建築探偵のアングル(バックナンバー51~60)

その60

まちおこしに活用されている高麗郷古民家
まちおこしに活用されている高麗郷古民家

~ヒガンバナの里の古民家~ 

 

   ヒガンバナの群生地として知られる埼玉県日高市の巾着田は、高麗川が蛇行した形が巾着の形に似ているところから「巾着田」と呼ばれるようになったそうです。河川の増水などにより流れてきたヒガンバナの球根が根付き、今では500万本と言われるヒガンバナの名所として知られるようになりました。 

   巾着田入り口から県道を挟んだ高台に、「高麗の里古民家」があります。築150年以上の母屋を中心に、1906年(明治39年)築の起り破風に式台構えのある客殿、納屋、土蔵2棟、石垣が2014年(平成26年)4月、国登録有形文化財に登録されています。この屋敷は、江戸時代に高麗本郷村の名主を務め、明治維新後は戸長、村長として地域の政治を担ってきた新井家の住宅でした。現在は日高市が買収し、産業振興課が文化施設として管理し利用料を取って貸出しています。運営には古民家サポーターズクラブがあたり毎月様々なイべントを催し、郷土文化の伝承と発展、まちの活性化のために活用しています。ヒガンバナのシーズンは無料公開し見学できます。各地で歴史や文化を伝える建造物がまちおこしに活躍しています。横須賀では津久井の万代会館の活用が期待されます。 (2014.10.01)

 
 
 

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その59

うだつの家
うだつの家

~妻入り卯立のある家~

 

 「卯立(うだつ)」は、隣家との境に取り付けられた小さな防火壁として知られていますが、江戸時代中ごろからは装飾的な要素も加わり、自己の財力を誇示するような見栄えも重要な役割となってきました。「卯立が上がる」とか「卯立が上がらない」と言った語源にもなっています。 福井県越前市に越前和紙の里があります。コウゾのみを原料とした越前和紙は、布のように柔らかくて丈夫です。和紙の里には体験館や博物館のほか、伝統的紙漉き道具を再現し、工程にしたがって伝統技術を伝える「卯立の工芸館」があります。この建物は紙漉きを生業としていた定友町の西野平右衛門家を19967年(平成89年)に移築・改修したものです。商家に見られる平入り卯立ではなく、玄関正面に大きな卯立を上げた「妻入り卯立」のある独特な造りで、紙漉き家の誇りと風格を感じさせます。玄関を入ると作業用土間、囲炉裏のある板の間、一段上がって四間四方の四つ目拵えの座敷、二階には材料置き場も備えた立派な造りで、創建は1748年(寛延元年)とのことです。紙漉き作業は7日間のうち6日間は材料の下ごしらえという根気のいる作業です。(2014.09.15)

 

 

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その58

犬吠埼灯台 手前は霧笛舎、屋根の上に大きなラッパ
犬吠埼灯台 手前は霧笛舎、屋根の上に大きなラッパ

~レンガ造の犬吠埼灯台~ 

 

   黒潮と親潮がぶつかり合い、利根川の真水が合流し霧が発生しやすい房総半島の突端にあるのが犬吠埼灯台です。イギリス人技師ブラントンの設計・監督で1872年(明治5年)着工、1874年11月完成、点灯されました。旧藩士が製造した国産レンガ19万3000枚が使われ、九十九里浜に因んで99段の螺旋階段があり、のぼることが出来ます。地上から光まで27メートル、光達距離35キロ。2008年(平成20年)まで咽ぶ響きを送っていた霧笛信号所(霧笛舎)は、八幡製鉄所で造られた鉄製で、大変貴重な建物です。入り口近くまで車で来られるので観光客にも人気です。因みに、のぼれる灯台は全国に15基あります。犬吠の地名は源義経が頼朝から逃れて船で奥州に向かう途中、愛犬犬若に平家の亡霊が憑いているとの進言で、犬若をこの地に残し船出。犬若は岩と化すまで吠え続けたという伝説によるとのこと。 

 横須賀製鉄所首長ヴェルニーによって建設された観音埼灯台(現在は3代目)には、製鉄所で焼かれた65000枚のレンガが使われました。今では旧官舎を資料展示室に、3本のラッパのある霧笛、歌碑などが敷地内に展示されています。 (2014.09.03)

 

 

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その57

焼け残った旧河合玉堂邸の門
焼け残った旧河合玉堂邸の門

~焼けた川合玉堂別邸~ 

 

