建築探偵のアングル(バックナンバー 1~10)

その10

鋸屋根の撚糸工場
鋸屋根の撚糸工場

~撚糸のまち半原に軍港水道 ~

 

   海軍は、1905年(明治38年)の日露戦争・日本海海戦のあと、海軍工廠拡張・艦船や船員の増加など海軍力増強のため水需要が増え、走水水源地からの送水だけでは足りなくなってきました。そのため、新たな水源を相模川支流の中津川に求め、1907年(明治40年)から3年間の調査の結果、愛川村半原を水源とすることに決めました。一方、すでに、横浜市が1904年(明治37年)から中津川の水源調査を行っていましたが、当時、半原は撚糸が盛んで、動力となる水車が100台を超え、撚糸工場も100軒以上あり、水源地を造ることで流量が減ることを懸念し、水源地建設は難航していました。そのような事情もあり、軍港水道の話が来た時には、海軍のため、国のためということで、横浜市は断念し、海軍の半原水源地が造られることになりました。

   近世以降、神奈川県北部では養蚕が盛んで、養蚕農家で生産された生糸は上溝・厚木・原町田などの生糸.繭商に集められ、その多くが半原で撚糸されていました。山梨県東部・八王子・津久井など大きな織物市場を後背地に、半原撚糸は近年まで盛んでした。(2012.07.16)

 

 

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その9

湘南国際村配水池(1階展示室、2階レストラン)
湘南国際村配水池(1階展示室、2階レストラン)

~水道の歴史が伝えるもの~

 

 横須賀市営水道で市民に給水が始まったのは市制施行の翌年、1908年(明治41年)で、全国で14番目、県内では横浜に次いで2番目でした。海軍水道としての歴史は1876年(明治9年)に遡り、横須賀造船所へ送水したことに始まります。横須賀にとって水道の歴史は横須賀発展の歴史であり、近代日本の歴史をも物語る資料でもあります。

探偵団が見学した、横浜水道記念館・技術資料館は水道の歴史と街の発展史、技術史が展示され、県の水道記念館はゲーム感覚で水の活用を体験できます。横須賀で水道の歴史を体験できるところは逸見浄水場・走水水源地群が知られていますが、湘南国際村配水池には小さな展示室と資料倉庫があります。普段非公開の倉庫には、横浜水道資料館に劣らない数々の水道歴史資料が保管されています。明治期のレンガ塊を始め常滑焼土管、手作業用の窯や鍋、朝顔形取水管、二股鉄管そのほかです。1955年(昭和30年)ごろまでは現場で必要な器具などは水道局の鍛冶場で造っていたそうで逸見浄水場にもあったということです。こうした収蔵品は眠らせておくと散逸してしまうことが多いので、展示・活用してほしいものです。(2012.06.27)

  

 

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その8

城壁のような五本松堰堤
城壁のような五本松堰堤

~神戸市布引水源地五本松堰堤~

 

 2006年(平成18年)に国の重要文化財に指定された神戸の布引水源地水道施設を、先日、訪ねました。新神戸駅から住宅街を少し行くと布引の滝入口があり、40分ほど登ったところに五本松堰堤がそびえています。六甲山地の麓、名水100選の布引渓流、日本の滝100選の布引の滝の上流をせき止めて造られた布引貯水池は、ダム湖100選にも選定されています。堤高33.3m、堤長110.3mの五本松堰堤は、重力式粗石コンクリート造で、型枠用の花崗岩の石積みを残した外壁に、デンティル(歯形)模様が施されたヨーロッパの城壁のような構えです。兵庫開港に伴っての人口増加、伝染病の流行など水道の必要が増し、1887年(明治20年)、横浜水道の設計者パーマーによる計画に始まり、何度かの変更ののち、1900年(明治33年)に竣工しました。文化財の範囲は、堰堤・橋梁・土地を含めた水道施設全体です。「地元の人にどれだけ好かれているかが、保存にとって大切なこと」との一文がありました。憩いの場としても大勢の人が訪れるダム湖への道は花崗岩のがけ地で、防護ネットが張られています。2005年(平成17年)に堤耐震補強工事がされています。(2012.06.18)

