建築探偵のアングル

アングル260

楽しそうな茅葺体験
楽しそうな茅葺体験

~横溝屋敷の茅葺修理から~

 

 横浜市鶴見区のみその公園「横溝屋敷」は、江戸時代の横浜の農村生活の原風景を残す茅葺5棟の建物が背後の丘陵に守られるように建っています。かぶと造りの穀蔵は1841年(天保12年)、一番新しい主屋は寄棟茅葺2階建てで1896年(明治29年)の建築です。202210月から傷んだ主屋、文庫蔵、表門の茅屋根のサシガヤなどの修理が行われています。職人は京都から、茅は阿蘇の茅だそうです。伝統技術を伝える機会として現場見学会と茅葺と土壁塗りの体験会が行われました。茅屋根の構造は竹を縦横に組んで下地を作ります。下地は垂木や屋中に固定されています。下地の上に茅を並べ押鉾という横に渡した竹で押さえていきます。針と呼ばれる道具で茅の後ろ側に縄を通して押鉾と下地を結びます。

   1987年(昭和62年)に横溝家から寄贈を受けた横浜市は保存利用計画立案ワーキングチーム、懇談会、活用運営委員会などを経て建物の修復工事を行い、1988年(昭和63年)に市指定文化財(建造物)第1号に指定、1989年(平成元年)から一般公開されています。主屋は展示室、昔から伝わる年中行事などが行われています。横須賀市指定文化財の市立万代会館は耐震工事のため閉館され、傷んだ茅の部分的サシガヤで雨漏りを耐えている現状です。文化財にふさわしい保存活用計画の策定・運用には巾広く実効性のある意見と市民の賛同を集めることが期待されます。(2023.02.01

 

 

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アングル259

国の登録有形文化財「旧近藤邸」
国の登録有形文化財「旧近藤邸」

~藤沢の旧近藤邸~

 

藤沢市民会館の前庭に建つ旧・近藤邸は、関東大震災直後の1925年(大正14年)、元は藤沢市辻堂東海岸の松林に、当時、朝日石綿工業社長であった近藤賢二氏が別荘として建てた建物です。木造2階建て、建物の延べ床面積は173平方メートル(約52坪)、敷地は約3,000坪でした。近藤氏の没後には所有者が変わり、老朽化により取り壊しが決まっていましたが、近隣住民や建築家による「旧近藤邸を守る会」の保存運動を経て、1981年(昭和56年)3月、藤沢市によって移築保存されたものです。2002年(平成14年)に国の登録有形文化財に登録されています。

旧近藤邸の設計は遠藤 新(あらた)で、当時の和洋折衷の代表的な建物です。遠藤は、帝国ホテル旧館や目白の自由学園明日館を設計したフランク・ロイド・ライトの愛弟子ですが、東京帝国大学建築学科を卒業後、アメリカのライトの工房(タリアセン)で仕事をしつつ学んでいます。ライトの日本での活動で遠藤は片腕というべき存在でしたが、ライトは「MY SON」(わが息子)と遠藤のことを呼ぶなど厚い親交がありました。

 遠藤の設計の基本にはライト調の横広なプレーリースタイル(草原様式)が影響していますが、物まねではない「真の日本の住宅」を目指しています。この旧近藤邸もその線上にあります。2023.01.15.HK

 

 

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アングル258

無人でも重要な役割を務めるとうきょうマーチス
無人でも重要な役割を務めるとうきょうマーチス

観音崎のとうきょうマーチス~

 

