建築探偵のアングル(バックナンバー41~50)

その50

ピーナツの乗ったボラード
ピーナツの乗ったボラード

~ ピーナツのボラード~

 

   ボラードとは歩道上に立てられた車止めの杭のことです。京成電鉄千葉駅前には金色のピーナツ飾りが乗ったボラ―ドが設置されています。千葉県はピーナツの産地として知られていますが、ボラード上のピーナツは千葉の名産をPRする役目も担っています。千葉県で落花生が栽培されるようになったのは、1876年(明治9年)に南郷村(現山武市)の牧野萬右衛門が横浜で栽培技術を知り、神奈川県の三浦郡中里村(現横須賀市上町か)の農家から落花生の種を買い、自分の畑で栽培したのが始まりと伝えられています。

   横須賀市内には海に関係したデザインのボラードがあります。横須賀中央駅から米が浜通りへ向かう商店街には、灯台をイメージしたボラードが設置され、所々に舵が配されており、ブルーと白の波型石畳とマッチして、湊の街の雰囲気を伝えています。灯台型は中央図書館への坂道、灯台型にフック付きが市民活動サポートセンター周辺にもあります。ドブ板通り辺りは星条旗をモチーフにした星型が付けられ、色は黒と白、日米親善の街を演出しています。ボラードウオッチングも街歩きのお勧めです。(2014.05.01)

 

 

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その49

水道路の古桜
水道路の古桜

~ 水道路の古桜~

 

  JR横須賀線東逗子駅から逗子駅に向かう蓮沼橋の近くに、ソメイヨシノの古木が1本立っています。根元のあたりに、「景観賞 水道路の古桜 逗子のまちなみにすてきな点景を添え、まちの景観を豊かにしています。その努力に感謝し、この景観賞をもって称えます。1999年度逗子まちづくり研究会」と記された小さなプレートが立てられています。この真っ直ぐな道は愛川町半原から横須賀市逸見へ中津川の水を送っていた横須賀水道みちです。かつては道沿いに沢山の桜が植えられていたということですが、今ではこの1本が往時の名残を留めているのみです。古桜には町内の方々が年に一度、根元を掘って肥料を
与えているとのことで、水道みちに花を添える桜は大切にされていました。

 ところで、他の桜は、逗子病院前からイト―ピア団地への坂道に植え替えられたそうです。「坂は新しいけど桜は昔の水道路の桜だよ」と、近くの方から聞きました。今も美しく咲く桜並木は、古桜の翌年に景観賞を受賞しています。因みに逗子駅近くには「水道みち」という店名の理容店があります。「横須賀水道みち」は生活道路としても各地で親しまれていました。 (2014.04.15)

 

 

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その48

旧機械工場で今は尚古集成館本館
旧機械工場で今は尚古集成館本館

~ 旧集成館機械工場~

 

  鹿児島市吉野町、島津光久の別邸「仙巌園」に隣接して「尚古集成館」があります。幕末、島津斉彬は産業育成・富国強兵などの目的で集成館を建設しましたが、薩英戦争で焼失。その後、久光・忠義父子が1865年(慶応元年)に事業再開のため建てたのが集成館機械工場です。日本人によって建てられたと思われる石造洋風建築で、日本初のアーチを採用、レンガの代わりに溶結凝灰岩が使われているのが特徴です。1871年(明治4年)官有となり、1923年(大正12年)博物館に改修、1962年(昭和37年)に国重要文化財に指定されています。  2013年(平成25年)、「明治日本の産業革命遺産九州・山口と関連地域」が世界遺産に推薦されることが決定しました。集成館はじめリストの中には1905年(明治38年)竣工の長崎造船所第三船渠があります。

   世界遺産とは無関係ですが、横須賀には1871年(明治4年)に横須賀製鉄所(現米海軍基地)の1号ドック、1874年(明治7年)に3号(現2号)、1884年(明治17年)には2号(現3号)ドックが建設され、すべて現役であることからも、改めて近代産業に貢献した横須賀の価値を考えさせられます。 (2014.04.01)

 

 

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その47

懐かしい雰囲気の嘉例川駅
懐かしい雰囲気の嘉例川駅

~ 肥薩線の嘉例川(かれいがわ)駅~

 

