建築探偵のアングル

アングル220

手前から狛猿、自然石の手洗い鉢、熱田神社からきた手洗い鉢
手前から狛猿、自然石の手洗い鉢、熱田神社からきた手洗い鉢

~猿島から来た狛猿~

 

 現在の山崎小学校のところには草ぶき屋根の熱田神社が祀られていました。1909年(明治42年)、一村一社にとの政府の命により公郷にあった神社14社が春日神社一社にまとめられました。熱田神社のあった山は切り崩されて学校用地になり、1912年(明治45)年山崎小学校が開校しました。奉納されていた狛犬は現在の春日神社拝殿前の狛犬で、奉納者である鈴木金蔵の名が読み取れます。また、石渡孫左衛門が奉納した手洗い鉢は神輿蔵脇に置かれていますが、その前にある自然石をくりぬいた形の手洗い鉢は猿島に祀られていた春日明神のもので、神輿蔵前に鎮座する「狛猿」とともに猿島から移されてきたとのことです。

 猿島に鎮座していた春日明神は公郷の総鎮守でしたが、陸軍の要塞として1884年(明治17年)島が買い上げられたので、春日明神の遙拝所があった場所に春日明神が祀られることになりました。

 猿島には日蓮と角なしサザエなど伝説がたくさんあります。東京湾の主と言われたほら貝と印旛沼の八千巻大蛇の戦いで敗れた大蛇が島になった、島に祀られていた春日明神の祭礼前後に鹿野山から泳いでくる大蛇を見た、猿島に台場ができて初めて空砲を撃った時洞窟に住んでいた大蛇が空を飛んだなど。土地の歴史を伝える《もの・伝説》は大切です。(2021.06.01

 

 

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アングル219

 地蔵菩薩が見守る中行われた慰霊祭
地蔵菩薩が見守る中行われた慰霊祭

~富士見公園の慰霊祭~

 

 横須賀市富士見町1丁目の富士見公園には「忍塚」と「無縁塔」のほか小さな石仏などが安置されています。この5月8日に36回目の富士見公園無縁墓地慰霊祭が行われました。聖徳寺の住職を導師に迎え、地元の富士見会と光栄会の主催で60人ほどが参列しました。

 幕末から明治、富士見公園の場所は無縁墓地でした。1865年(慶応元年)から始まった横須賀製鉄所建設には石川島寄場人足200人が従事、1877年(明治10年)頃には深田村に横須賀監獄分署が設置され、そこの囚人も造船所や猿島などの土木工事に従事しました。1885年(明治18年)7月、現公園の地を神奈川県が監獄墓地とし買収、無縁墓地としました。1914年(大正3年)に県から横須賀市に所有権が移転。1922年(大正11年)5月篤志者によって「忍塚」が製鉄所工事で犠牲になった身寄りのない方々の慰霊のために、また、服役中死亡者や柏木田遊郭で亡くなった身寄りのない女性、行路病死者、溺死者などの慰霊のために「無縁塔(地蔵菩薩)」が建てられました。公園敷地に変更になったのは1958年(昭和33年)、1985年(昭和60年)に富士見公園として整備されました。出土人骨は火葬し、浦賀の無縁納骨堂に安置。

横須賀製鉄所は近代日本の始まりと言われますが、多くの犠牲者を忘れず横須賀発展の歴史を伝えることも、ルートミュージアム観光には大切な要素ではないでしょうか。(2021.05.15

 

 

 

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アングル218

修復間もない銅板が光って見える逸見波止場の衛門
修復間もない銅板が光って見える逸見波止場の衛門

~修復された「逸見波止場衛門」~

 

 2019年(令和元)年秋の台風被害で、ヴェルニー公園のシンボルであり日本遺産に認定されている逸見上陸場一棟のドーム型屋根が壊れてしまいました。銅板がはがれた無残な姿になりましたが元の姿に修復されました。壊れる前のドーム屋根を覆う銅板は0.2ミリの厚さで、緑青が潮風による酸化を抑えていました。修復にあたっては近年の銅板は厚さが薄いものでも0.3ミリとのことで、折込などの細工ができにくいとのことでしたが、0.25ミリのものが見つかったことでほぼ元通りに修復されました。修復当初は銅の赤色でしたが最近は落ち着いた色になっています。

