建築探偵のアングル

アングル210

一間板の間の刈羽古民家
一間板の間の刈羽古民家

 ~板の間は一間だけの刈羽古民家~

  

 豪農の館≪北方文化博物館≫に移築保存された刈羽古民家は中門造りという農家建築です。東北・北陸地方の雪深い日本海沿岸に江戸時代初期に建てられた建物で、母屋から中門と呼ばれる部分がL字形に突き出している造りです。出入り口の次に厩、一番外側に便所、物置がありました。刈羽古民家は新潟県柏崎市大沢集落に建っていたもので、1953年(昭和28年)、伊藤家七代伊藤文吉が北方文化博物館の一つである新発田市の清水園へ移築・復元、その後1973年(昭和48年)清水園整備にあたり現在地へ再度移築しました。木と縄が主な建築材料で、茅葺、寄棟造の中門、2000年(平成12年)国登録文化財に登録されました。

   江戸時代初期、「奢侈禁止令」が出され贅沢を禁じて倹約を強制されました。各藩は「板の間禁令」の制約をつくりきびしい節約を命じたということです。1軒に一間しか板の間を作れず、その家の家長のみが居間として使いました。そのほかの家族は土間に直接藁を敷き生活したそうで、この建物はその時代を偲ぶ貴重な資料となっています。刈羽古民家は板の間以外は土間で中央に囲炉裏があり、周囲の棚には農具などが展示してあります。竪穴住居のような印象で驚きました。藁を直接土間に敷くと温かいということも聞きますが雪深い地域での生活を想像することは少し難しかったです。(2020.01.01

 

 

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アングル209

北方博物館本邸
北方博物館本邸

~豪農の館「北方文化博物館」が伝えること~

 

 「古い家のない町は 想い出の無い人間と 同じである 東山魁夷」。新潟市南区沢海にある財団法人≪北方文化博物館≫の庭に建てられている「ラルフ・ライト 七代伊藤文吉 記念碑」の説明文の最後に刻まれた画家東山魁夷の気持ちです。豪農として知られる伊藤家は江戸時代から富を重ね、昭和期には新潟県下一の田畑を所有するようになりましたが、戦後の農地解放により土地は伊藤家から離れることになりました。1945年(昭和20年)10月には伊藤家土蔵に日本軍の隠匿物資があるという情報で、進駐軍のライト中尉が家宅捜査に来ました。当時の七代当主伊藤文吉はペンシルバニア大学の卒業生でライト中尉の先輩であることがわかると、文化・教育に理解のあった中尉はマッカーサー元帥に「この遺構は価値ある文化財」と進言。それがきっかけともなり、戦後初の私立博物館の1号となることができました。二人の肖像入り記念碑は1988年(昭和63年)、当時の館長8代伊藤文吉により建てられました。敷地内の建物は2000年(平成12年)4月国の登録文化財に登録されました。

   伊藤家の本邸は1882年(明治15年)から8年がかりで建築された建坪1200坪、部屋数65という準日本式建築。畳や建具も三角形やひし形という三楽亭茶室も見どころ。贅を尽くし、工夫を凝らした建物と四季折々の庭園は主要観光施設として大勢の人が訪れています。(2020.12.15

 

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アングル208

大きな窓の検査室は明るい
大きな窓の検査室は明るい

~建物保存に市民の力「旧細菌検査室」~

 

 黄熱病の研究で知られる野口英世が使用した旧細菌検査室は能見台駅から坂を越えて15分ぐらいのところの長浜野口記念公園内にあります。1879年(明治12年)コレラ対策のために横須賀市長浦に設置された長浦消毒所から1895年(明治28年)に現在地に新築移転し横濱検疫所と名称変更されましたが関東大震災で倒壊、建物は翌年復旧しました。1952年(昭和27年)、中区に新庁舎が完成し業務が移転。その後利用が減り建物が老朽化してきたとき、市民の間から保存の声が上がり保存の署名や陳情活動が行われ、それがきっかけとなり1980年(昭和55年)に市民ボランティア、多くの関係団体や市民の協力により「野口英世博士ゆかりの細菌検査室保存をすすめる横浜市民有志の会」が発足しました。平成7年度から8年度には建物が本格改修され1997年(平成9年)から一般公開され無料で見学できます。検査室は天井板をつけず、太い梁が高く空間が広く清潔で明るい室内のほか動物実験室、準備室と当時の器具などを見ることができます。現在は指定管理者横浜メディアアド・相鉄・神奈川共立共同事業体が管理運営しています。