   鹿児島市隼人町のJR肥薩線の嘉例川駅は、1903年(明治36年)1月15日に営業開始しています。当時は鹿児島本線でしたが1927年(昭和2年)から肥薩線となりました。宿場町の建物のような駅舎入り口を入ると、背中合わせに腰掛ける木製ベンチ。緑の小山と木造駅舎は旅人にも懐かしさを感じさせてくれます。現在は上下線とも5時台から21時台まで各一時間に一本の運行です。駅舎は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との基準により2006年(平成18年)国登録有形文化財に登録され、2007年(平成19年)には経済産業省の近代産業遺産群にも選定されています。現在は無人駅で改札の左側待合室にはお雛様が飾られ、乗客よりずっと多い観光客のおもてなしのスペースとなっていました。

 21のトンネルがあり、半径300メートルのループ線スイッチバックがあるという険しい山中に路線が敷かれたのは、艦砲射撃を受けないためとの理由があったそうです。因みにJR最南端の駅、指宿枕崎線の西大山駅はプラットホーム上屋のみで駅舎はありません。その代わり開聞岳の堂々とした姿が一段と美しい背景となっています。(2014.03.15)

 

 

 

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その46

復元された三角兵舎
復元された三角兵舎

~知覧特別攻撃隊の三角兵舎~

 

   鹿児島県南九州市の知覧町には太平洋戦争末期に特攻基地があり、17歳から20歳後半の若者が沖縄周辺の米空母に体当たり攻撃のため飛び立ちました。樺太、朝鮮を含む日本全土から集められた1036人の陸軍特攻兵士のうち、知覧からは439人が出撃しています。特攻までの4、5日間を過ごしたのが三角兵舎と呼ばれる施設で、三角屋根の半地下式、内部は通路を挟んだ両側に布団が敷ける巾の板張りの床。最後の手紙を書いた場所でもあります。写真の三角兵舎は全国から集まった浄財により1982年(昭和57年)復元されたものです。三角兵舎は戦争の悲惨さと平和の大切さを訴えている建物と言えましょう。

 本土最南端の鹿児島県には、その他にもいくつかの特攻基地があり、慰霊碑や記念碑も建てられています。海軍の基地としての横須賀に関する資料などは鹿屋航空基地資料館に展示されています。海軍特攻機の人間爆弾「桜花」は横須賀海軍工廠で作られ、学徒動員の中学生のなかにも信管作製に携わった人もいました。1945年(昭和20年)3月21日の初めて出撃した日を慰霊の日として、慰霊碑のある鎌倉市建長寺塔頭正統院で慰霊祭が行われています。 (2014.03.01) 

 

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その45

昭和2年ごろ建築の山手234番館
昭和2年ごろ建築の山手234番館

~ 横浜山手の洋館~

 

  横浜市の山手地区は西洋館の建ち並ぶ美しい街として知られています。公開建物には、横浜市指定文化財の「横浜市イギリス館」、「山手111番館」、横浜市認定歴史的建造物である「山手234番館」、「エリスマン邸」、「ベーリック・ホール」、「ブラフ18番館」、重要文化財の「外交官の家」があり、文学館・記念館・公園を訪れる人も多く、横浜の観光地ともなっています。山手には学校も多く、教会や幼稚園、一般住宅や集合住宅も沢山ありますが、さまざまな目的の建物が、地区一帯の景観を構成して落ち着いた雰囲気を作り出しています。

   山手234番館で写真家の増田彰久さんの山手地区の洋館を紹介する写真展がありました。増田さんのあいさつ文の中に「山手は関東大震災で居留地の建物が焼失し、ほとんどが大正末から昭和初期に建てられ、日本人も多く住んでいたところが特徴」とありました。火災、震災、戦災、自然災害などでまち全体や地域が消滅し、新たなまちづくりがされたところは各地にあります。横須賀も震災後に街並みが整備され、看板建築など商店建築に特徴のある建物が造られています。(2014.02.15)

 

 

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その44

大磯駅前の旧山下家住宅
大磯駅前の旧山下家住宅

 

~大磯町の歴史的建造物~

 

 東海道線大磯駅前左手、少し高台になっているところに白い西洋館が見えます。大磯町の所有ですが、現在は「迎賓館」というフランス料理のレストランとして活用されています。元は貿易商木下建平氏の別荘として、1912年(大正元年)に建築されました。切妻造りスレート葺、木造3階地下1階、延べ床面積287平方メートル、国内最古と言われるツーバイフォー工法で建てられています。左右の屋根のドーマウインドが外観の特徴で、別荘地として知られる大磯でも数少ない洋風別荘建築とのことです。2012年(平成24年)2月に国登録有形文化財として登録、同じく9月13日、大磯町の景観重要建造物にも指定されました。