   建物は鉄骨鉄筋コンクリート造で、外観の特徴は、8角形の建屋と軒、その上に円形のドーム型銅板屋根が載っている、外壁の素材にスクラッチタイルが使われていることです。建築年代は「湊町軍需部跡及び逸見上陸場附近整備工事」が昭和3~4年に行われていること、昭和5年3月に「軍港波止場正門」と書かれた横鎮検閲済絵葉書が発行されていることから昭和4年度内の工事完了と思われます。ヴェルニー公園整備にあたり、もっと横須賀駅寄りにあった建屋が現在地に移築されました。1943年(昭和18年)5月23日、山本五十六大将の遺骨もここに上陸、横須賀駅から特別列車で東京へ向かいました。(2021.05.01

 

 

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アングル217

職方の名前の彫り込まれた銅製火鉢
職方の名前の彫り込まれた銅製火鉢

~職方の記憶~

 

 汐入2丁目、現在マンション兼店舗が建つところに堂々とした近代和風の「新井閣」がありました。1906年(明治39年)に現在の汐入駅近くで「新井屋」の名で旅館を開業。京急線開通のため1930年(昭和5年)に現在地へ新築移転しました。施主は沢田半で40代だった頃でした。大工棟梁は30代の八木七郎。「新井屋旅館 新築落成記念 昭和5年1115日設計施工者八木七郎」と記された落成記念写真に職方一同がはっぴ姿で写っています。落成してすぐに増築し「敬神閣」と呼ばれる龍の天井絵が描かれた望楼のある客室が増築されました。内部は軍港風景のステンドグラス、ケヤキの1枚板の廊下、部屋ごとの設えなど各地から集められた銘木が使われた建具など特徴がたくさんありました。

   その中の一つ、直径80㎝はあろうかという大きな銅製の火鉢があります。これは新築記念に建築にかかわった職方から送られたもので、火鉢周囲に「祝 新築職方 イロハ順 贈 新井屋 昭和5年12月吉日 銅製火鉢 双竜手 鳶戌亥 畳竹本 建具高橋 銅工長森 経師長橋 大工八木 硝子山ノ内 左官福井 煉瓦藤田 塗師斎藤」と彫り込まれています。職人の誇りと施主に対する感謝の気持ち、末永く繁盛するようにとの願いがこめられた火鉢は今も保存され、職方の誇りは伝えられています。(2021.04.15

 

 

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アングル216

藤井寅吉奉納の石灯篭
藤井寅吉奉納の石灯篭

~横須賀の棟梁と米ヶ浜神明社の灯ろう~

  

 横須賀共済病院から深田への坂を観念寺の坂とか(龍本寺の)裏坂と呼びます。坂を上がったあたりの石垣に「道路整地費寄付名連名」と彫られた石板がはめ込まれています。米ヶ浜神明社は坂を下ったところにあり、社殿前に一対の石灯ろうが奉納されています。そこには「昭和14年2月吉日 米ヶ浜 藤井寅吉」と寄付者の名前が刻まれています。藤井寅吉は大寅と呼ばれる大工の棟梁でした。寅吉(1872年~1943年)(明治5年~昭和18年)は明治の中ごろ東京から横須賀の大滝町に来ましたが、1907年(明治40年)に当時の深田町129番地に家と蔵を新築し移転してきました。当時深田町内は元深田、台深田、大門深田、米ヶ浜深田からなっていて共済病院付近は米ヶ浜深田、現在の共済病院の建つ場所で、当時は何軒も家が建っておりました。それらの住宅は1945年(昭和20年)3月31日を期限に建物強制疎開で取り壊されましたが蔵はそのまま残り軍に利用されていたようです。1992年(平成4年)、共済病院入院棟建設のため取り壊されました。蔵は地下に客用布団、茶碗、掛け軸など、1階には仏壇、押入れ、物入、1・2階には畳が敷いてあり建具は神代杉だったということです。大寅さんが建てた建物で現在もあるのは大滝町の山仙文房具店ですが、海軍料亭小松、映画館の谷川館(現在のヨコビル)、高砂クラブ(集会所)など、かつての横須賀を代表する建物を建てた棟梁でした。(2021.04.01

