建築探偵のアングル(バックナンバー71~80)

その80

スギ玉のある自転車屋
スギ玉のある自転車屋

~台東区谷中の建物散歩~


江戸時代の都市計画で、多くの寺が移転してきたことで寺町となった台東区谷中は、根津・千駄木と合わせて谷根千と呼ばれ、観光エリアとして知られています。静かな佇まいの寺や住宅と路地や坂が入り組んだ一角に大きなヒマラヤスギが目印の「みかどパン店」があり、二抱えほどもあるヒマラヤスギをモチーフにしたクッキーがあります。お店は戦前に建てられたお汁粉屋だったそうですが今は売店に。並びにはワシントンDC出身で加山又造に師事したという日本画家アラン・ウエストさんの工房兼展示サロン「繪処アラン・ウエスト」があります。外国人観光客が地図を片手に、静かにお寺巡りをしていました。

台東区立下町風俗資料館付設展示場は、1910年(明治43年)に建てられた旧吉田屋酒店の建物を移築、現在は地域の方々から寄せられた品々が展示されています。

大きなスギ玉のある自転車屋さんも元は酒屋。「酒屋さんが移転したので、借りました。建物を大切に使ってと言われているので私も大事にしています。」しゃれたスポーツサイクルの並ぶ奥に貫禄ある酒屋の板看板が鎮座していて、建物を通して時代が受け継がれていくことを感じました。(2015.08.02)



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その79

龍本時裏坂のブラフ積み
龍本時裏坂のブラフ積み

~ブラフ積みの石垣~

 

 崖の多い横須賀市にはさまざまな石積みのタイプが見られます。関東大震災前か、震災後か、それ以前かそれともごく最近のものか、想像を巡らせて石積みを見て歩くのも横須賀ならではの景観の楽しみ方です。

 フランドル積みともフランス積みとも見えるレンガ積みの方法があります。長手と小口を交互に積むやり方で、一段ごとに長手と小口を並べるイギリス積みと比較した見分け方です。ブラフ積みの石垣も、主に80×25×20センチの房州石を各段に交互に並べたフランス積み方式です。《ブラフ》とは英語で崖を意味し、崖の上に建つ家を横浜山手に住む外国人がそう呼んでいたということですが、1987年(昭和62年)に横浜市教育委員会の「横浜山手―横浜山手洋館群保存対策調査報告書―」にブラフ積みと記述され一般的になったようです。この積み方は主に横浜と横須賀に見られる方法で、幕末から開港地としての横浜、近代工業発祥地とも言える横須賀の洋風文化の一端と言えましょう。横須賀では特に軍施設や関係道路・住宅地に多く、何気ない道にも明治以降軍都として歩んできた歴史が見られます。(2015.07.16)



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その78

市松模様の色ガラスの2階、岸邸
市松模様の色ガラスの2階、岸邸

~厚木の古民家岸邸~


 厚木市指定文化財「旧岸家住宅」は厚木市上荻野、半原行バスの久保バス停近くにあります。1891年(明治24年)5月上棟ということが「本宅上棟式祝儀受納帳」に記されているそうです。瓦葺寄棟造り、木造2階建ての本邸と1886年(明治19年)建築の薬医門と2棟の土蔵が附(つけたり)になっています。古民家というイメージとは違った近代和風の建物で、間取りは伝統的農家の六間取りを基本としていますが、本格的な座敷と洋間がある2階、各地の銘木がふんだんに使われた室内、全部で15室ある部屋のそれぞれの意匠や細工は素晴らしく、色ガラスやステンドグラスも随所に使われていて、在来工法と新しい工法が工夫し取り入れられています。1998年(平成10年)、建物一式が岸重郎平氏から市に寄贈され、修理ののち翌年から無料で公開されています。普段はシルバー人材センターのメンバーがお掃除を、雛飾りや端午の節句の飾りにはボランティアが参加するそうです。半原と厚木には腕の良い宮大工が多くいたということですが、今のところこの建物を建てた大工は分からないそうです。建築当初はゲストハウスだったようですが、住まいとしていた時期もありました。(2015.07.01)



