建築探偵のアングル(バックナンバー81~90)

アングル90

おはらい町の看板建築「ゑびや」
おはらい町の看板建築「ゑびや」

~伊勢おはらい町の看板建築~

 

 伊勢内宮の門前町として知られるおはらい町通り。通りの中ほどには1993年(平成5年)に開業した≪世古≫と呼ばれる路地を巡るように作られたおかげ横丁があります。昔から変わらない町並みと感じられますが、これらの建物はほとんど1970年代後半から徐々に建てられたそうです。観光客が落ち込んだ1970年代、内宮門前町再開発委員会を商店主らが結成、景観維持を目的としたまちづくりを民間主導で始めました。建物を妻入り木造建築に統一し、伝統的町並みの再生で商店街を再生、その活動が1989年(平成元年)に伊勢まちなみ保全条例制定の後押しとなり、電線地中化、石畳の整備が行われ、2009年(平成21年)の伊勢市景観計画へと引き継がれて街づくりは今も続いています。

  食事処「ゑびや」はおはらい町通りで1軒の看板建築のお店です。江戸時代は旅館やうどん屋。隣の車屋を買い取り、当時珍しかった洋食≪エビ屋≫を開業、その後地元の名物を提供する食事処になったそうです。創業は1922年(大正元年)ですが、この店舗の建築年はわからないとのこと。コンクリートが落ちたためにとりあえず軒回りにカバーを取り付けたましたが、そのカバーを外して元の装飾を再生する計画が7月に始まるそうです。(2016.01.01)

 

 

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アングル89

銀杏並木の向こうに見える聖徳記念絵画館
銀杏並木の向こうに見える聖徳記念絵画館

~聖徳記念絵画館~

 

 明治神宮外苑の銀杏並木の先に建つ重要文化財≪聖徳記念絵画館≫には明治天皇のご降誕から大葬までの御事績を描いた壁画80枚が展示されています。絵画館は1926年(大正15年)竣工で鉄筋コンクリート2階建、外壁と階段は万成(まんなり)産花崗岩表装、内部中央の壁や床は主に国産天然大理石と一部タイルが使われています。間口112メートル、奥行き34メートル、高さ32メートルのドームを中心としたシンメトリーな建物です。設計は一般募集した156点の中から選ばれた小林正紹(まさつぐ)の原図をもとに、明治神宮造営局が修正し建築されました。

 絵画は当初5枚、事柄に合わせて増やされ、80枚になったのは1936年(昭和11年)だそうです。1852年(嘉永5年)のご誕生から1912年(大正元年)のご葬儀まで、近代国家を目指した明治時代の政治・文化・風俗の歴史を一流画家の作品で楽しめます。

 1871年(明治4年)、横須賀造船所を訪問し、向山行在所に2泊したのを始め、軍艦の進水式など10回近く行幸された明治天皇。横須賀線乗車など近代日本の先端に立ち会われた横須賀での様子を描いた一枚が無いのが残念でした。(2015.12.15)

 

 

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アングル88

木造5階建て繭倉庫
木造5階建て繭倉庫

~旧笠原工業常田館(ときだかん)製糸場~


 長野県上田市常田にある笠原工業常田館製糸場は、近代製糸工場の特徴を持った建物群がまとまって残っていることで国重要文化財に指定されています。信越線上田駅が開通したことで駅に近いこの地に1900年(明治33年)に≪常田館製糸場≫が創業し、引き込み線を使って横浜まで生糸を運んでいたそうです。会社は現在笠原工業(株)としてスチロール製品を製造しています。広い場内には木造の繭倉庫、選繭場、文庫蔵や鉄筋の建物としては県内初という1926年(大正15年)建築の5階建て繭倉庫など明治・大正期の建物が何棟もあり、見学もできます。現在では国内唯一とみられる1905年(明治38年)建築の木造土蔵造り瓦葺5階建ての繭倉庫は白壁漆喰の外観も美しく、内部も当時のままで広い空間に何層もの棚を繭の乾燥倉庫として使っていたことが想像されます。この日は繭玉から作ったステンドグラスが鉄筋繭倉庫で展示されていました。

 横須賀軍港水道の水源地、神奈川県愛川町半原も撚糸で栄えた町です。水車を動力としていたので、中津川からの取水には当初反対だった住民も海軍のためならと協力したそうです。いずれも生糸産業の足跡といえましょう。(2015.12.01



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アングル87

蔵造の商家が並ぶ柳町
蔵造の商家が並ぶ柳町

~長野県上田市の建築散歩~

 