 重要景観建造物の指定は都市計画課の担当で、景観条例に基づいた手順で行われ、町民との連携としては「景観応援団」、「まちづくりアドヴァイザー」、「まちづくり審議会」という専門家と一般公募市民も含めた組織と行政とが、特色あるまちの景観に寄与している建物を選んでいるとのことです。登録も指定も現在はこの1棟です。横須賀市も景観条例に景観重要建造物指定があります。特色あるまちづくりに生かしてほしいものです。(2014.02.01)

 

 

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その43

木の手触りが優しい台所
木の手触りが優しい台所

洋館付き住宅のリフォーム~

 

 昭和初期に建てられたと思われる、洋館付き住宅のリフォームを見学させていただきました。葉山の海に近い住宅街の、路地の奥に建つ建物で、現状はコロニアルタイル葺きのイギリス下見板張りです。広い庭にかぎ型の建物が建ち、廊下で各部屋に通じています。茶の間に続く一段下がった造りのフローリングスペースを、ひと部屋のダイニングキッチンにするのが主なリフォームの内容でした。クラシックな建物の雰囲気を壊さず、使い勝手を良くというコンセプトで、障子を素通しや型ガラスをはめ込んだガラス戸にしたり、照明器具やスイッチにも気を配って仕上げられていました。

 今回の工事でキッチンとなった部分はお隣と近いため、前面に擦りガラスを用い、採光と目隠しとしました。キッチンは職人さんの手作りで、スギ材を使った作り付け。引き出しや戸棚など、昔の家にあったなという懐かしさと温かさが感じられます。しかしながら食洗機がはめ込まれるなど、今の生活にマッチした内容です。引き出し取っ手のデザインにもこだわった、住み手と職人さんの合作と言えるリフォームとなっていました。(2014.01.15)

 

 

 

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その42

浦賀みち沿いのレンガの擁壁
浦賀みち沿いのレンガの擁壁

~ レンガの擁壁~

 

   汐入駅近くの汐入郵便局と立川紙店の間を入り、石段を少し上る細い道は、浦賀へ続く「浦賀みち」の一部で、中央地域文化振興懇話会が建てた標柱に「江戸から金沢、田浦、逸見、汐入、深田、大津を経て浦賀へ至る昔の要路でした」と記されています。この辺りは急傾斜地で、関東大震災では崖崩れもありました。現在、山側の擁壁にレンガが使われているところがあります。震災のとき壊れたレンガの建物や塀などを再利用したもので、ブロック状に切り離されたレンガ塊を、石積みの代わりに積んであります。よく見ると、元の建造物のレンガは長手と小口を一段ごとに積むイギリス積みという方法で建てられていたことが分かります。主に軍関係の施設だったと思われ、不入斗などにも見られるほか、震災後の住宅の束石や、土台に埋め込んで地盤改良にも使われたようでした。昭和初期の建物を建て替える時などに気をつけて見ると発見できるかもしれません。

   浦賀みちの崖下は旧道で、湊町公園には「大震災遭難者供養塔」が建てられています。因みに16号は新新道、ガストの裏が新道です。(2014.01.04)
 

 

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その41

改造中の明治屋ビル
改造中の明治屋ビル

 京橋の明治屋ビル~

 

  東京都中央区、地下鉄東京メトロ銀座線の京橋駅は明治屋ビルの地下にあります。地下鉄駅を連結した民間建物では、現存最古のビルです。明治屋ビルは1933年(昭和8年)、曾根・中條建築事務所の設計で、地上8階地下2階の鉄筋コンクリート造のオフィス兼店舗ビルとして建てられました。この建物は中央区指定有形文化財に指定されていますが、中央区には区民文化財登録制度があり、2013年(平成25年)4月1日現在90件が登録されています。内容は記念物や古文書などさまざまで、その中から特に重要なもの、4件が指定文化財になっています。建造物では明治屋ビル、そのほかは古文書、歴史資料、考古資料が指定されており、幅広い分野が文化財として大切にされています。

 現在、京橋2丁目西地区再開発事業が進行中で、明治屋ビルはまさに中心的位置に建っています。歴史的建造物と言うことで、当初は外壁保存も考えられたとのことですが、最終的には耐震性を高めてそのまま残すことになったようです。建物と基礎の間にゴムを挟む免震化を実施する改修が行われ、2年後には新旧のデザインが調和した歴史を伝える街並みが誕生することになります。(2013.12.18)

 

 

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