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その77

旧角川邸と庭園
旧角川邸と庭園

~角川庭園・幻戯山房~


杉並区立角川庭園は角川書店の創設者、角川源義氏の旧邸宅を杉並区が遺族から寄贈を受け改修し、2009年(平成21年)5月公園として開園したところです。建物は南側の庭園に面して建てられ、大きなガラス戸越しに明るい陽光と雑木林を思わせるコナラ、エゴノキ、ホウノキなどが芝生の庭を囲むように植えられています。設計は加倉井昭夫、木造2階建瓦葺で、京土壁や面皮柱が使われている近代数寄屋造りです。1955年(昭和30年)の竣工、2009年(平成21年)11月、国登録有形文化財に登録されました。現在はNPO法人が庭木の手入れや建物の管理などを行っており一部邸内も見学できます。

開放的な建物の工夫が柱の位置や敷居にあるようです。雨戸用3本、網戸用1本、ガラス戸用3本、一番内側に障子用3本、10枚の戸がすべて壁内の戸袋に納められるように10本の敷居やレールが付けられています。「建設当時からの薄くて波打つ大きなガラス戸の扱いには神経を使います」とNPOの方の話。

「すぎなみ詩歌館」として有料で各部屋を使えるほか、茶道具も貸し出しています。庭園には四季に応じた花が楽しめます。(2015.06.15



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その76

旧鎌倉図書館
旧鎌倉図書館

~旧鎌倉図書館と万代会館~

 

 リストラ対象となっている鎌倉市の旧図書館に、保存を求める市民の呼び掛けで、急きょ専門家が入り建物調査が行われたことがニュースになりました。御成小学校に隣接した旧図書館は、日本風な瓦屋根に縦長の上げ下げ窓が並んだ和様折衷の外観で、1936年(昭和11年)に間島弟彦の遺産の寄付を受けて建築された建物です。間島は母校の青山学院にも図書館建設のために寄付をしており、現在「間島記念館」として大切にされています。保存・解体いずれにしても建物自体の価値だけではなく、市民が建物にまつわるストーリーを大切に思う気持ち、人材育成の要として図書館建設に寄付した間島の鎌倉を愛した心の継承も大切です。

間島と同じく青山学院の再興に寄与した万代順四郎の没後、福祉と文化のためにと夫人の遺志で寄贈された横須賀市津久井の万代会館もリストラ対象となっています。いずれの建物も市が所有していて市民の財産でもあります。鎌倉市には景観重要建造物が32件ありますが、横須賀市には今のところ1件もありません。トミ夫人の保養のために選ばれた津久井の地は、保養地としての歴史もあり、茅葺で数寄屋風住宅の万代会館は、横須賀の奥深さを語る建物です。(2015.06.01)

 

 

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その75

再び生きる屋根瓦
再び生きる屋根瓦

~形で受け継ぐ心~


建築探偵団の表紙、2014年(平成26年)2月に掲載した「事務所仕様の洋間」のお宅が建て替えられました。建て替え前、洋館部分の空色のフランス瓦が美しく印象的な建物でした。新しいお住まいの玄関先には、旧館の瓦が配されています。妻側先端の役瓦と棟の丸瓦が玄関アプローチを何気なく飾り、出入りの安全を見守っているようです。屋根から落ちる雨水を吸い込む雨落ち石には、フランス瓦が縦に埋め込まれています。住まいと暮らしの歴史を受け継いで、建物に対する優しさを感じる建物になりました。

同じく1月には日の出町の旧肥後邸、現在の愛ランドプラザを紹介しました。昭和初期、埋め立て事業などを行った肥後家の花崗岩の門柱が移築され、愛ランドプラザの入り口近くに建っています。下町の歴史を語る証人としての役割も果たしている門柱です。

建て替えにあたって、残してほしい部分を新しい建物に取り込むのは易しいようで結構大変です。建具や欄間、昔のステンドグラスなどの再活用で、見えないところに家と家族の思い出が受け継がれます。(2015.05.15)



 

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その74

萩反射炉
萩反射炉

~世界遺産を目指す反射炉~

 

 2015年(平成27年)に世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成遺産の一つに、鉄製大砲を造るために鉄を溶かす溶解炉である反射炉があります。現在は、萩市と伊豆の国市韮山の二か所のみに残っていますが、萩の反射炉は1856年(安政3年)に築造された安山岩積み、上部耐火煉瓦積みの試験炉で、実用炉ではなかったそうです。