   一時は施設適正化計画で取り壊し対象となった横須賀市の万代会館も、市民や専門家からの働きかけがあり保存され、市の重要文化財となりました。今後の活用が期待されます。(2020.12.01

 

 

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アングル207

江ノ島名物≪のり羊羹≫玉屋
江ノ島名物≪のり羊羹≫玉屋

~昭和初期のモダンな店舗玉屋本店~

  

 江ノ電片瀬江ノ島駅から江ノ島への参詣道、洲鼻通りは観光地の華やかな雰囲気のある商店街です。その一角にあるのが2020年(令和2年)4月3日、国登録文化財に登録された老舗羊羹店の「玉屋本店」です。1935年(昭和10年)建築の木造2階建て入母屋の出桁造り、現在屋根は銅板葺きですが建築当初は桟瓦葺きだったそうです。正面は間口4間半で柱がなく、ガラス戸10枚の全面開放、軒欄間にはステンドグラスが使われ、昭和モダンが取り入れられています。店内には当時の特注彫刻入りの大きなショーケース、商家に見られる大阪格子の引き戸が老舗の貫禄を伝えます。玉屋の創業は1912年(明治45年)、初代は高砂部屋の力士「伊吹山」で、引退後羊羹作りを修業し、観光地片瀬に開業したそうです。参詣道としてにぎやかな洲鼻通りにもコロナの影響か、何十年も続いた飲食店や旅館があわただしく閉店した様子が何軒も見受けられました。

 藤沢市の登録文化財建物は2001年(平成13年)に登録された江ノ島の岩本楼ローマ風呂が最初で現在16か所34件。横須賀市では逸見浄水場建屋など水道施設のほかは民間の上町教会のみです。歴史的建物は地域の個性を知るきっかけにもなります。地域資源としても活用が期待される文化財建物が横須賀にもたくさんあるのではないでしょうか。(2020.11.15

 

 

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アングル206

見どころいっぱいの小田急片瀬江ノ島駅
見どころいっぱいの小田急片瀬江ノ島駅

 ~龍宮感満載で楽しい駅に~

  

 アングル1392018年1月15日)で、オリンピックセーリング会場となる江の島の入り口であり名所でもある小田急片瀬江ノ島駅が周辺の整備に合わせて建て替え計画があると掲載しました。改良工事が完了し、社寺の楼門の造り方の一種である「龍宮造り」を採用した駅舎が新たな迫力で登場し、今年(2020年)7月30日お披露目式が行われました。

 約90年間、江の島の玄関として親しまれてきた駅舎の改修計画には、地元以外からも多くの意見が寄せられ、従来のイメージを踏襲しつつグレードアップした駅舎に、という方針で設計が進められたということです。新しくなった駅舎には「新江ノ島水族館」監修の「クラゲ水槽」が設置され、屋根の上には金色に輝く龍とイルカ像、窓ガラスに天女像、コンコース天井は神奈川県産のスギ、ヒノキが使われ、15mの龍の彫刻が施されています。

   旧駅舎改修にあたりお別れ会が行われ、近隣の中学校ブラスバンドの演奏、地元の皆さんのメッセージ掲示、また地元の要望で改札位置の見直しを行うなど地域と密着して計画が進められ、完成時には地域の方を対象に「新駅舎見学会」も行われました。龍宮駅舎はオリンピック後も観光駅舎として親しまれることでしょう。

