建築探偵のアングル

アングル160

二人用の個室8部屋と食堂、談話室のある宿泊施設
二人用の個室8部屋と食堂、談話室のある宿泊施設

 ~旧長濱検疫所一号停留所~

 

  外国から来航する人や動物、輸入食糧などから感染症などの侵入を防ぐための役割が検疫所です。1879年(明治12年)9月にコレラ蔓延防止のため横須賀市長浦に消毒所が設置されたのが検疫所の始めで、1885年(明治18年)発行の「横須賀明細一覧図」の左上、箱崎半島に消毒所が描かれています。その後、日清戦争の際、横須賀軍港が拡張され、1895年(明治28年)に横浜市金沢区長浜に移転。そのとき建築された一号停留所が関東大震災での被害も少なく現存しています。停留所とは入国した乗船客などに感染症の疑いのある場合、1か月間経過観察のため滞在するための宿泊施設です。建物全体はコの字型のシンメトリーで左右に食堂と談話室が張り出した形のベイウインドウ、外観は下見板張り上げ下げ窓を基調とした横浜最古の洋風建築であることから2018年(平成30年)に国登録文化財となりました。宮大工が建てたらしいとのことです。和風の要素のある富士屋、日光金谷、奈良ホテルとは違います。ここを利用するのは上等のお客で宿泊中の滞在者には一流のコックが食事を作ったそうです。通常は非公開です。向かい側に横浜高校野球部グランド。元気な高校生が練習に励んでいました。(2018.12.01

 

 

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アングル159

醸造試験所跡地公園に隣接する赤煉瓦酒造工場
醸造試験所跡地公園に隣接する赤煉瓦酒造工場

~赤煉瓦酒造工場(旧醸造試験所第一工場)~

  

 東京都教育委員会では文化の日を中心に都民が文化財に親しめることを目的に「東京都文化財ウィーク」を行っており、今年も日ごろ非公開の建物の公開や講座などが行われました。

   王寺駅から徒歩7分の北区滝野川、明治通りを挟んで飛鳥山公園がある高台に2014年(平成26年)に国重要文化財に指定された赤煉瓦の旧醸造試験所第一工場があります。山紫水明の好適地であることから1902年(明治35年)に工場敷地に決定、翌年には竣工しています。設計は旧横浜正金銀行や横浜赤レンガ倉庫の設計者でもある妻木頼黄(18591916)がドイツのビール工場を参考にしたと伝えらており、レンガは深谷で焼かれたものです。目的は主に清酒の品質と醸造方法を改良するということで3年前まで使われていたそうです。壁体レンガはイギリス積みで外側の1枚分にだけドイツ積みの化粧レンガが施され、通路や部屋入り口のアーチは目地巾が一定になるよう20数種類のレンガ、1階天井と2階床が一体化した耐火床は連続アーチで荷重を伝える構造、麹室は水分調整の必要から床から天井までレンガ表面に釉薬を塗った白煉瓦、2階の発酵室は漆喰塗りです。(2018.11.15

 

 

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アングル158

元医院の上毛新聞富岡支局
元医院の上毛新聞富岡支局

~上毛新聞富岡支局~

 

 世界遺産・国宝富岡製糸場正門から真っすぐに延びた城町通り。レトロな建物が点在する観光地の商店街の一角に、三角の切妻屋根が特徴のこじんまりした洋館があります。玄関庇、ドアーの取手、1階には光をとり込む大きな窓、2階には洋館らしいデザイン的な小窓。ここは2013年(平成25年)に移転開局した上毛新聞富岡支局の事務所です。1階には資料や絵画、写真などを展示し、観光客や市民が自由に見学できるギャラリーが併設されています。この建物は1930年(昭和5年)に肥留川医院として建てられ、20年ほど前に閉院後は使われていなかったそうです。内部の設えは医院当時のままを活用し、受付の小窓からは事務室を望むこともできるアットホームな雰囲気です。ギャラリーは待合室だったことを生かし、くつろいで資料や写真を見ることが出来るスペースになっています。

 富岡製糸場への道には操業が盛んだったころから受け継がれる商店や業種変更しながらも昔の姿を伝える商店建築、建て替え中の建物など様々な街の息吹が建物を通して感じられます。(2108.11.01

 

 

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アングル157

ホローブリックが外観の特徴の県立図書館
ホローブリックが外観の特徴の県立図書館

~神奈川県立図書館~

 

 神奈川県立図書館横浜は桜木町から紅葉坂を上がった横浜港を一望の紅葉ヶ丘文化ゾーンに1954年(昭和29年)に開館しました。設計者は近代建築の巨匠ル・コルビュジェの弟子、前川國男(19051986)で、施工は大成建設横浜支店。当時前川事務所の所員だった鬼頭梓(19262008)もこの図書館設計に深くかかわっていました。当時図書館の本は閉架書庫の中で、一般市民が自由に借りられる図書館はほとんどありませんでしたが、開架式図書館の基本となる形を切り拓いたのが鬼頭でした。

