建築探偵のアングル(バックナンバー 21~30)

その30

樋掃除をする参加者
樋掃除をする参加者

~茅葺民家「万代会館」を応援~

 

   津久井の市立万代会館は、市内唯一の茅葺民家で、地域の文化と歴史を語る建物として、また、文化活動の拠点として親しまれています。昭和初期までには建てられたと思われる建物は、茅屋根の傷みや雨漏りなど、年相応の佇まいとなっています。けれども、人間と同じように少し手をかければ、まだまだ景観を保つことができます。それでは私たちの出来る範囲で維持保全に協力しようとボランティア組織「万代会館応援団」を立ち上げました。初めての活動として、軒樋の掃除を中心に雨水排水口に堆積した泥や木の葉などを取り除きました。樋のつまりを取り除くと、雨水の流れがよくなり、雨漏りの予防にもなります。この作業は簡単そうですがいざやってみると、樋に詰まった泥のかき出し、洗浄など脚立の上での作業で、体のバランスをとることが一番必要でした。排水枡に張った木の根を抜いて水が流れたときには、胸がすっとしました。

 次回は6月6日(木)午前9時から11時半まで(雨天中止)。建物を応援して下さる方のご参加をお待ちしています。直接万代会館へおいで下さい。 (2013.05.30)

 

 

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その29

反射炉の模型がある稲葉屋
反射炉の模型がある稲葉屋

~那珂湊の「まちかど博物館」~

 

 茨城県ひたちなか市の那珂湊は歴史の古い街で、奈良時代には平城京へワカメが献納され、江戸時代には東北地方の米や物資を江戸へ運ぶ商港として「西の大阪、東の那珂湊」と言われ栄えたということです。

  1947年(昭和22年)に大火に見舞われましたが、今でも明治に建てられた商家などが残っており、「まちかど博物館」となっているところもあります。まちかど博物館は建物全体が「展示室」、お店の人が「学芸員」、お店が「ミュージアムショップ」ということで、お店の人が建物の造りや店の歴史を話してくれたり昔の道具などが展示してあります。

 江戸時代は醤油屋で今は和菓子の「あさ川」、元は刻み煙草のパッケージ用銅版画を彫っていたうちわの「明石屋」、黒砂糖の手作り黒飴の「稲葉屋」の3軒です。稲葉屋の黒飴は(反射炉の鉄砲玉)という名で、近くに徳川斉昭が大砲鋳造のため1854年(安政元年)~57年に建造した反射炉があったことで名付けられたそうです。稲葉屋の店先には反射炉の模型が建っています。まち歩きには歴史が感じられることと、おいしいものが欠かせません。古い歴史を大切に生かすこと、新しい街は良い歴史をつくりながら伝えることが大切だと感じました。 (2013.05.15)

 

 

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その28

左奥が母屋、右手前は長屋門
左奥が母屋、右手前は長屋門

 

~文化財を支える地元主婦たち・洞口家住宅~(その2)

 

 名取市大曲の洞口家住宅の建立時期は、祈祷札、構造手法、資料などから宝暦年間(1751年~1763年)とされます。宅地面積1,500坪、周囲は約3mの堀と「いぐね」と呼ばれる防風林に囲まれており、近世農村社会の環濠集落の姿を残しています。母屋は寄棟造り茅葺、田の字型四間取りの名取型で、旧仙台領内の大型農家の特色を現しています。また、1987年(明治21年)建築の表門、馬屋、米蔵、味噌蔵、座敷蔵は、屋敷全体の景観を保持するために附(つけたり)指定となっています。

 現洞口家当主夫人を中心に、ここを会場に地域の夫人たちがそれぞれの畑で採れた農産物や自家製味噌を販売したり、四季に応じて昔から伝わる農村行事などを行い、地域の文化を伝えています。

 茅葺を保持するため囲炉裏でヨモギ、スギの葉を燃やし、虫除けやにおい消しにしたそうで、軒下にヨモギを下げて乾燥させ、一年中使っているとのこと。震災復興工事終了のお披露目式には、地元主婦たちによる「きやり唄」「大黒舞」が披露されました。子どもたちに復興と、地域文化を伝える使命があるとの心意気が伝わり、建物の果たす役割の大切さを感じました。(2013.05.02)

 

 

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その27

再建された日和山の湊神社
再建された日和山の湊神社

~名取市周辺と洞口家住宅 ~(その1)

 