   まちづくりには地域の声を受け止め生かすことが大切と感じました。(2020.11.01

 

 

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アングル205

会期中300人以上訪れた写真展
会期中300人以上訪れた写真展

~まちの記憶を記録する~

  

 写真展「建築探偵団アーカイブ・あれから」を9月30日から1010日まで市民活動サポートセンターで開催しました。掲載した写真は2009年(平成21年)に上町のスペース三季で展示したもので、今回はそれらの建物の現在の様子を写し、対比して見ていただきました。約10年の間に建物とまちの様子がどのように変化したでしょうか。展示した建物写真は昭和初期、関東大震災後に建てられたものが多く、職人さんの技と建て主さんのこだわり、そして建物に対する愛情が感じられ、それぞれが地域のランドマークになっていました。中でも汐入の新井閣には懐かしさを感じる方が多く、結婚式を挙げた、同窓会で訪れた、田舎の両親と会食した、EMクラブとの対比が印象的だったなどの感想が寄せられました。

   建物は建築時期のまちの様子とその当時の暮らしを伝えるものです。さらに震災後から戦前、横須賀を語る証としての役割も担っていたと思います。

   残念ながら多くの建物は取り壊されて駐車場になりました。古い建物、思い出の風景、写真から懐かしさを感じるときは優しい気持ちになるので、昔の建物はいつまでも生きて語りかけているように感じます。市内に残る横須賀を語る建物は身近にあります。街歩きをしながらまちの成り立ちを感じて建物をウオッチングするのも楽しいと思います。(2020.10.15

 

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アングル204

下水処理場内のレンガ遺構
下水処理場内のレンガ遺構

~レンガ造の水路の橋~

 

 三春町の下水処理場庭園内に馬蹄形のレンガ遺構が展示されています。人がくぐり抜けられる大きさの堅固なアーチ型です。説明板には「馬蹄形渠の由来」として「この馬蹄形渠は横須賀市安浦町2丁目21番地先、国道16号線(安浦町2丁目交差点)に存在していたものが、道路工事の際に発見され、その一部を復元したものです。192123年(大正1012年)にかけての安浦埋め立ての際、水路を横断する道路の橋として造られたものと思われるレンガ造で、当時は二の橋と呼ばれていました。一の橋は安浦3丁目7番地、国道16号線(安浦3丁目交差点)にありました。安浦町は1923年(大正12年)8月21日公郷町地先公有水面の埋め立てによって誕生しました。町名の由来は、「安」は埋め立ての経営にあたった安田保善社の「安」と、入江の意味の「浦」の1文字ずつから付けられました。」と記されています。安浦2丁目交差点は聖徳寺坂から16号線と交差したところです。現在京急のガードが横切っていますが聖徳時坂下あたりには市民文化資産の「田戸の赤門」、その向かい側には初代の「小松」があった白砂青松の地でした。赤門に沿って浦賀道があり、その海側が埋め立てられたのでした。浦賀道の石の道標が今も赤門角に立っています。波の荒い日には赤門の庭を通らせてもらったということでした。(2020.10.01

 

 

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アングル203

水道みちを歩きヴェルニーの水へ行くにも(横断)歩道が必要
水道みちを歩きヴェルニーの水へ行くにも(横断)歩道が必要

~走水水道トンネル~

  

