建築探偵のアングル(バックナンバー91~100)

アングル100

海老名市温故館
海老名市温故館

 海老名市立郷土資料館温故館~

 

 相鉄線と小田急線が乗り入れる海老名駅近くに海老名のシンボル「七重の塔」のモニュメントがあります。741年(天平13年)相模の国分寺と国分尼寺が聖武天皇の詔によって海老名に建てられました。現在、跡地を国指定史跡として保護活用のため整備事業が進められています。国分寺の創建時の屋根瓦は横須賀市の秋谷にあった乗越瓦窯で焼かれたと考えられているそうです。

 国分寺跡の向かい側にあるのが郷土資料館温故館です。初代の海老名村役場が焼失した後、1918年(大正7年)に建築され、外観は洋風、小屋組みや軸組は和風という和洋折衷の建物です。郡役所様式と呼ばれ、明治から大正にかけてはやった建て方だそうです。木造2階建て桟瓦葺き、ドイツ下見張り、切妻造の玄関ポーチや飾り柱などのある直線的なすっきりした建物です。現在は国分寺跡から発掘された資料などを展示する資料館として使われています。

 海老名には横須賀水道みちが通過しています。厚木市から相模川を渡る上郷水管橋は、人は渡れないが景色がいい橋として海老名市観光ガイドブックの「相模川橋物語」に、建設中の新東名の橋など8つの橋の一つに紹介されています。(2016.06.01

 

 

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アングル99

東京銀行協会ビルの外壁保存
東京銀行協会ビルの外壁保存

 ~保存建造物のこれから~

  

 東京駅近く、丸の内のオフィス街の一角に建つ≪東京銀行協会ビル≫。ここには1916年(大正5年)に建てられた松井貫太郎設計の東京銀行集会所がありました。1993年(平成5年)地上20階地下4階の現ビルに建て替えられるにあたり、歴史と景観の面から建物保存方法が検討され、レンガ造2階建ての集会所外壁のうち、2面を新しい建物に張り付けた形で外壁保存がなされました。かさぶた建築などとも言われ、話題になりましたが、横浜などにも多く見受けられる方法です。丸の内は日本の経済の中心地でオフィスビルの需要から高層化が進んでいます。東京銀行協会ビルも今年中に解体され生まれ変わるそうです。その際は現在の外壁保存部分が引き継がれるかは未定で、オフィス街に歴史を伝えるインパクトの役割も終わろうとしています。

   歴史を伝える建造物の保存と活用は、時には現状と相反することもあります。まちも生き物。時代と環境、人の生き方と共に変化します。建物は話題性ではなく、長く感動を与えてくれる、人と共生できる存在であってほしいものです。丸の内に温泉が湧く時代。でも、将門の首塚は大切にされています。(2016.05.15

 

 

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アングル98

みどりやさんご主人の話を聞く
みどりやさんご主人の話を聞く

~上町商店街を歩く~

 

 関東学院大学の建築を専攻する学生の方々と上町商店街を歩きました。目的は「昭和初期の商店建築が多くみられる商店街を歩き、看板建築や出桁造りを観察する」ということでした。東中里町内会館から榎本写真館、聖徳寺坂上の出桁造りの八百幸本店を見学し、平坂途中の旧寺坂靴店までの往復です。

   1931年(昭和6年)建築の「みどり屋」さんへ寄り、ご主人から話を伺いました。「もとは名古屋の苗木商で、日露戦争が終わった頃、横須賀へ出てきました。今の若松町の東京ガスのところで商いを始めましたが思わしくなく、上町(当時は深田)へ移り、4軒の家を買って呉服・布団・綿・蚊帳などを商う店になりました。店舗建設中に関東大震災に遭い、直後にバラックで営業開始、その後現在の建物を建築しました。県道を広げるため、前面がずい分削られました。昔は綿がいっぱい積んでありましたが今はお祭り用品の専門店です。」学生の感想は「アーケードの上に銅板張りの看板建築が多くあることが分かった。もったいないのでまちづくりに活かせないか。八百幸本店の出桁造りが素晴らしかった。古いものを残す良さも大切と感じた」など。社会に出ての活躍を期待しています。(2016.05.01)

  

 

 

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アングル97

登録文化財の神戸駅建屋
登録文化財の神戸駅建屋

 ~わたらせ渓谷鐵道神戸(ごうど)駅~

  