   横浜の神奈川県立図書館は、建物中心に図書館の核となる書庫を置くことで、周囲は柱だけの構造にし、閲覧室には明るい空間ができました。2階までの吹き抜け閲覧室前面にはクスノキや桜の大木のある中庭が配されゆったりした心地よさを感じさせていますが、横須賀市の中央図書館にも大きなクスノキのある中庭があってこうした空間の大切さを改めて感じました。力強いコンクリートの円注は木枠のあとが残る打ちっぱなしで水分が少なくセメントの割合が多いので丈夫なのだそうです。外観の特徴は内側を白く塗ったホローブリックで館内の明るさや落ち着いた雰囲気を醸し出しています。(2018.10.15

 

 

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アングル156

移築復元されたかすみの間
移築復元されたかすみの間

~駒子の部屋と上越線~

 

 川端康成の小説「雪国」は越後湯沢温泉の旅館『高半』のかすみの間で1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)にかけて執筆されました。当時は3階建ての木造建築で、かすみの間があったのは不老閣と呼ばれる宮大工の手による格式ある棟。現在は鉄筋コンクリート6階建てになりましたが、かすみの間は当時のままに移設され資料館が併設されています。眺望は昔のままとのことですが、すぐ下には上越新幹線が走りトンネルが見えます。

   上越線開通に生涯をささげたのが法師温泉創業者でもある岡村貢(みつぎ18361922)で、上越線の父と呼ばれています。数々の難題を乗り越え1918年(大正7年)に着工、岡村亡き後の1931年(昭和6年)9月1日に全線開通しました。12月に石打駅前に立像が建立されましたが戦争で供出、1961年(昭和36)年に再建されました。スキーブームで上越線沿線が賑わったころです。1991年(平成3年)上越新幹線が開通するころには新幹線と乗用車利用で上越線は寂れてきました。数年前に石打で見た岡村の銅像の前の商店街はすべて閉店。今回も以前と全く変わらない光景でしたが、一方の線路が外され枕木のみ残る現状はかなりびっくりでした。(2018.10.01

 

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アングル155

邪鬼を踏みつける≪呼(うん)≫反り返り掌がインパクト
邪鬼を踏みつける≪呼(うん)≫反り返り掌がインパクト

~越後の古刹に日本のミケランジェロを訪ねる~

 

 上越線越後中里駅からほど近くの曹洞宗方丈山瑞祥庵。寺の歴史は古いそうですが現在地に本堂が建立されてからでも250年以上。雪に耐えるよう太いケヤキの柱が1間おきに14本、さらに太い丸柱は建築に関わった大工職人と共に三国峠を越えて群馬から運んできたそう。今でも雪にも地震にもびくともしないとのこと。木立に囲まれた境内入り口には1847年(弘化4年)に再建された上層階が鐘撞堂の楼門、左右に安置されている仁王像が日本のミケランジェロとも言われる石川雲蝶(1814-1883)の作。1988年(昭和63年)の楼門改修時に像の台座裏に≪三条彫工石川雲蝶≫の刻銘が確認され1990年(平成2年)に湯沢町有形文化財に指定されました。雲蝶は江戸雑司ヶ谷の生まれで幕府御用勤めの彫り師でしたが32歳で越後三条へ。「良い酒とノミを終生与える」という条件だったとか。木彫、石彫、絵画、組み物細工など1000点以上の作品を残しています。瑞祥庵の仁王像は安政以降の作とみられ独特な重量感、迫力、繊細、そしてちょっとユーモアある親しみやすい仏像で緊張せずに対峙できる近代の仏様を感じました。地域ならではの文化に触れられるのも建築探偵の楽しみです。(2018.09.15

 

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アングル154

道玄坂の百軒店入り口アーチ
道玄坂の百軒店入り口アーチ

~渋谷百軒店(ひゃっけんだな)~

  

 渋谷区道玄坂2丁目あたり、渋谷駅から5分ほどのところに大きな赤いアーチがニョッキと建っているのが百軒店商店街入り口。劇場、ライブハウス、風俗店、ホテル、飲食店などが小径沿いに建ち並び、レトロな大人のまちと言った雰囲気のある商店街です。まちの中心には千代田稲荷神社が祀られています。神社の創始は1457年(長禄元年)太田道灌が江戸城築城の時、京都の伏見稲荷を勧請したとされており、商売繁盛・諸産業の守護人として今も地域の人たちに大切に守られています。