 旧北国街道が時々かぎ型に曲がりながら中心街を東西に貫いている上田市。中でも昔ながらの街並みを留めているのが旅籠屋や商家が軒を連ね、柳の木が多かったことが地名の由来となった柳町で、上田駅から10分ほどのところ。200年以上続く商家もあり、蔵造りの二階建て漆喰が美しい通りです。2002年(平成14年)、柳町まちづくり協議会が結んだ≪柳町まちづくり景観協定≫が、上田市の美しい景観形成へ寄与していることを認められ、景観条例の規定による景観協定として認定されています。

駅からのメイン通りに蔵を活用した「池波正太郎真田太平記館」が2012年(平成24年)にオープンしました。池波は21歳(1944年)のとき横須賀海兵団に入隊、のち武山海兵団に移り敗戦まで軍隊生活を送りました。余談ですが日本民俗学の創始者柳田國男は1904年(明治37年)2月、日露戦争開戦のとき高等捕獲審検所の検査官として横須賀に通ったそうです。芥川龍之介も機関学校の英語教師として横須賀で過ごした時期もありました。来年のNHK大河ドラマ≪真田丸≫の舞台となる上田市、来年は観光客が増えることへの期待感が感じられました。(2015.11.15

 

 

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アングル86

古びても存在感のある奥の院
古びても存在感のある奥の院

~長野県須坂市の米子滝不動奥の院~


 須坂市内から車で米子大瀑布駐車場まで約40分、そこから山道を30分ほど歩くと日本の滝百選、不動滝と権現滝の二条の滝の総称、≪米子大瀑布≫が現れます。両滝の間に建立されているのが米子不動尊奥の院のお堂で、1810年(文化7年)に再建されたそうです。年月を経て、奉納された絵馬の願い事もすっかり消えていました。この辺りは四阿山の噴火でできたカルデラ地層で、お堂の川向かいに1743年(寛保3年)、硫黄などを採掘する米子鉱山が掘られました。戦前は軍用火薬となる硫黄の需要が高く、最盛期には1500人が生活し、学校や診療所もあったそうですが、1960年(昭和35年、)採掘が終わり1973年(昭和48年)に閉山となりました。石油から硫黄が取れるようになったこと、公害問題が持ち上がったことで、作業場は道具なども含めすべて覆土して地中に埋められたそうです。現場は現在、原っぱのようになっていて、緑化計画が進行中。二筋の滝を眺めるビューポイントとなっています。

今でも滝に打たれる修行者もいるそうで、古くから人々の営みを見てきたお堂の存在感の大きさが伝わってくる気がしました。(2015.11.01



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アングル85

琴平町公会堂
琴平町公会堂

~こんぴらさん参道の建築散歩~

 

「さぬきのこんぴらさん」として親しまれている香川県琴平町の金刀比羅宮は、海の神を祀る神社です。像の頭の形をした像頭山の中腹にあり、本宮までは785段の石段。「(786)ナヤム」から一段マイナスした数とのこと。戦禍を免れた参道町並みは、江戸時代に建てられたどっしりした風格の土産店、宿屋などが多く残っています。参道を少し左に入ると、16番札所松尾寺への案内板があり、そのそばに琴平町公会堂があります。1932年(昭和7年)建築の堂々とした日本建築で、内部は折り上げ格天井にシャンデリア。町の登録有形文化財です。500人収容できる大ホールは今も様々な催しに1時間1500円(冷暖房費込)で貸し出しています。公会堂から少し上がると1835年(天保6年)に建てられた日本最古の劇場、国重要文化財金丸座とも呼ばれる旧金比羅大芝居。無双窓に大屋根の白壁が美しい芝居小屋。500円で見学できます。

 金比羅さんの境内には「五人百姓」というべっ甲飴を売る屋台が5軒。社殿建設に尽力した5人の百姓に感謝して、境内で飴を売ることが許されているのだそうです。お灸から生まれた灸まん(饅頭)など土地の食べ物も楽しみです。(2015.10.16)



 

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アングル84

行灯が飾られたなまこ壁の家
行灯が飾られたなまこ壁の家

~愛媛県内子町の建築散歩~


 1982年(昭和57年)、四国で初めての伝建地区となった内子町八日市・護国地区は、なだらかな傾斜のある南北約600メートルの街並みです。江戸中期以降大火にみまわれず昔ながらの漆喰壁の家が約70パーセント現存しているというまさにタイムスリップしたような家々が軒を連ねています。ほとんどが2階建ての切妻造りで、軒線が通った町並みにうだつ、なまこ壁、むしご窓、懸魚など伝統的な特徴を持つ漆喰の建物が並びます。