 名取平野の水田地帯に広がる宮城県名取市は、東日本大震災の津波によって大きな被害を受けました。名取市は仙台に近いということもあり、住宅地としても発展してきた地域ですが、特に名取市閖上地区は、津波によって住宅、商店街はあとかたもなく波に持ち去られ、水田は塩水に漬かりました。1920年(大正9年)、船の出入りや気象観測のため在郷軍人分会の発起で築かれた「日和山」という小さな丘の上に、地域の宮大工さんたちが心をこめて再建した湊神社が祀られていました。人影のない閖上小・中学校、老人ホームなどいくらかのビルがぽつんと建っているほかは、敷地の区画を示す境界石が整然と並んでいて、人々の営みがあったことを伝えるのみでした。津波をよけたのは高架の高速道路でしたが、高架下のガードから奥へは真っ黒な波が船や人を押し流してきたということです。

 名取市大曲には国指定重要文化財の洞口家住宅があります。高速道路によって辛くも門前で水が止まったため、水害を受けず、地震による倒壊も免れましたが、壁の崩落や亀裂などダメージを受けました。保存工事が行われ、2012年(平成24年)10月27日には工事竣工のおひろめが行われています。 (2013.04.15)

 

 

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その26

重機の後ろに防空壕が現れた。左は浦賀みち
重機の後ろに防空壕が現れた。左は浦賀みち

~防空壕現れる~

  

 上町1丁目、浦賀みちに面したブラフ積みの石垣が削られて、駐車場にするための工事が進んでいます。削った石垣の奥に防空壕が現れました。入り口は20mほど先にありましたが、とうに塞がれています。工事中に現れた部分はこの防空壕の突き当たりのようでした。浦賀みち沿いには防空壕がいくつもつくられています。一般的に防空壕は家の裏山や庭からも入れるようになっていたり、入り口が複数付いていて中が迷路のように分かれていたりする場合もあり、空襲に備え、横須賀では1943年(昭和18年)ごろから盛んに掘られました。作業は終戦の日の午前中まで行われたところもあるようです。個人宅でつくる場合もありますが、町内会や隣組などが協力して掘りました。作業員を頼んだところもあるとのことです。今でも跡地を倉庫や駐車場にしているところがあります。戦後、壕の中で遊んだという思い出を持つ人もいます。

 三浦半島全体には、1999年(明治32年)に制定された要塞地帯法が適用され、ここに住む人は家屋の新築、増改築、漁業活動、耕作地の新設、変更には要塞司令官の許可が必要でした。因みに東京湾要塞司令部は現在の市立うわまち病院の場所にありました。(2013.04.03)

 

 

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その25

相模川の「上郷水管橋」
相模川の「上郷水管橋」

~市民協働補助金を申し込む~

 

   横須賀市では個性豊かな地域社会を実現するため、市民公益活動の経費の一部を補助する制度があります。探偵団では「横須賀水道半原系統水道みち(旧軍港水道)踏査・活用プロジェクト」の事業案で応募しました。事業概要は「歴史資産である1918年(大正7年)に通水した旧軍港水道半原系統の現状を記録するための総合基礎踏査を関係当局と協働して行う」というものです。今回は18団体の応募があり、3月18日に市役所でプレゼンテーションが行われました。探偵団からは3人が参加し、2007年(平成19年)から休止状態となっている横須賀水道半原系統は、かつての軍港水道として多くの近代化遺構の宝庫なので、実態を調査し、正しい価値認識を持って市民の財産として活用していきたいと述べました。また、水源地である愛川町や、53キロの水道みち沿線の各地域とも水道みちを通して交流をはかることも活用の一つと考えています。結果は2週間ほどで知らされますが、いずれにしても調査に基づいた近代化遺産が有効に活用されることが、これからの横須賀に必要なことと思われます。 (2013.03.21)

 

 

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その24

旧川合玉堂邸
旧川合玉堂邸

~萱葺屋根の旧川合玉堂別邸~

 

 京急富岡駅近くに、日本画家で文化勲章受章者の旧川合玉堂別邸があります。山腹を切り開いた約2000坪の敷地に、萱葺の主要部と瓦葺の下屋部がある数寄屋造りで、採光が考えられた10畳の画室、客用控室、茶室、寝室、書生部屋などで構成されています。1917年(大正6年)頃に建築された玉堂邸は、製作場でもありますが、大正中期から昭和初期の富岡の別荘建築を伝える建物として1995年(平成7年)11月横浜市指定有形文化財に指定されました。市民団体の『旧川合玉堂別邸及び園庭緑地運営委員会』(会員約70名)が毎月第一土曜日の一般公開、毎週木曜日にはグループごとのローテーションで建物の風入れや庭掃除、また毎月一度は代表者会議を行い、保存活用を図っているそうです。公開日にはボランティアガイドによる建物と自然を感じさせる回遊式庭園の説明があります。萱葺については葺き替えた時期ははっきりしないが挿し萱は10年ごとぐらいに行っていたそうです。来年度から耐震工事、萱修理など順次修復されるとのことです。