 群馬県桐生市の相生駅から栃木県日光市の間藤駅を結ぶ44.1㎞に17の駅のある第三セクター「わたらせ渓谷鐵道」。近代化遺産、特に鉄道遺産の宝庫でもある群馬県の中でも歴史を受け継ぎ地域に応援されている観光列車として知られています。開業は1911年(明治44年)、足尾鉄道株式会社として銅山の運搬用に建設され、1918年(大正7年)、国が買い上げ鉄道院の足尾線となりましたが、1973年(昭和48年)足尾銅山が閉山されると輸送量が激減し、1985年(昭和55年)までに廃止されることとなりました。そのことを知った沿線住民から存続の活動が起こり、1989年(平成元年)にわたらせ渓谷鐵道に引き継がれました。単線で現在はほとんどが無人駅です。

   神戸駅は、すれ違いができる上り下りのホームがある駅でスレート葺き木造。ホーローの駅名板の≪戸≫の文字が書き換えられています。国鉄時代に神戸市と同じ漢字は使うことができず≪土≫と表記、渓谷鐵道になったときに≪戸≫に戻したそうです。神戸駅は駅舎、ホーム、危険品庫が国登録有形文化財ですが、その他の駅の駅舎やトンネル、橋梁など37件が登録文化財となっています。(2016.04.15

 

  

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アングル96

川崎宿を歩く
川崎宿を歩く

~東海道川崎宿~

  

 東海道川崎宿は、六郷の渡しの江戸口見附から八丁畷方面の京口見附までで、最盛期には72軒の旅籠があったそうです。徳川幕府が東海道を制定したのは1601年(慶長6年)、当時は品川宿の次は神奈川宿で、その間の距離が長く負担が大きかったため、伝馬継立の必要から1623年(元和9年)に川崎宿が置かれました。川崎宿成立から400年目の2023年を目標年とし、市民参加のワークショップなどを通してまとめられたのが、市民提案「東海道川崎宿2023いきいき作戦」。川崎宿の歴史や文化を活かしたまちづくりが市民と行政の協働で進められています。

 駐輪場予定地だった敷地に市民の声が反映され「かわさき宿交流館」が2013年(平成25年)10月に誕生し、近くにある浮世絵を展示する「砂子の里資料館」とともに観光拠点、地域活動と交流の場として活用されています。工場群は現在、夜景の美しさで観光に、工場跡地はマンションや商業施設として再開発され住民も増えています。歴史や文化を活かしたまちづくりを進めることは、遠回りのようでも住みよい街の形成への近道のような気がします。(2016.04.01

 

 

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アングル95

雨のJR衣笠駅
雨のJR衣笠駅

 ~JR衣笠駅~

  

 JR横須賀線が大船と横須賀間で開通したのは1889年(明治22年)6月1日でした。その後、武山・久里浜方面に海軍施設が拡充されるのに伴い、1944年(昭和19年)、横須賀・久里浜間が延長されました。そのとき誕生したのが衣笠駅です。終戦を挟み、1950年(昭和25年)に始まった朝鮮戦争の終わるころまでの衣笠駅は、軍や米軍の軍需目的のための貨物駅としての色合いが濃く、駅前ロータリーが広いのも軍需物資の運搬に必要で、JR久里浜駅前にも共通しています。

 駅ができる前のこのあたりは田んぼで、駅や軍用道路をつくるために埋め立てられました。戦後は闇市が立ち、平作川沿いにあった軍需部倉庫がマーケットになり、1950年~1951年(昭和256年)ごろからは商店が増え、やがて商店街が形成されました。

  駅舎は建設当時の姿をよく残しており、ローカルではありますが造りは頑丈にできている感じで、軍用目的だったことが偲ばれます。シンプルで合理的な、水平が印象的な外観です。最近の乗者数は9000人弱、乗り降りする人が少しずつ減っているようですが、平作方面の住宅街、駅周辺のマンションも増え、周辺商店街は賑わっています。(2016.03.15

  

 

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アングル94

日本間の落ち着きがほっとする室内
日本間の落ち着きがほっとする室内

 住宅をカフェに~

 

  追浜駅周辺は、最近大規模マンションが建ち住民も増えているようです。山だったところも開発され、思わぬ風景に出会うことがあります。浦郷の高台にある『カフェ月小屋』は尾根道の上にあるカフェで、民家を改装したお店です。およそ20年ほど前に建てられたそうで、柴垣に囲まれた純和風の佇まいです。お茶室を主体とした2階建て住宅ということで、京都から職人さんが来て造ったという京風数寄屋造り。三部屋続きの和室がカフェスペースで、障子の桟を生かした素通しの間仕切りが新鮮です。絞り丸太の床柱、三つの座敷の境にはモダンな彫りのある板欄間、ほのかな明かりを取り込む下地窓、廊下越しの庭には石灯籠。浴室をコーヒーの焙煎室に直した以外ほとんど元のままという店内で、ゆっくりコーヒーを味わえます。月の夜はなお素敵でしょう。