 江戸時代にハゼノキを植え、木蝋を生産、大正末に石油などが普及するまで蝋燭生産が盛んで、財を成した商家が今でも立派な門構えでシンボルとなっています。町並みの終わりに観光用の手作り蝋燭を作っている家が1軒ありました。この日は中秋にあたり、投句箱に入れられた俳句が竹ひごで作った行灯に書かれ、軒先を飾っていました。鏝絵の展示、資料館、建物内部公開、山の幸販売、ソバ屋など古民家活用も町並みの雰囲気を壊さず受け継がれているようでした。愛媛県には小京都と呼ばれる大洲があり、数年前に安藤忠雄の作品「坂の上の雲ミュージアム」が開館しましたが展示内容が難しいそうです。(2015.10.02)



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アングル83

銅板葺きの店舗と台秤
銅板葺きの店舗と台秤

~台東区下谷・浅草の建築散歩~


 地下鉄稲荷町駅を出ると浅草通り。江戸時代は新寺町通りと呼ばれ、通りの両側を新寺町と俗称されていました。1653年(明暦3年)の明暦の大火災後、寺が多く集められ、新しく寺町になったということで≪新寺町≫に。現在も通り沿いに江戸時代から続く仏壇屋さんが約40軒あるそうです。江戸での寄席発祥の地として現在でも噺家がお参りする下谷神社は、1872年(明治5年)まで「下谷稲荷社」と呼ばれ、稲荷町という地名もそこに由来しました。

 関東大震災では一帯が焼失、1928年(昭和3年)の土地区画整理により街は再建されましたが、戦争被害をあまり受けなかったため、昭和初期に建てられた建物が数多く残っています。下谷神社の参道付近には3軒、5軒と繋がった銅板葺きの看板建築、インド風ドームやメダリオン、中国風や和風が混在したようなデザインも見られます。角地に外壁をすべて銅板で葺いた店舗がありました。2階建ての瓦葺き切妻屋根の出し桁造り。ご商売はと聞くと昔から非鉄金属を扱っているとのことで、店の前にはメモリと錘で測る年代物の台秤。「今も使ってますよ」。散歩の仕上げは国登録文化財1921年(大正10年)建築の神谷バーで電気ブランを。(2015.09.15)



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アングル82

宗吾旧宅
宗吾旧宅

~16代目が住む義民・宗吾の旧宅~


 佐倉藩の名主のひとりであった木内惣五郎は《義民》として知られています。惣五郎(宗吾)は今から約360年前、佐倉藩国家老の悪政と飢饉などのため困窮していた人々の窮状を訴えるため、4代将軍家綱公へ直訴、領民は苦しみから救われましたが自身ははりつけ、子どもたちは打ち首となりました。

 京成線の宗吾参道駅から印旛沼へ向かう約7キロが《義民ロード》として散策コースになっています。宗吾霊堂から2キロほどのところに宗吾旧宅があります。現在住まわれている16代目91歳の木内利左衛門(敏雄)さんに話を伺いました。引き戸を開けると天気が悪い日に作業したという土間、部屋は18、4、8、8、9、9(各畳)で天井があり、土間には年月を語る黒く太い梁が渡され、くさびでとめられています。東日本震災の時も揺れたけれど大丈夫だったそうです。元は茅葺屋根でしたが、茅場もなくなったので20年ぐらい前にトタンをかけたらそれ以降夏は暑いとのこと。囲炉裏も使わなくなり、建物が燻されないため、板戸や天井などが白くなってきたので、濡れ縁から光が入らないように簾戸が立っています。木立に囲まれた住居の周りは一面の水田でした。(2015.09.01)



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アングル81

米が浜通りの看板建築
米が浜通りの看板建築

~米が浜通りの建物散歩~

 

 若松町3丁目交差点角の《田中屋呉服店》から共済病院方向への若松通り商店街と米が浜通り商店街には、昭和初期に建てられた建物が点在しています。真新しい看板や外装で古さを感じさせない店舗や、昔からの構えをそのままに生かしている店舗などがあり、落ち着いた雰囲気のある街並みとなっています。

関東大震災でこの辺りを含む下町一帯は焼き尽くされました。震災後の復興計画で、深田観念寺と呼ばれた米が浜を中心に、両側に歩道のある幅員約15メートルの近代的道路が整備され、浦賀への幹線道路となりました。街路樹に柳が植えられたそうです。1924年(大正13年)には共済病院の前身、横須賀職工共済会病院が現在地に移転、中通り界隈には待合、料亭、芸妓屋が開業するなど賑わいが増す中、昭和初期には洋風デザインを取り入れた商店が多く建てられました。今でも銅板葺の看板建築、防火目的を兼ねた洗い出しの前面や小波鉄板を外壁や屋根に使うなどした建築当時の姿を見ることが出来ます。

最近、肉屋さんの店舗だったところが取り壊されました。震災後90年以上が過ぎ、戦前の建物も姿を消しつつあります。(2015.08.16)