横須賀市の万代会館の萱葺屋根の傷みも目立っています。保存活用をコミュニケーションづくりやまちづくりにつなげることが出来るのではと思いました。(2013.02.18

 

 

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その23

紅の蔵
紅の蔵

~紅花商人の蔵屋敷・紅の蔵~

 

 山形市は山形城跡・霞城公園を中心に、区画された道路が東西南北に延びるすっきりした街です。江戸時代には商業都市として栄えました。代表格が全国一の生産量を誇る≪紅花≫で、今も≪市の花≫として親しまれています。(文翔館では見学記念に紅花をいただけます)。駅からの循環バスも通る十日町商店街に、2年ほど前にオープンしたのが「先人が残した歴史や文化を活かし、新たな魅力を創造する」をテーマとした≪山形まるごと館 紅の蔵≫です。紅花商人だった長谷川家所有の母屋と5棟の蔵をそっくり活用して、情報サービス、そばや郷土料理、欧風料理のレストラン、特産品おみやげ、農産物直売、イベント開催などを行い、街なか観光の拠点と同時に、地域の方々の集う場所ともなっています。1902年( 明治35年)に建てられた蔵座敷はイベントがなければ見学可能で、屋敷内はそれぞれの蔵をのぞきながら自由に楽しめます。山形は歴史を語る建物も多く、見どころ満載の街です。

 地域資源の再認識と新たな活用はあちこちで試みられています。私たちの街、横須賀でも磨けば光る宝を見つけてみませんか。 (2013.02.03)

 

 

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その22

堂々とした文翔館
堂々とした文翔館

~山形のシンボル「文翔館」~

 

   山形駅から循環バスで数分のところに、山形県郷土館「文翔館」があります。建物の大きさは、横62.721メートル、時計塔までの高さ25.149メートルの圧倒される洋館です。1916年(大正5年)に山形県庁舎として建てられ、1975年(昭和50年)まで使われました。設計は中條精一郎を顧問に、ジョサイア・コンドルの内弟子だった田原新之助が担当しました。1913年(大正2年)に着工し、1916年(大正5年)に完成、半地下式レンガ造3階建てで、外壁は花崗岩の石張りです。中庭はレンガがそのままで、ヨーロッパのような雰囲気です。1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定されたのを機に、1986年(昭和61年)から修復工事を始め、1995年(平成7年)に完成しました。修復過程の展示やボランティアによる説明で大正時代の職人技を見ることが出来るほか、コンサートや展示など文化活動の場にもなっています。見学した日、旧議事堂で結婚式が行われていました。時計塔の時計は、26.5キロの分銅を7メートル巻き上げ、下がる力で振り子が動く仕掛け、5日に一度市内の時計職人が手動で巻き上げに来ているそうです。因みに時計針は、ガラス面の外にあるそうです。 (2013.01.15)  

 

 

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その21

雪の上杉記念館・伯爵邸
雪の上杉記念館・伯爵邸

~上杉の地を訪ねる~

 

   山形県米沢市の上杉家ゆかりの地を訪ねました。上杉景勝が関ヶ原で西軍に味方したため米沢に移され、120万石から最終的には15万石まで減封されました。財政再建に尽力した上杉家10代治憲(鷹山)の「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人の なさぬなりけり」は有名な言葉です。

 上杉城史苑には初代謙信を祀る上杉神社、2代景勝と10代鷹山、直江兼続を祀る松岬神社、上杉記念館、国宝上杉本洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)が収められている博物館があります。

   上杉記念館は、最後の殿様と言われる14代茂憲の屋敷跡で、現在は郷土料理の店「上杉伯爵邸」として利用されています。維新後、伯爵となった茂憲が1896年(明治29年)にこの地に邸宅を建てましたが、1919年(大正8年の米沢大火で焼失、その後、1925年(大正14年)に後継ぎの憲章伯爵によって再建された2階建て純和風の建物です。設計は米沢出身の中條精一郎、施工は江部栄蔵。格式の高さの中に武家としての剛健さの感じられる素敵な建物です。中條は曽禰達蔵と組んで曽禰中條建築事務所を主宰、日本郵船ビル、東京海上ビルなどを設計しました。(2012.12.28)