 観音崎の浜から石の道をジグザグに上がったところに立つ東京湾海上交通センターは《とうきょうマーチス》として知られ、灯台とともに海の安全を支える施設です。1974年(昭和49年)に第十雄洋丸とリベリア船パシフィク・アリス号が衝突炎上して33人が亡くなるという大惨事が発生したことを契機に、海上保安庁が管轄する全国7か所の海上交通センターが設けられました。東京湾の入り口に立つのが《とうきょうマーチス》で、一日に約500隻の大小さまざまな船舶が航行する東京湾の航行情報の提供、海難事故防止などの港内管制を行う目的で1977年(昭和52年)に完成しました。2018年(平成30年)に東京湾内の船舶交通を一体的に把握する必要から、海上交通センターを統合し、横浜の第3管区海上保安本部で一元化されたため観音崎の東京マーチスは無人化になりましたが、東京湾の南の方面での船舶の航行情報には観音崎のレーダーが重要であることから今も塔の先端でレーダーがまわって風向、気圧、風速も含めた情報収集を行っています。

    日本で最初の洋式灯台、登れる灯台として人気の観音埼灯台は1869年(明治2年)1月1日が初点灯。埼と崎の違いは旧陸軍陸地測量部(地図)は山へん、旧日本海軍水路部(海図)は土へんを使ったことに由来しているようです。(2023.01.01) 

 

 

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アングル257

迫力ある横浜港シンボルタワー
迫力ある横浜港シンボルタワー

~横浜港シンボルタワー~

 

 横浜市中区本牧ふ頭D突堤に横浜航路を行き交う船が安全に航行するための通信所として、また、市民と港をつなぐ役割と憩いの場として建つのが《横浜港シンボルタワー》です。高さ48.19mの鉄骨鉄筋コンクリート造の6階建てで地上125mのところに6本の柱に支えられた半円形の展望ラウンジ、4階は365mの高さの展望室になっており140段あまりの階段を上ると無料で誰でも見学できます。設計者は国建築事務所、施工は奥村組・関工務店で、平成元年度「かながわの建築物100選」に選ばれています。完成したのは1986年(昭和61年)、小高い丘の上に立つシンボルタワー周辺には休憩所や芝生広場が広がり、横浜駅や桜木町駅からはバスで、駐車場もあることから新しい観光地としても人気だそうです。大型客船が大黒ふ頭に着岸するときは撮影スポットとして特に人気の場所とか。写真には《F》の文字が信号板にあります。1万5千トン未満の船は出入り自由の信号です。

   シンボルタワーの正面入り口に田辺光彰作の彫刻「遥かなるもの・横浜「貝」」とコンテナヤードの一角に貝と対を成す「遥かなるもの・横浜「花壇」」の石積み花壇が設置されています。貝は縦横6m、重さ15トンのステンレス製で、太古のころこの湾に住んでいたホタテ貝と図案化した富士山、波、小動物から構成されています。(2022.12.15

 

 

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アングル256

三渓園のシンボル旧燈明寺三重塔
三渓園のシンボル旧燈明寺三重塔

~三渓園の三重塔~

 

 横浜市本牧三之谷に国指定名勝「三渓園」があります。古建築を巡りながら四季に応じて移り行く景観を楽しむことができる庭園です。原三渓(1868年(慶応4年)~1939年(昭和14年))は岐阜県出身で義父・原善三郎の生糸産業の跡を継ぎ、生糸貿易で財を成した実業家であり文化人でした。名を富太郎、三渓の号は三之谷に由来するそうです。三渓園の造成は1902年(明治35年)ごろから始められ1922年(大正11年)に内苑が完成しました。17500㎡に10棟の重要文化財の古建築が移築されています。1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されたのを機に財団法人三渓園保勝会が誕生、現在250人ほどのボランティアが来園者への説明、庭の手入れなどに関わって保存活用に協力しています。

   海岸に近い小高い丘の上に三渓園のシンボルとされる重要文化財旧燈明寺三重塔があります。室町時代の1457年(康正3年)に建てられた園内で最も古い建物で、正確で美しい木組みを間近で見ることが出来ます。三重塔を中心に建物が配されているということで、三渓の住まいとして建てられた鶴翔閣、江戸時代建築の臨春閣、春日局ゆかりの楼閣建築である聴秋閣などの室内から美しく眺められるよう建物の配置を工夫して移築されたということです。現在100周年記念として1211日まで紅葉ライトアップ期間中です。(2022.12.01