韮山反射炉
韮山反射炉

韮山の反射炉は1857年(安政4)年に完成し、1864年(元治元年)に使用中止になるまでに大砲数百門を鋳造したということです。品川台場に設置された大砲もここで造られました。韮山反射炉の基礎には松杭、炉体は外側が伊豆石積み、熱を反射させて鉄を溶解するためアーチ積みになっている内部と3段構造の煙突は耐火煉瓦です。レンガ約二万数千個を使用。構造物を補強するために取り付けられている鉄帯は、1868年(明治元年)に煙突部分に設置されてから何回か補強されています。隣接する土産店が移転工事中で、その建物がなくなると反射炉と富士山の二つの世界遺産が同時に見られるようになるそうです。横須賀も1号ドックを始め、文化財的価値のある資産を大切にしてほしいところです。(2015.05.01)

 

 

 

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その73

松下村塾
松下村塾

~萩の歴史を語る建物~


 山口県萩市に兵学者吉田松陰が主催した「松下村塾」があります。建物は木造瓦葺平屋建てで、《小屋》と言う風情の建物です。8畳の講義室と塾生が建てたという10畳半の控えの間、それと小さな土間。1857(安政4年)に建てられ修理をしながら今に伝えられているそうです。因みに県立横須賀高校の初代校長、吉田庫三は松陰の甥で、萩では人気の高い教育者です。松陰の墓の隣に庫三の墓があり、横高の朋友会が建立した「遺勲千載」と書かれた碑があります。

 山口市天花にある「采香亭」は、萩藩の膳部職だった斎藤幸兵衛が1877年(明治10年)ごろに創業した料亭だった建物で、2004(平成16)閉館となったとき、保存活用を願う市民運動が起こり、観光文化交流施設として活用されることになりました。5代目当主斎藤清子さんから解体部材、伊藤博文から安倍首相まで山口出身総理大臣などの扁額、調度品類と共に2億4千万円が市へ寄贈されました。市では移築復元と耐震工事を施し、現在はNPO団体が管理運営にあたっています。歴史を語る建物を生かすことは、地域力や誇りとなり、まちづくりの基本につながると思います。万代会館の保存活用は難しいことでしょうか。(2015.04.15



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その72

旧明倫小学校玄関
旧明倫小学校玄関

~萩の旧明倫小学校本館~

 

 山口県萩市の中心地にある旧明倫小学校は、旧萩藩校「明倫館」跡地に1935(昭和10)10月に建築された小学校です。木造2階建てで4棟からなる堂々とした風格から、教育に対する想いが伝わってきます。フランス瓦の屋根、1階はささらこ下見板張り、2階には白漆喰が使われています。1棟の長さ90.9メートル、高さ10.64メートル、巾は9.56メートルで中廊下を挟んで教室が並んでいます。一時は3000人が在籍したこともあったそうです。建物は山口県で最初の国登録有形文化財となっています。因みにささらこ下見板張りは横須賀市の市立万代会館にも使われている手の込んだ仕上げです。

小学校は昨年4月、同一敷地内の高校跡地に木造2階建てで新築移転し、旧校舎は耐震などの修理をして博物館として利用されるとのこと。国道191号に面した旧明倫小学校の向かいには市役所、消防署がありますが、公共建築は街並み景観を重視し2階建て、木造を主体に建築されているそうです。

萩城下は、松本川と橋本川にはさまれた中州に1604(慶長9年)毛利輝元によって築かれました。かつては水害に悩まされたそうです。(2015.04.01)



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その71

鎌倉らしさのポイントでもある「かいひん荘」
鎌倉らしさのポイントでもある「かいひん荘」

~かいひん荘鎌倉~

 

 鎌倉市由比ヶ浜、江ノ電由比ヶ浜駅から1分ほどの所に建つ純和風割烹旅館かいひん荘は、国登録有形文化財であり、鎌倉市重要景観建築物に指定されている建物です。洋館部分の急勾配の切妻屋根に丸みを帯びた屋根が少し張り出し、全体を柔らかく華やかな印象に感じさせています。石綿スレート葺、一部銅板と鉄板で一文字葺の屋根、外壁はモルタル掻き落とし仕上げ。落ち着いた雰囲気で食事だけでも利用できます。

建物は、1924(大正13)に富士製紙社長の村田一郎氏の住宅として建てられた近代和風を主体とした洋館付き住宅で、洋館部のベイウインドウが外観の特徴、洋館内部は創建当時の姿を伝えています。1952(昭和27)から旅館として営業し、和館部は2回ほど増改築されています。

鎌倉という都市イメージには、社寺は勿論ですが洋館や純和風、洋館付き住宅などの建築物が欠かせません。観光客が行き交うまちなかでも、最近、空き地が目立つようになりました。邸宅跡と思われる広い敷地が、街並みを途切れさせている風景は少しさびしい気がします。(2015.03.15)