 

 

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アングル215

足場が架けられた記念館三笠の後部マスト
足場が架けられた記念館三笠の後部マスト

~三笠艦のマスト~

 

 三笠艦の後部マストに足場がかかっています。マストの高さは56m、約18階建てビルの高さで建造当初からのものだそうです。細長く規則的な足場が見事です。6年ぐらいに一度さび落としと塗装がされるということで今回は後部マストのみ、4月いっぱいの作業だそうです。横須賀観光を代表する三笠艦。建造から119年の三笠の足跡を振り返ります。

    1902年(明治35年)、英国のヴィッカーズ造船所で建造された三笠は15140トン、当時世界1級の戦艦でした。1904年(明治37年)開戦の日露戦争の際、翌年の5月27日、28日の日本海海戦で東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊の旗艦として、ロシア海軍のバルチック艦隊から東郷ターンと呼ばれる大旋回作戦で大勝。三笠が輝いたときです。日露戦争後、佐世保軍港に停泊中に大爆発が起こり大損害、修理後の1923年(大正12年)引退、第1次世界大戦後の軍縮で解体の危機が迫ったとき三笠保存の声が起こりました。航海途中関東大震災にあい横須賀沖で座礁、1925年(大正14年)から現在地に固定保存となりました。第2次世界大戦後は米軍に接収され、大砲などはスクラップとして売られ、一時はダンスホールや水族館などになり荒廃しましたが、1961年(昭和36年)、多くの人の協力で復元され、再び横須賀のシンボルとしてまた日本遺産として存在感を発揮しています。(2021.03.15

 

 

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アングル214

上町方面と安浦方面を結ぶ聖徳寺坂は交通量が多い
上町方面と安浦方面を結ぶ聖徳寺坂は交通量が多い

~聖徳寺坂今昔~

 

 現在の上町方面から安浦方面、国道16号へ京急のガードをくぐって一直線にあるのが聖徳寺坂です。かつては聖徳寺の門前の道が聖徳寺坂と呼ばれていました。現在の坂は1929年(昭和4年)に工事され、当時は新聖徳寺坂と呼ばれたそうです。「横須賀市震災誌附復興誌」には《聖徳寺坂の開通は上町に通じて頗る便利となった》と記されています。京急が黄金町から浦賀まで開通したのが1930年(昭和5年)ですからガードなども含め震災後の都市計画道路だったと思われます。1987年(昭和62年)、市制施行80周年記念事業としてヨットの帆の模様のある防護柵、はまゆうがあしらわれた街路灯、人道用の階段が設置され安全に往来できるようになりました。坂の途中に意味不明の石段が数か所ありますが、建設当初はここから坂へ人が上がっていました。当時は車両の通行も少なかったことでしょう。

   安浦埋め立て前は田戸の赤門として現在市民文化資産に指定されている長屋門の永嶋家横の旧道から先は海でした。波が立つ日は永嶋家の庭を通してもらったと伝わっています。また、初代の料亭小松は永嶋家の赤門の前で開業、震災の時には米ヶ浜に料亭を建築中でしたが地盤がよくそのまま建築が続けられ開業したということです。今では重箱と言われた安浦港も埋め立てられ大規模なマンションが建っています。(2021.03.01

 

 

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アングル213

若々しいデザインの2代目安房埼灯台
若々しいデザインの2代目安房埼灯台

~野菜をイメージした安房埼灯台~

  

