建築探偵のアングル

アングル240

砂浜の向こうに猿島。楽しそうな子ども達
砂浜の向こうに猿島。楽しそうな子ども達

~うみかぜ公園の潮だまり~

 

 平成町のうみかぜ公園は1996年(平成8年)に誕生しました。2年後の平成10年度の「都市景観大賞小空間部門賞」を受賞。今では市内外から訪れる大勢の人で賑わっています。特に東京オリンピックでスケートボードが金メダルに輝くなど日本の活躍で盛り上がったこともあり、スケートボードエリアは大人気です。小さな子ども達もヘルメットに膝あてを付けてバランスよく滑っています。過去の台風で傷んだ護岸の修復も終わり、親水護岸の端の潮だまりのスペースがリニューアルされました。潮が満ちているときは潮だまりに、引き潮の時は砂浜になります。横須賀の東海岸は走水まで海で遊ぶところがなくなり「眺める」と「釣る」でしたが、この小さな浜辺で子ども達が海の生き物を探したり水に入ったり楽しそうです。整備中は重機が石を持ち上げて積み上げ、潜水士が海中で整える作業をしていました。小さな水辺ですがこの砂浜は貴重です。

 オフロード自転車では将来のオリンピック選手が育っているという話もあります。壁打ちテニス、バスケットコート、芝生広場、釣り場となっている岸壁の柵には危険防止用にネットが張られました。広場に展示されている第三海堡兵舎も横須賀ならではの土木遺産。

   写真の正面は猿島。美しい風景と何でもない日常を楽しめるのも平和であってこそ。(2022.04.01

 

 

**********

アングル239

解体を待つ右手和館と増築の2階建て。   暮らしの記憶を伝える家
解体を待つ右手和館と増築の2階建て。   暮らしの記憶を伝える家

~建物と別れるとき~

 

 「古い家のない町は想い出の無い人間と同じである」と刻まれた東山魁夷の碑のあるのは新潟の北方文化博物館です。文化財的価値のある建物でなくても、誰でもが生まれ育った家で、祖父母や両親、自分とともに歳を重ねた家との想い出、その都度必要で改築や増築をした事情、隣近所との付き合い、それらが詰まった家も、あるとき決断して別れる時が来ることがあります。今年の5月に解体予定のお宅を訪れました。1933年(昭和8年)に建てられた住宅で、建築当初は玄関を入ると取次の間2畳、4畳半の茶の間、6畳には仏壇と押入れ、板欄間と襖で仕切られた床の間と押入れのある8畳の座敷、日当たりのよい二部屋を腰板付きのガラス戸が3尺のまわり廊下でL字型に囲みます。天井高は9尺と高く黒く光る砂壁も健在。カマドがあった土間、風呂は近くの銭湯へ。2階部分も含め増築は2度行われていました。跡を継ぐ人たちが独立してからは空き家となっていたそうです。

2018年(平成30年)の横須賀市内の住宅調査では、住宅総数194330戸、そのうち28750戸が空き家で、空き家になる理由は・相続人が利用しない・単身高齢者が施設などに入る・地形的に階段上部で不動産業者が敬遠するなどがあるそうです。惜しまれながら役割を終え、思い出を残してくれた家に感謝の気持ちを伝え、別れるときを迎えます。(2022.03.15

 

 

 

**********

アングル238

ここから始まった横須賀への水の旅
ここから始まった横須賀への水の旅

~半原水源地の取水口~

 

 横須賀水道半原系統は、2007年(平成19年)休止ののち10年を経て廃止となり、水源地跡地は愛川町へ譲渡されました。水道みち歩きでも人気の「海軍水道半原系統」は1912年(明治45年)着工、1921年(大正10年)に完成し、戦後は市民の水道としておいしい水を届けてくれていました。相模川の支流中津川の右岸の山すそをくり抜いて取水口が設けられ、レンガ造りの導水管で4つの沈殿池のある水源地へ。それから横須賀市逸見の浄水場へ原水が送られていました。写真は2021年(平成3年)1225日に撮影した取水口の現在の様子です。取水口の上には機械室があり、バルブで取水の量などを調整していました。ごみが取り込まれないように取水口に取り付けられた鉄の柵がうっそうとした木の間に見えます。この辺りはかつて風光明媚な渓谷で県内の景勝地として知られ「半原渓谷石小屋」の碑が建てられています。近年、宮ケ瀬ダムの副ダムとして「石小屋ダム」が設けられ、川に沿った遊歩道の一角に石で組み立てられた石小屋のようなオブジェが置かれています。  

 横須賀水道の歴史を伝える半原系統は、標高130mの取水口から標高60mの逸見浄水場まで500㎜の鋳鉄管で53㎞を12か所のトンネル、約500mの相模川水管橋をはじめ大小10余りの橋梁を一昼夜かけて原水が送られていました。すべてが生きた近代化遺産でした。(2022.03.01

 

 

**********

アングル237

サシガヤで補修されている万代会館梅の間
サシガヤで補修されている万代会館梅の間

~万代会館を伝える~

 

 2月1213日に市民活動センターで「のたろんフェア」が開催されました。事前PR イベントとして2月5日にリドレ横須賀前でダンスと演奏の発表もありました。今年は全体での参加団体は79団体。建築探偵団は初参加で、津久井の横須賀市重要文化財に指定された「市立万代会館」を広く知っていただく目的の展示を行いました。多くの方に足を止めていただき、横須賀に残る茅葺の民家のこと、そこに暮らした万代順四郎・トミ夫妻のことを興味深く見ていただき、お話もさせていただき参加の目的を果たすことができました。