 

 

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その7

旧大湊水源地水道施設 沈澄池堰堤     提供・むつ市教育委員会
旧大湊水源地水道施設 沈澄池堰堤     提供・むつ市教育委員会

~文化財の水道施設~

 

   近代国家の象徴ともいえる水道施設。市民生活や産業に欠かせない施設ですが、土木・建築技術ばかりでなく、造園や景観といったあらゆる分野で先進的な役割を果たしています。国の重要文化財に指定されているものも多く、むつ市旧大湊水源地水道施設、秋田市藤倉水源地施設、舞鶴市舞鶴旧鎮守府水道施設、呉市本庄水源地堰堤水道施設、神戸市布引水源地水道施設、鳥取市旧美歎水源地施設などがあります。取水から浄水、配水など一連の施設を総合して指定されている場合がほとんどです。

 1909年(明治42年)築造の旧海軍大湊要港部水源地堰堤は、当時横須賀鎮守府経理部建築科長だった桜井小太郎の設計で、同科が施工しています。桜井小太郎は、横須賀鎮守府長館官舎(現・海自田戸台分庁舎)の設計者でもあります。

 大湊水源地水道施設は、現在、むつ市水源地公園として活用されています。(2012.06.06)  

 

 

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その6

末浄水場
末浄水場

~水道施設のはなし~

 

  世界最古の水道は、紀元前312年ごろ建設されたローマの水道(アピア水路)といわれています。日本では、小田原を支配していた北条氏康(1515年~1571年)が小田原城下に水を引き入れるため、早川から取水した≪小田原早川上水≫が始まり。上水に板の橋が掛かっていたことが板橋の地名の起こりとのことです。

 水を沈殿ろ過し、有圧で、鉄管を使い常時送水するという近代水道の始まりは、1887年(明治20年)10月17日、横浜の外国人居留地に給水されたときとされています。1890年(明治23年)に水道条例が制定されると、都市部で実用化が広まりました。

 探偵団では2010年(平成22年)5月、石川県金沢市の末浄水場を見学しました。1932年(昭和7年)完成で、犀川の清水を取水し、緩速ろ過方式で1日19,500㎥を浄水、その後拡張と改良を重ね、現在は105,000㎥を市内45万人に給水しているそうです。水道100選、国登録有形文化財、噴水のある庭園は水道施設として初の国の名勝に指定されています。この日、丁度ろ過池の清掃をしていました。(2012.05.26)

 

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その5

走水浄水池
走水浄水池

~浄水池は初期の鉄筋コンクリート~

 

  桜のころ賑わう走水水源地には、道路からちょっと見にくいところに鉄筋コンクリート造浄水池があります。1908年(明治41年)に海軍により建造された上屋付き浄水池で、道路を挟んだ煉瓦造貯水池から送られた水を貯えるための施設です。内部は鉄筋コンクリート造の5連馬蹄形ヴォールト、外壁には石で縁取りした丸窓が並んでいます。設計は海軍技師伊藤誠吉、我が国での鉄筋コンクリート建造物としては初期のものです。現在、煉瓦造貯水池とともに国登録有形文化財となっています。ちなみにこの年の12月25日、海軍から払い下げを受けた水道管により、332戸に給水が開始されました。市営水道の始まりです。

 日本初の鉄筋コンクリート使用は、1890年(明治23年)の横浜港岸壁工事で、オール鉄筋コンクリートのオフィスビルとしては、1911年(明治44年)に建築された遠藤於菟設計の三井物産横浜支店です。(2012.05.17)

 

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その4

調整室
調整室

~休止中の逸見浄水場~

 

 逸見浄水場は、愛川町にある半原水源地から送られてきた原水を、浄水する施設として、旧海軍により1921年(大正10年)に建設された市内唯一の浄水場です。浄水能力は1日10,000㎥で、戦後、正式に旧軍港水道が市に譲与されたのは1954年(昭和29年)のことでした。