 昔の家を事務所や店舗にという試みが少しずつ増えているように感じます。路地の奥とか、階段を上がった山の上とか、店舗付き住宅の住宅部分もほとんどそのままの形で店舗にしたりとか・・。年月を重ねた建物は存在感が感じられ、ほっとした懐かしさと親しさが醸されているようです。(2016.03.01

 

 

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アングル93

3階建て出桁建築の酒店
3階建て出桁建築の酒店

 ~台東区入谷の出桁づくり~

  

 東京メトロ日比谷線入谷駅を降り、少し行くと大きなアーチが印象的な1916年(大正5年)開校の区立大正小学校があります。商店街は金美観通り。金美観という映画館があり、大正末から戦後にかけて映画ファンが多く訪れていたそうで、閉館になりましたがその名を商店街に残しています。

 商店街には下駄屋さんやお団子屋さんなど昔からのお店もあり、懐かしい雰囲気が感じられます。ひときわ目立つ酒屋さんがありました。3階建てのどっしりした出桁造りで、1929年(昭和4年)に建てられたそうです。瓦屋根、3階窓の手すり、一枚板の戸袋、1階の屋根には大きな木製の看板と、少しずつ手を入れているとのことですが昭和初期のこの辺りの風景を想像させる商家建築です。

 戦後70年を超して、戦前の建物も次第に建て替えられてきました。横須賀市内にも出桁造りの商家、看板建築や銅板葺きの店舗など、震災後に建てられた特徴的でまちの景観要素として大切な建物がたくさんあります。地形との関係、軍都として発展してきたまちづくりを、建物や尾根道などを通して読み取ることが出来ます。(2016.02.15

 

 

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アングル92

銘板は足元に。ヤクルト優勝を伝える時計塔
銘板は足元に。ヤクルト優勝を伝える時計塔

 ~大山みちの道標~

  

 東京都港区の青山通り、外苑前交差点近くに時計塔があります。時計塔は1982年(昭和57年)、南北青山2丁目町会の創立35周年記念に建てられた、街の記憶のシンボルであり、≪大山への道≫の道標でもあります。大山への道の銘板のほかに、≪人生が「旅」であるならば、都市の変遷も亦都市にとっての「旅」でもありましょう≫と、青山の往古を記した説明板が付けられています。

  それには、青山の地名は、1559年(天正19年)、青山藤右衛門忠成が徳川家康よりこの地域を拝領したことが地名の由来と伝えられており、昔、青山通りは大山街道と呼ばれる脇往還で、山裾に民家が点在し、人の往来も少ない街道だった。経済の発展に伴い、近代都市に変貌したまちの歴史を伝えるために時計塔を建てた、ということが刻まれています。それによるとこの辺りは標高37メートルで、都心では最も高く、昔は南に三浦半島、房総、西に富士、秩父連山や筑波も望まれた静かな街道だったそうです。今では世界に誇る街になりましたが、土地の歴史を後世に伝え、青山に住む人、訪れる人の幸せを願うと結ばれています。記憶を伝え、後世に誇れるまちづくりは今の私たちの役目です。(2016.02.01

  

 

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アングル91

古い柱と新しい梁がドッキング
古い柱と新しい梁がドッキング

~再生する建物~

  

 汐入駅から坂本に向かう道沿いには昭和初期の面影を残す建物が点在しています。1890年(明治23年)、現在の不入斗中学・坂本中学などの一帯に要塞砲兵第一連隊が設置され、終戦まで砲兵の教育・訓練が行われてきました。1930年(昭和5年)に湘南電鉄が開通、「横須賀軍港駅」現在の汐入駅が開業しました。出桁づくりの商店が軒を並べ、銅板張りや看板建築も建てられ大いににぎわいました。

  汐入駅近くの商店街に汐入町内会館があります。向かい側を少し入ったところにかつて「魚佐」という魚屋がありました。創業は1928年(昭和3年)、現在の建物は1955年(昭和30年)に建て直した檜造りの2階建てです。廃業して空き家となっていたのを、ミュージック&デザインギャラリーとして展示・イヴェント・おしゃべりの場に活用しようというプロジェクトが立ち上がりました。日本建築の良さをそのままに、再び建物に活躍してもらう試みです。

 古い建物の柱を残して、真新しく再生した住宅があります。その過程を毎日見ていましたが、柱や梁を足し、屋根を乗せ、窓や玄関扉をはめ込み、外壁を張ると新築のようです。それぞれ生き返ったようです。(2016.01.15