 百軒店の誕生は1923年(大正12年)の関東大震災後の復興計画にあたって現在の西武グループ、コクドの前身であった箱根土地株式会社が購入した旧・豊前岡藩主家の中川伯爵邸の一部に震災で被害を受けた有名店や老舗など百軒余りを誘致してつくった商店街でした。大震災での被害は中心部に比べて少なかった渋谷でしたが1945年(昭和20年)の東京大空襲では全焼、再び立ち上がりましたが、近年まちの中心が公園通りなどに移動しました。渋谷駅と周辺は大再開発中です。いくつもの時代を超えて渋谷の賑いの原型と言える百軒店でした。(2018.09.01

 

 

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アングル153

木曽川対岸からの崖屋づくり、1階は道路の下
木曽川対岸からの崖屋づくり、1階は道路の下

~木曽の崖屋づくり~

 

 江戸時代は中山道の宿として賑わった木曽福島には、江戸時代創業の老舗や1936年(昭和11年)に架けられた世界初鉄筋コンクリートローゼ桁橋(2002年土木学会推奨土木遺産)など街道沿いの町屋や水場、関所など以外にも時の流れを記憶する建造物があります。木曽川沿いのわずかな土地を利用して崖に沿うように建築された建物群を「崖屋づくり」と言うそうですが、崖に張り出した基礎の上に建っている3階建ての建物群です。御岳信仰の基地としても栄えた明治以降、車での交通量も増え、道路拡張による苦肉の策でもあったようです。崖屋の道路に面しているのは2階部分で商店、3階が居住スペース、下屋(したや)と呼ばれる1階は木曽川に張り出している地下室部分にあたり、トイレや浴室、物置になっています。木曽川の対岸からは建物の裏側を見ることになります。以前は汚水も垂れ流しで川も臭く通る人もいなかったとのことですが、近年、木曽川対岸から見た「ヶ」の風景が観光資源として見直されています。地元意識も変わりシンポジウムやイベントなど活用が広がっているそうです。

 観光資源は角度を変えるといろいろあることを知りました。(2018.08.15

 

 

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アングル152

旧庁舎を模したとされる御料館
旧庁舎を模したとされる御料館

~御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)~

 

 御料館は長野県木曽町福島、中山道の宿場の風情が主流の街並みに建つ近代建築で、地域のランドマークともなっている建物です。木曽の山林が1889年(明治22年)、皇室の財産である御料林となり、1903年(明治36年)に宮内省御料局木曽支庁としてモダンな洋風庁舎が建てられましたが1927年(昭和2年)5月の木曽福島の大火により焼失。わずか6か月後の同年12月、旧庁舎を模した現庁舎が再建されました。設計には宮内省内匠寮の朝香宮邸(現庭園美術館)を設計した権堂要吉も関わっています。急なことで材料は輸入材が使われたということです。

 1947年(昭和22年)山林は国有林となり、庁舎は変遷を経て2004年(平成16年)閉鎖、解体の検討がされたとき有志が保存に立ち上がり『旧宮内省御料局木曽支庁建物保存をすすめる会』を発足、各地の視察、町民アンケートなどを行い3360人の署名を集め請願書を提出したことで、2010年(平成22年)、町が土地・建物を林野庁から買い取り、信濃伝統建築研究所の工事設計監理で復元。12年に町有形文化財に指定、14年から地域活動の場として開館しています。2018年5月に日本森林学会から『林業遺産』の指定を受けました。(2018.08.01

 

 

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アングル151

茅葺の下に杉皮の化粧屋根、その下に板屋根の三重構造の屋根
茅葺の下に杉皮の化粧屋根、その下に板屋根の三重構造の屋根

~京都の朝廷文化を伝える一条恵観(いちじょうえかん)山荘~

 

 鎌倉市浄明寺の一条恵観山荘は江戸初期の公卿・後陽成天皇の第九皇子であった一条恵観(1605年~1672年)が、1646年(正保3年)ごろに京都西賀茂の敷地内に建てた迎賓館の要素を兼ねた別荘で、当時の朝廷文化を伝える遺構として国指定重要文化財となっています。

   戦後は荒れた状態となっていたそうですが、周辺がゴルフ場開発されることになったとき、茶道界の方々が中心になり1959年(昭和34年)に鎌倉へ移築されました。当時は今より少し駅側だったそうですが、1987年(昭和62年)、敷地800坪の現在地に30坪の建物、大名茶人・金森宗和好みの枯山水の庭園と共に創建当時の姿で再現されました。庭園を囲むように配された現代数寄屋建築は、この地へ移築後に吉田五十八の弟子の設計で建てられました。母屋に負けない繊細さが感じられる建物です。山を背にした滑川上流の澄んだ流れをとり入れた自然の庭にはモミジが多く植えられ紅葉の時期も素晴らしいそうです。

   2年前から月に数日間一般公開されており、申し込み制で解説付きの室内見学ができます。武家文化の鎌倉にあって朝廷文化を感じる山荘です。(2018.07.15