 

 

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アングル255

「明治の洋風建築旧議事堂」は今も人気の建物
「明治の洋風建築旧議事堂」は今も人気の建物

~新潟県政記念館の八角塔屋~

 

 1882年(明治15年)8月に着工し翌年3月に完成した「新潟県議会旧議事堂」は、銅板段葺きの八角塔屋を中心にシンメトリーの外観でクイーンポストトラスという洋風小屋組みの建物です。建築当初は文明開化の代表的洋風建築として県民のシンボルだったそうです。1932年(昭和7年)県庁内に議場が移されてからは郷土博物館や海軍新潟港湾警備隊、戦後は県庁分館などに使われてきました。1964年(昭和44年)明治の県会議事堂として残る唯一の建物として国重要文化財に指定され、修復工事を終え建設時に近い姿になりました。記念館は建物内を無料で一般公開しており、歴史資料展示、公開講座の開催、議場体験など県民にも観光客にも親しまれていましたが、現時点では耐震工事が行われていて入館できません。

   設計と工事請負を担当したのは新潟市西蒲原郡巻村出身の星野総四郎(18451915)で、少年時代に会津で木工の年季奉公、のち建築家を志しました。1871年(明治4年)以降東京新橋駅、大阪駅などの建築に従事。1877年(明治10年)新潟で建築工事請負業を始めました。県会議事堂設計・監督ののちは信越線・東海道線・山陽線はじめ各地の鉄道関係の橋梁や建造物を手がけました。旧議事堂は現存する唯一の総四郎の作品です。(2022.11.15

 

 

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アングル254

らせん状の水野駅「ビュー福島潟」
らせん状の水野駅「ビュー福島潟」

~水の駅の展望塔「ビュー福島潟」~

 

 新潟市北区と新発田市の間にある「潟湖(海だったところが砂丘で仕切られるなどしてできた湖)」が「福島潟」で、面積262ヘクタール。13本の流入河川と1本の流出河川及び放水路1本で水の状態をコントロールしています。水の駅は福島潟の自然と文化の発信と観光交流を目的とした施設として1997年((平成9年)に湖畔に建てられました。地下1階地上7階、高さ29メートルで3階までは無料で利用できます。4階からの展望塔はガラス張りで、上階へ行くほど広くなるらせん状の造りで、ところどころに映像もあり、福島潟に来る鳥や水中生物やオニバスなどの展示物や景色を楽しみながらゆっくりと進めます。屋上からは小さな島が点在する福島潟を季節によって訪れるさまざまな鳥や景色が一望できます。

 設計者の青木淳は1956年(昭和31年)神奈川県の出身で、東京大学大学院修士課程終了後、磯崎新アトリエに勤務し、1991年(平成3年)に青木淳建築計画事務所を設立した「ポストモダニズムの気質を残しつつ近代思想を継承する建築家」として知られています。

   機能的で訪れる人に優しい感じのする水の駅の展望塔周辺には、ヨシ葺き屋根の休憩交流施設「潟来亭」が建てられ、キャンプ場、自然学習園、オニバス池などいろいろな仕掛けがあり自然の中でいちにち楽しむことができます。(2022.11.01

 

 

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アングル253

小原台に立つ防大の給水塔・時計塔
小原台に立つ防大の給水塔・時計塔

~防衛大学校の時計塔~

 

 横須賀市の走水と馬堀の台地上、小原台の上に立つ防衛大学校は、「将来陸上・海上・航空各自衛隊の幹部自衛官となるべき者の教育訓練、それらに必要な研究を行う防衛省の施設」として1952年(昭和27年)8月1日保安大学校として設置され、翌年4月1日久里浜の水産大学跡(現在の自衛隊使用地)に仮校舎で開校しました。1954年(昭和29年)校名を防衛大学校と改称し、現在の小原台の新校舎に移転したのは翌1955年(昭和30年)。横須賀市街から見える防大のシンボルは高さ50メートルの時計塔として知られる給水塔で、防大設立50年記念に建てられ、上からの落下の研究にも使われているそうです。2000名の学生のうち現在は女子が220名で、110か国からの留学生も共に学んでいます。50年記念時には大講堂、総合情報図書館なども整備され、時計塔の隣のガラス張りの円形の建屋は採光とともに非常口として図書館からの螺旋階段が設置されています。