   京急富岡駅近くに日本画家の川合玉堂別邸・二松庵があります。玉堂邸についてはアングル24に掲載しましたが、2013年(平成25年)、原因不明の出火により本邸が焼失してしまいました。文化勲章受章者である玉堂の茅葺数寄屋風建物は、富岡の別荘建築を伝える横浜市指定文化財で、耐震工事や茅屋根修理などが具体化されようとしていた矢先でした。現在は立ち入り禁止で離れた所から茅葺の門と背後の林が望めるのみです。台風8号の翌日行ってみましたら、金沢区の担当者が見回りに来ていました。今後のことはこれから検討が始まる段階なので何も決まっていないとのことでした。 

   近年、藤沢のモーガン邸、大磯の吉田茂邸などが焼失しています。その後の対応はそれぞれですが、吉田邸は大磯町が本邸再建に向けて取り組んでおり、モーガン邸はNPO法人旧モーガン邸を守る会が再建を願ってイヴェントや草取りなどの活動を行っています。玉堂邸もNPO旧川合玉堂別邸及び園庭緑地運営委員会が中心となり草取りなどを行っているそうです。一つの建物が多くの人の繋がりと活動を生み育んでいるということは共通しているようです。 (2014.08.15)

 

 

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その56

足場が組まれている上町教会
足場が組まれている上町教会

~上町教会のペンキ塗り~

 

横須賀上町教会(上町243)が会堂部分の外壁塗装工事をしています。めぐみ幼稚園の園舎でもあるので夏休み中に仕上げる計画です。現在の教会建物は、1931年(昭和6年)に建築され、2003年(平成15年)3月国登録有形文化財に登録されました。今のところ横須賀市内の民間建物では唯一の登録文化財です。

建築資金は、当時日本福音教会の総理だったメ―ヤ―宣教師を中心にアメリカ福音教会からの援助を得て集められ、資材はカナダから運ばれたと伝えられています。ヴォーリズの弟子、横田末吉の設計による会堂は、建築当時の姿を今に伝えています。しかし、築後83年を経て、さすがの建物も老朽化してきました。下見板張りの古いペンキ剥がしも、職人さんがいろいろな方法を試し、出来る限りの手を尽くして現状維持に努力してくれていますが、難しそうです。窓枠から雨漏りする、漆喰が膨らんでいる、もろけた木部があちこちにある、風、日光など日ごろのリスクが積み重なるなど次々に問題点が出てきました。補修費用も増えます。うわまち教会建物応援団は、文化財である教会建築が、少しでも長くよい状態を保てるよう、応援しています。(2014.08.01)

 

 

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その55

交流拠点の三菱館
交流拠点の三菱館

~伝建地区の洋館~

 

 千葉県佐原市の小野川沿いの街並みは、かつて「江戸まさリ」と言われたほど船運で栄えたところです。江戸から明治・大正時代に建てられた商家建築などが今も多く残っており、56歳から日本全国を歩いて日本初の実測図をつくり上げた伊能忠敬の旧宅や資料館もあります。伝統的な町並みにひときわ目立つ赤レンガの建物が三菱館(旧三菱銀行佐原支店)です。1914年(大正3年)清水満之助商店(現在の清水組)の設計・施工で建築されたルネサンス様式のレンガ造で、明治の洋風建築の様式を受け継いだ2階建です。レンガはイギリスから輸入、窓や出入り口は上部巻揚げ式鎧戸、存在感を示すドームが印象的です。

 三菱館は三菱銀行佐原支店として営業していましたが、1989年(平成元年)新店舗完成で移転、建物は佐原市に寄贈されました。現在は街並み交流館として観光案内所と市民交流の場となっていますが、東日本大震災の影響から、立ち入れない個所もあります。1991年(平成3年)千葉県有形文化財指定、1996年(平成8年)に小野川・香取街道沿いの街並みが重要伝統的建造物群保存地区に選定され、観光客で賑わっています。 (2014.07.15)

 

 

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その54

和風建築の旧小川郵便局
和風建築の旧小川郵便局

~ ふるさとを受け継ぐ~

 

   西武新宿線小平駅から5分ほどの所にアジサイ公園があります。ボランティアの皆さんが丹精込めた1000株ほどの花が咲いています。公園入口に「小平市民憲章」と「小平老人憲章」が掲示されています。江戸時代、玉川上水からの分水を得て開拓した先人の、たくましい開拓精神を受け継ぎ、新たな市民と共に子どもも老人も助け合い、生きがいのある住みよいまちを築くと言う趣旨の憲章です。小平駅から花小金井駅まで、自転車と歩行者専用道路小平グリーンロードが桜並木の中に一直線に走っており、中間地点に「小平ふるさと村」があります。変わりゆくふる里の姿を後世に伝えるために、1993年(平成5年)開村し、開拓期から近代までの建物5棟を文化遺産として移築保存、民俗行事なども含めて無料公開しています。市指定有形文化財1号の旧小平小川郵便局は1908年(明治41年)建築で、鬼板には郵便局のマークが誇らしく刻まれています。ふるさとを形として受け継ぎ、これからのまちづくりに生かし、みんなで取り組んでいこうとする気持ちが伝わってきました。横須賀も、文化を大切にし、《住んで良かったまち》としての魅力を、次の世代に伝えていきたいものです。 (2014.07.01)

