工事が始まりましたが予想以上に腐朽があることがわかり作業が中断されています。

   アングル163の間島記念館も弟彦氏の遺志を継いで建築された図書館でした。横須賀市津久井の万代会館は将来ある若者たちに、また戦後の起業家たちに物心両面で応援した万代順四郎氏から市へ遺贈された建物です。現在閉鎖中ですが、耐震診断・設計・工事が順調に進み、納得できる活用に結びつくことが願われます。(2019.02.15

 

 

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アングル164

レストランとしてよみがえった古我邸
レストランとしてよみがえった古我邸

~鎌倉の古我邸~

 

 JR鎌倉駅から5分ほどの扇ヶ谷。門柱から緩やかなカーブを上がった先に堂々とした洋館が見えます。2015年(平成27年)にフレンチレストランとしてオープンした古我邸です。鎌倉文学館、旧華頂宮邸と並ぶ鎌倉3大洋館の邸宅で、1916年(大正5年)に建築された鎌倉の別荘文化を象徴する洋館です。三菱財閥の重役荘清次郎の別荘といて建てられましたが、濱口雄幸や近衛文麿などにも使われました。1937年(昭和12年)古我貞周が取得して以来「古我邸」として知られてきました。設計者は桜井小太郎で旧丸ビルや旧三菱銀行の設計者ですが、横須賀市内では旧横須賀鎮守府司令長官官舎(現海上自衛隊田戸台分庁舎)の設計者として親しまれています。ロンドン大学を卒業し、日本人初の英国公認建築士として帰国、海軍に入り横須賀鎮守府施設部長兼技師長であった桜井が1912年(明治45年)に設計、1913年(大正2年)に完成した和洋接合住宅です。海軍をやめた後、三菱地所の技師長となりました。

   古我邸は邸宅レストランとしてちょっとおしゃれにランチやディナー、結婚式にも利用され、予約のとりにくい人気レストランです。(2019.02.01

 

 

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アングル163

青山学院のシンボルでもある間島記念館
青山学院のシンボルでもある間島記念館

~青山学院間島記念館~

 

 『箱根駅伝準優勝』の幟が掲げられた青山学院キャンパス。選手の力走とつなぐタスキがハラハラの箱根駅伝は新年の風物詩でもあります。5連覇を逃した青山学院は青山通りに面し、向かい側には国連大学、正門を入るとイチョウ並木が学苑の落ち着いて静かな雰囲気を整えています。正面ロータリーの先に国登録文化財間島記念館があります。関東大震災で被害を受けた図書館の復興として1929年(昭和4年)に建てられた鉄筋コンクリート造3階地下1階、ギリシャ風コリント様式で2階にはコリント式円柱、ペディメントを掲げた神殿風の堂々とした建物です。昭和50年ごろまでは図書館、現在は学院の資料館となっています。設計は八木憲一を主任とした清水組、施工も同所で、建設資金は校友会会長・理事であった間島弟彦氏の寄付に寄りました。入り口を入ると正面に万代順四郎氏が寄贈した彫刻『愛の像』(横江嘉純作)が迎えてくれます。

  昨秋、学院を支えた4人という資料展があり、順四郎氏の肉声テープが聴けました。本多庸一、間島弟彦、米山梅吉、万代順四郎の4人で、学院の支援のみならず広く社会貢献に尽力した方々です。順四郎の万代会館の持つ重みを感じました。(2018.01.15

 

 

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アングル162

レンガ倉庫を生かした『炉ばた煉瓦』
レンガ倉庫を生かした『炉ばた煉瓦』

~釧路の炭火焼レストラン『炉ばた煉瓦』~

  

 北海道の特徴的建物の一つにレンガ倉庫があります。釧路港近くの『炉ばた煉瓦』も明治末建築の倉庫を炭火焼きレストランとして営業している人気店で、浪花町16番倉庫と共に釧路市都市景観賞奨励賞を受賞しています。元は、ヤマイチ商店の倉庫として建てられ、雑穀や塩の貯蔵に使っていたそうです。現在は阿部商店が屋根と避雷針取り付けなど一部を改造、増築し1999年(平成11年)に炉端焼き店として開店しました。今年9月6日の胆振地方地震の際は1メートルほど津波が寄せそのあとが外壁に残っていました。お店は2日間の停電後再開。

 釧路のレンガ倉庫群は1899年(明治32年)釧路港が開港、1901年(同34年)に釧路から白糠間に鉄道が開業し釧路川周辺にはレンガ倉庫群が建てられ、雑穀・肥料・食糧・塩などを選別後、船で本州などへ積み出していたそうです。それらの中で現在も利用されている1906年(明治39年)に建てられた釧路倉庫(株)(旧中川倉庫)が釧路で最も古い営業倉庫ではと言われています。

 釧路港へ引き込み線があった時代もあり、旧日本銀行釧路支店や新築復元した港文館(旧釧路新聞社)など歴史を語る建物やおいしいものが多くあります。(2019.01.01

 

 

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アングル161

地域の象徴旧庁舎
地域の象徴旧庁舎

~旧北海道農事試験場根室支場庁舎~

  

 中標津町桜が丘115に建つ旧庁舎は、1927年(昭和2年)に建てられた鉄筋コンクリート2階建て、中央に塔屋を上げ、張り出した玄関、左右対称の外観と縦長の上げ下げ窓が特徴の建物で試験場本場は札幌です。開拓農家の点在するこの地に出現した、当時は珍しかった鉄筋コンクリ―トの建物は、丘の洋館と呼ばれ親しまれたそうです。北海道第二期拓殖計画の一環で行われた根釧原野の開拓事業の象徴とされてきた根室支場ですが、2003年(平成15年)に新庁舎へ移転、一端は取り壊しが決定しましたが、町民有志の存続運動が実り、翌年に道から中標津町へ無償譲渡され、「NPO法人伝成館まちづくり協議会」が発足し保存・管理にあたっています。2009年(平成21年)8月7日国登録文化財に登録されました。当初の建物は中央部分、左右は増築部分です。現在は場長室や当時の教科書などの展示室のほか、貸し事務所、時間貸しの部屋のほか音楽スタジオにも活用して運営資金に充てています。増築部分にはカフエ「なみきみち」が営業中。協議会では地域の記憶を後世に伝え残すために「語り部談義」も開催しているそうです。横須賀の万代会館保存・活用に参考となることもあるようです。(2018.12.15