小原台は明治10年代後半から20年代に陸軍が順次買収し、花立砲台、走水高砲台、小原台堡塁砲台、小原演習砲台が築かれて行きました。もともとは畑で特産の小原大根が栽培されていました。戦後はゴルフ場計画がありましたが、大学ができる前は草ぼうぼうの原で春には土筆摘みができました。(2022.10.15

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アングル252

明治時代に建てられた塔のあるモダンな宿
明治時代に建てられた塔のあるモダンな宿

~塔屋のある宿~

 

 律令制度のとき、流刑は都から遠く離れた配所に送られ、一定期間労役に服するとされていました。律には笞(ち)杖(じょう)徒(ず)流(る)死(し)の5種類の刑罰があり、《流》は罪の重さによって遠流・中流・近流がありました。伊豆の国は安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐と並んで遠流の国で、奈良から平安時代には政争に敗れた貴族たちが流されていたそうです。伊豆の国の蛭ケ島には源頼朝、また修善寺には頼朝の弟範頼、2代将軍頼家が幽閉され、いずれも悲劇的な最期を遂げています。

修善寺温泉は弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説に始まり、共同浴場で木賃宿に自炊という農家の湯治場から始まり、明治初期になると内湯のある宿ができてきます。

   桂川に沿って建つ洋風の塔は湯回廊菊屋の漱石の庵と呼ばれる洋室で、明治時代にはビリヤード場だったそうです。照明器具、ガラス戸など随所にモダンでクラシカルな細工が見られます。昭和天皇が皇孫殿下時代宿泊され、皇族や夏目漱石など文人墨客も訪れています。三島から伊豆長岡まで駿豆線が開通したのは1898年(明治31年)、1924年(大正13年)に修善寺まで延伸しました。菊屋本館は戦時中軍需工場の寮、学習院の疎開先にもなったそうですが、戦後解体され、今営業しているのは解体されずに残った別館です。(2022.10.01

 

 

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アングル251

林に囲まれたハリストス正教会
林に囲まれたハリストス正教会

~修善寺ハリストス正教会聖堂~

 

 修善寺温泉街を流れる桂川にかかるみゆき橋は大規模に改修中で、御幸橋駐車場の整備、新しいトイレや観光案内所もできつつあります。みゆき橋を渡り、ホテル前の緩い坂を上ったところに建つのが《ハリストス正教会聖堂》です。1912年(明治45年)6月2日に落成した建坪37坪、棟の西端は高さ18メートルの鐘塔と尖塔がついた木造漆喰塗りの聖堂で、イコノスタス(聖所と内陣を区切る)の寸法を基準に建てられ、組み立てには当時の赤坂離宮を手がけた大工が携わったということです。当時は洋風建築の設計を知らず、内装は日本建築でまとめられています。信徒と職人の総勢70余人が情熱を傾け、わずか3か月半という驚異的なスピードで落成しています。外観の特徴は軒下についた持ち送りの葡萄飾りです。1985年(昭和60年)静岡県文化財指定されました。

 鎌倉幕府・源氏ゆかりの地で社寺の多い修善寺にキリスト教会があるきっかけは1854年(安政元年)、下田に来航したロシア軍艦ディアナ号が暴風のために破損し、戸田で新しい船を建造することに。周辺を治めていた江川太郎左衛門はロシア人の上陸を承認、キリスト教の布教にも理解を示したとのことでした。大工棟梁のひとりが緒明嘉吉で、息子菊三郎は横須賀の中央図書館の地「緒明山」の持ち主ともなり、今でも緒明山と呼ばれています。(2022.09.15