 

 

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その53

日本庭園に映える旧東京医学校
日本庭園に映える旧東京医学校

~建築ミュージアムとして再生した旧東京医学校~

 

   小石川植物園に隣接する東京大学の建築ミュージアムは、東大の現存最古の学校教育施設で、1876年(明治9年)、本郷に東京医学校本館として建設された洋風、唐風、和風の要素を持つ擬洋風木造建築です。1911年(明治44年)に建物の前半分が赤門脇に移築された際、塔屋などが改修されほぼ現在の形になりました。1969年(昭和44年)に現在地に移築、1970年(昭和45年)に国指定重要文化財となりました。2001年(平成13年)から東京大学総合研究博物館小石川分館として一般公開されています。小屋組みを見せるなど建物そのものが展示物であると同時に、医学部時代の鋼鉄製展示ケースに収められた世界の有名建築の縮体模型などを見ることが出来ます。唐風ベランダからは、隣接する徳川幕府の小石川薬園だった小石川植物園を見渡せますが、建物全体は植物園内からでないと見られません。

   横須賀では神奈川歯科大に歯科の歴史や、この地にあった海軍機関学校の英語教師だった、芥川龍之介の資料などを展示する資料室が、昨年設けられました。見学には問い合わせが必要です。6月には、校内に薄紫の羽を広げたようなジャカランタの花が満開を迎えます。 (2014.06.15)

 

 

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その52

養蚕も行っていた旧加藤家住宅
養蚕も行っていた旧加藤家住宅

~世田谷の昔を伝える~

 

   世田谷区立次大夫堀公園民家園には、江戸時代後期から明治時代初期にかけての世田谷の農村風景が再現されています。このころは農業の傍ら養蚕が盛んに行われていたということで、養蚕のための工夫がされている家、農業のほかに酒屋を営んでいた家、名主の家、土蔵、長屋門、消防小屋などが移築され、ほとんどが区指定有形文化財になっています。現在、1988年(昭和63年)の開園後、初めての本格的補修が行われており、茅葺屋根は群馬県川場村の茅を使用、屋根職人さんも川場村から数カ月泊りがけで来るそうです。建物や庭は季節の行事やボランティア活動の拠点としても親しまれています。

   次大夫掘は徳川家康が関東入府のとき、多摩川流域の開発を任された普請奉行小泉次大夫が、多摩川から東京側と川崎側に灌漑用水を開削、15年の歳月を経て1611年(慶長16年)東京側に六郷用水、川崎側に二ヶ領用水を完成、世田谷領内では次大夫掘と呼ばれ今にその名を伝えています。

 大きな川のない三浦半島には、用水路ではなく各地に農業用ため池が造られました。横須賀では虫山池、沢山池、山田堰などが今でも知られています。 (2014.06.01)

 

 

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その51

今ある屋内スケート場としては最も古い神奈川スケートリンク
今ある屋内スケート場としては最も古い神奈川スケートリンク

~神奈川スケートリンク建て直しへ~

 

   横浜市神奈川区の反町公園に隣接した「神奈川スケートリンク」が老朽化のため、国際規格のリンクに建て直されることになりました。この施設は、1949年(昭和24年)、横浜貿易博覧会の演芸館の建物として茨城県阿見町にあった旧海軍土浦飛行場の航空機用格納庫を移築したもので、博覧会終了後に体育館に改造、第4回国体の体操会場として使われ、その後1951年(昭和26年)から体育館とスケートリンクになりました。体育館は米軍から払い下げのかまぼこ兵舎を利用、全面スケートリンクになったのは1959年(昭和34年)のことです。ソチ五輪の金メダリスト羽生結弦選手が仙台から避難し、一時練習したリンクでもあります。

  横須賀でも1959年(昭和34年)12月に、横須賀魚市場倉庫跡地に冷凍設備を利用してスケート場が出来ました。現在の大滝町1丁目、マンション「ジュネス横須賀」のところです。このころはこの近くまで海が入り込んでいて船溜まりになっており、木造の三笠橋が架かっていました。当時の面影を伝える三笠橋記念碑がサイカヤパーキング前に建っています。

 昭和30~40年代はスケート場が賑わいました。(2014.05.15)

 

 

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