逸見浄水場には緩速ろ過池4池、着水井1、浄水池2、配水池2があります。建物としては、銅板葺、鉄筋コンクリート造の緩速ろ過池調整室4棟、東西にある換気と採光を兼ねた搭状の配水池入り口2棟、送られてきた原水の流量を測るベンチュリーメーター室1棟の7棟があり、いずれも1919年(大正8年)には建築されていました。現在すべて国登録有形文化財になっています。特に搭状の建屋は、19世紀末にドイツ・オーストリアで興った、新しい造形芸術であるセセッションスタイルが取り入れられているのが特徴です。

現在休止中で水が抜かれているので、ろ過池や池中の機材などの調査が可能です。この機会に調査が行われることを期待しています。(2012.05.09)

 

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その3

市営水道貯水池(覚栄寺裏)
市営水道貯水池(覚栄寺裏)

~水道施設と探偵団~

 

 

 ヴェルニーの水として知られる走水水源地は、1876年(明治9年)、軍艦建造などのため約7キロメートル離れた横須賀造船所(現ベース)へ水を送るために、海軍水道水源地として造られました。当時の水道管は土管でした。日清戦争が始まると海軍の水需要が増え、1895年(明治28年)には覚栄寺裏山にも貯水池を造り、1902年(明治35年)に現在国登録有形文化財となっている走水水源地煉瓦造貯水池を竣工しました。内部はヴォールト(かまぼこ)天井、正面入り口を中心にして丸窓が左右対称に配され、屋根には空気抜き2か所、横須賀鎮守府経理部建築課の海軍技師井川喜久蔵、堀池好之助らが担当しました。市民の使用する市営水道が同じく覚栄寺裏山の海軍水道貯水池近くに完成したのは1908年(明治41年)年。覚栄寺裏山の二つの施設は、建設当時の姿を伝える建造物として文化財に値する産業遺産であり、市民生活を支えた文化遺産でもあります。調査の上、歴史を語る建造物として、文化財登録や保存活用がなされることを願っています。(2012.04.30)

 

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その2

上町教会
上町教会

~探偵団と応援団~

 

 日本キリスト教団横須賀上町教会(上町2-43)へ探偵団がお訪ねしたのは1992年(平成4年11月)のことでした。1931年(昭和6年)竣工の教会堂は、外観・内装ともに建築当時の姿をとどめ、日ごろはめぐみ幼稚園の園舎として元気な子供たちを見守っていました。設計者は横田末吉(アメリカ人伝道師でもあったヴォーリズの弟子)であり、カナダ人宣教師が祖国から資材を取り寄せ、日本人大工の手によって建てられました。この教会堂の保存・活用のお手伝いをする目的で、探偵団のメンバーに限らず、皆さんに参加していただきたいとの願いから誕生したのが≪うわまち教会建物応援団≫です。2003年(平成15年)に国登録文化財に登録され、応援団としては文化財の標柱設置、コンサートや落語会などの開催、教会周辺の草取りなどを行ってきました。建物を大切にしたいとお思いの方のご参加を歓迎いたします。(2012.04.23)

 

 

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その1

 「古い」と言ってしまえばそれまでですが、「街の歴史を語る」と言えば改めて対面したくなるまちなかの建物。幕末に横須賀製鉄所が建設され、近代日本が歩き出したときからが、今の横須賀の始まりということになります。年表的に言うと1865年(慶応元年)と言えましょう。それから147年、まちの基本を軍都として歩み、周辺の町村を合併し、現在の市域が確定したのが逗子町が横須賀市から分離した1950年(昭和25年)、太平洋戦争後のことです。関東大震災では大きな被害を受けましたが、それを契機として、現在の中心市街地が新たに整備されてからは、戦争での被害はあまり受けず、暮らしてきました。そうした人々の暮らしや変化する時代の価値観を見ていたのが建物たちです。その建物たちから地域の歴史物語を教えていただこう、というのが横須賀建築探偵団です。暮らしの歴史を語り継ぐことが将来の素敵なまちづくりにつながると思っています。(2012.04.18)