 横須賀の水道は横須賀製鉄所が始まりです。製鉄所開設当初は構内の湿ケ谷の湧き水を使用、不足してきたため、1871年(明治4年)には長源寺前の府当ケ谷のため池からも引き込んでいました。造船所が整備されるにしたがって機械製作などが本格化してくるとさらに水不足が深刻になってきました。首長ヴェルニーはより広い地域から水源を求めて調査を行い走水に豊富で良質な湧き水を発見、造船所までの約7㎞に水道を引く計画を立てました。造船所の建築課長ジュエットが工事を担当、高低差約10mを利用した自然流下式で1876年(明治9年)12月に完成しました。その時4か所にトンネルが掘られましたがその1か所が今も残る走水隧道です。当初は幅約1m、高さ約1.5m、長さ約320mの素掘りで、途中に明り取りの丸窓がある1本のトンネルでした。その後東京湾要塞として観音崎地区の重要性が増し、車馬の交通路ともなり、1883年(明治16年)、軍により今の規模に拡張されました。レンガ、ブラフ積みの擁壁など当時の技術や素材を今に伝えています。トンネル内は歩道があり上りの車道としても使われる県道209号です。馬堀方面から歩いてくると第2隧道を出ると国道16号に合流し、歩道は消え、国道の横断歩道もありません。歴史をたどるルートにもう少し気配りが欲しいところです。せめて横断歩道を。(2020.09.15

 

 

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アングル202

鳥海病院
鳥海病院

~まちの歴史を語る医院建築~

 

 軍事歴史遺産の多く残る追浜地域の中で、駅前商店街の一角に存在感のある鳥海病院があります。右側の門柱には「鳥海病院」左側には「電話田浦三〇三三番」と記された表札がついています。《追浜ふるさと写真集》の年表には1920年(大正9年)5月鳥海病院榎戸に開院とあります。田浦町が横須賀市に合併したのが1933年(昭和8年)4月、翌5月に鳥海病院は現在地である当時浦郷1241番地に新築移転しています。昭和初期の佇まいを今に伝えるモダンな医院建築で、玄関前の築山の先に大きな上げ下げ窓が明るく清潔な印象が感じられる下見板張りの病院、追浜を代表する近代建築と言えましょう。

 昭和初期の医院建築には清潔でモダンな洋風のデザインが多く取り入れられ、地域のシンボルともなっていましたが、近年、県立大学駅前の佐野医院、上町の船津眼科医院、小松原医院など建て替えなどで姿を消しました。ヨゼフ病院も同様です。

   追浜駅周辺は慢性的交通渋滞やバス、タクシー乗り場と追浜駅との乗り換えなどのわかりにくさの解消が課題です。国道357の開通により交通量・通過交通車両も増えると思われます。ベイスターズの練習拠点、横須賀スタジアムなどスポーツを活かすなど横須賀の玄関としても期待されますが住む人が良かったと思えるまちづくりが肝心です。(2020.09.01

 

 

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アングル201

黄色の板で塞がれた平坂上の上町1丁目交番
黄色の板で塞がれた平坂上の上町1丁目交番

~横須賀のKOBAN~

 

 最近街なかの交番が閉じられ、窓や扉が黄色の板でふさがれているところを見かけます。写真の交番は上町1丁目交番で、平坂上から中里通りへの三差路にあり信号表示も「上町1丁目交番前」となっています。交番は以前「派出所」と呼ばれていましたが、今では「KOBAN」は世界に通じる呼び名のようです。横須賀の交番はかつて軍の施設へ通じる道の傍につくられることが多かったようでした。1丁目の交番もはじめは浦賀道の現田近内科医院横、司令部通りと言われた現在のうわまち病院へのみちが見通せる要衝にありました。

 横須賀警察署の起源は横須賀造船所建設に伴い横須賀陣屋が設けられたときとされていますが、近代警察としては1877年(明治10年)2月に元町(現本町1丁目)に設置され、その後1908年(明治41年)に若松町の現児童図書館のところに移転、更に1929年(昭和4年)市役所前の小川町へ。2015年(平成27年)6月に新港町へ移転し、跡地利用が議論されましたがマンションが建ちました。現在、横須賀警察の管内にある交番は、武山・中央駅前・本町・逸見駅前・坂本・安浦・三春町3丁目・上町3丁目・衣笠駅前・池上・森崎・公郷町・武の13か所です。駐在所は吉倉・芦名・秋谷・大木根・屋形の5か所。市内には横須賀警察署・田浦警察署・浦賀警察署の管内があります。パトカーがきめ細かく巡回しているそうです。(2020.08.15