 県立城ヶ島公園は1958年(昭和33年)に開園した都市公園です。太平洋一望の展望台、ピクニックランドなど広場があり、冬には水仙が一面に咲き、県内外からも観光客が訪れる三浦市屈指の観光地です。海を隔てた向かい側には現在の南房総市、昔の安房国が見えることに由来した安房埼灯がありました。高さ11メートル、円筒形の中心がくびれたようなかたちの灯台でしたが老朽化のため新築することになったのを機に、海上保安庁は三浦市在住・在勤の方からデザインを公募、107の応募作品の中から深澤紗綾香さんの作品が選ばれました。畑から海が見えるイメージと野菜をモチーフにしたということですが、とんがった先端は大空に向かい、三浦や青首として知られる大根に代表される新鮮な三浦野菜が表現された白と緑のかわいらしくも大胆な力強さが感じられるデザインです。初代安房埼灯台は1962年(昭和37年)公園から下った安房埼の磯から南東300メートル前後の安房埼神楽高根の照射灯の役割で、2代目の灯台も引き継いで役割を果たしており『阿波埼灯台 初点昭和37年2月 改築令和2年3月』のプレートが付いています。城ヶ島には1870年(明治3年)8月に初点灯した、洋式灯台として日本で5番目に建てられた城ヶ島灯台が長津呂崎にあります。関東大震災で倒壊、現在の灯台は1926年(大正15年)に再建されたものです。(2021.02.15

 

 

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アングル212

2階回廊と1階レストラン
2階回廊と1階レストラン

~移築保存された旧第四銀行住吉町支店~

 

 新潟県の信濃川沿いに『みなとぴあ』があります。新潟市歴史博物館を中心に新潟の歴史と文化を伝える建築物が点在し、観光の拠点にもなっています。その一角に2003年(平成15年)に移築復元された旧第四銀行住吉町支店があります。この建物は1927年(昭和2年)竣工で新潟の建築家長谷川龍雄の設計、施工は地元の武田組で昭和初期の銀行建築に多くみられる古典的な様式の重厚な造りが特徴です。2005年(平成17年)国有形文化財に登録されました。内部見学は無料。1階はレストランが営業中で、2階の会議室と日本間は午前2000円午後3500円夜間2500円で使用することができます。

 移築にあたっては移築復元が困難な鉄筋コンクリート部分を除く石材、青銅飾り、漆喰飾り、板材、照明器具、営業用カウンターなど極力手を加えずに解体することで部材の保存と技術の保存を心がけたということです。『みなとぴあ』の敷地内には擬洋風建築で国重要文化財の旧新潟税関庁舎、信濃川旧河道や荷上場など歴史を伝える施設が集まっています。観光循環バス16便が見どころを500円券で一日利用できます。横須賀では製鉄所以降の近代遺産を中心としたルートミュージアム構想が進んでいますが、周辺見どころやパワースポット、横須賀らしい景観を巡る循環バスで観光客の利便性を高めたいものです。(2021.02.01

 

 

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アングル211

座って庭園を楽しめる設えの2階広間
座って庭園を楽しめる設えの2階広間

~豪商の建てた大正建築~

 

 ≪旧斎藤家別邸≫は新潟の豪商・四代斎藤喜十郎が1918年(大正7年)に迎賓館として建てた別荘で、現在は庭園と建物を一般公開しています。新潟独特の砂丘地を利用した回遊式庭園と近代和風の建物は庭園と建物を一体とした『庭屋一如(ていおくいちにょ)』をテーマとし、1階からも2階からも四季折々の風情を楽しめる設えになっています。

 1945年(昭和20年)に斎藤家の手から離れて維持されてきましたが50年ほどたった時、周辺開発計画が活発化し、ここを取り壊してマンションにという計画が持ち上がりました。そのころすでに庭園背後の砂丘地裏まで開発されていたそうです。このことを知った市民と有志は保存のための署名・募金運動、市議会への請願を行い、その活動が実って2009年(平成21年)に市が公有化することになりました。公開のための整備を経て現在は旧斎藤家別邸運営グループなどによる指定管理者が管理運営を行っています。2015年(平成27年)国の名勝に指定されました。入館は有料ですが二棟ある蔵の一棟は資料展示室、もう一棟は無料でいつでも利用できる休憩室・談話室とトイレも利用できる地域の拠点となっています。別邸ではシンポジウムや展示会などが年間通して企画され、観光の拠点となっています。

 横須賀市の文化財である万代会館も早く活用されるようになってほしいものです。(2021.01.15