    万代会館は津久井浜駅から5分ほどのところに建つ4棟の茅葺の民家で、雁行といわれる配置で南に面した各室が陽光と海からの風を取り込む心地よい配置になっています。1936年(昭和11年)にトミ夫人の療養のために順四郎が購入した際、二部屋を増築、その後兄の療養のためにもう1棟を増築していますが、数寄屋風の室内、趣のある茅屋根の連続、広い庭園が心落ち着かせる場所となっています。現在は耐震化に向けて作業中とのことで室内には入れませんが庭園から建物内を見学すること、庭園を活用することは可能です。開館時間は火、土、日の各10時から3時まで、管理員さんに声をかければ無料で見学できます。現在は奥の梅の間の屋根にサシガヤ作業が行われています。(2022.02.15

 

 

**********

アングル236

診療所付き住宅の3階建てトクダ眼科医院
診療所付き住宅の3階建てトクダ眼科医院

~横須賀の医療~

 

 横須賀では戦前、軍に関係した病院が陸軍病院、海軍病院、横須賀海軍職工共済会病院、海仁会病院がありましたが一般市民は診療できませんでした。市民は私立病院や個人医院、開業医が診療にあたりました。内科・外科や産婦人科など入院設備のある医院も多くありました。陸軍病院は現在のはまゆう公園のところにあり陸軍衛戍病院として陸軍軍人の治療にあたり、戦後は東京湾要塞司令部跡地の中里分院とあわせて外地からの引揚者を治療、その後国立横須賀病院となり一般の診療にあたるようになりました。現在の市立うわまち病院です。海軍病院は現在の市立文化会館のところにありましたが関東大震災で焼失、現在の米軍基地内に移転、跡地には市立横須賀病院が建ちましたが、その後も火災にあい武山に市民病院として移転しました。海軍病院の野比分院は国立療養所久里浜病院になっています。海仁会病院は近頃新館が建てられた聖ヨゼフ病院です。

    軍医を退役後、開業した専門医も多く、汐入の「トクダ眼科医院」の先代も海軍の眼科軍医で退役後開業、戦後この地に移転、二代目の現院長が1974年(昭和49年)に現在の住宅付き診療所を建設。「軍医はいつでもどんな時でもすぐ治療にあたるので、開業後もその精神でした。新築にあたっては明るく広い待合室と目の届く診療室を実現しました」と徳田耕司院長。(2022.02.01

 

 

**********

アングル235

復元された山本五十六が生まれた高野家
復元された山本五十六が生まれた高野家

~山本五十六の生家~

 

 長岡市坂之上町にある山本記念公園は連合艦隊司令長官だった山本五十六ゆかりの公園です。五十六は儒官と槍術師範役を務めた旧長岡藩士高野貞吉の6男として1884年(明治17年)この場所で誕生しました。当時の家は1945年(昭和20年)の長岡大空襲で焼失、1956年(昭和31年)7月に跡地を高野家が市に寄贈したことで記念公園として整備、建物と胸像を復元しました。五十六の勉強部屋は玄関の上、引き違い窓の下にあり、文机のある天井の低い2階です。海軍兵学校を出て1916年(大正5年)、少佐のとき旧長岡藩家老山本帯刀家に迎えられ山本の名跡を継ぎます。結婚式は海軍の将校クラブ、現在のコースカのあたりにあった横須賀水校社であげています。近年焼失した横須賀米ヶ浜通りの海軍料亭として知られた「小松」には五十六の書が残されていました。記念公園近くにある山本五十六記念館には1943年(昭和18年)4月18日にブーゲンビル島で撃墜された長官搭乗機の左翼がパプアニューギニア政府の厚意で1989年(平成元年)から展示されています。五十六の遺骨は5月23日、現在のヴェルニー公園にある逸見上陸場から上陸し特別列車で東京へ向かいました。

   長岡の米100俵祭りでは、故郷ゆかりの34人をイラストとコメントで紹介する先人カードが店先に置かれ、人物や事績を紹介しながら地元の歴史を受け継いでいるようでした。(2022.01.15

 

 

**********

アングル234

旧半原木造校舎
旧半原木造校舎

~旧半原小学校木造校舎~

 

 愛川町半原は横須賀市民にとっては海軍水道の水源地として知られる土地です。かつて撚糸業で栄えた半原に1873年(明治6年)、和平(わだいら)観音堂に設置された「養成館第三支校」が半原小学校の始まりで、現在地に移転新築したのは1926年(大正15年)。関東大震災の教訓を生かし、児童の一斉避難が行えるよう配慮した工夫がされています。廊下の造りが半分板敷、半分は土間、すぐ外に出られるよう土間には大きな扉が数か所つけられています。1978年(昭和53年)に現在の新校舎が建設されてからは郷土資料館となっていました。

   建物の特徴はドイツ下見の外壁、細い構造材で広い部屋をつくることができる隅合掌の小屋組みは、宮大工棟梁の矢内稲尾の手による宮大工ならではの技術です。玄関ポーチの太い柱と金属の持ち送り風装飾、教室の天井換気口には校章が刻まれ、両開きの掃き出し窓の扉の蝶番、1931年(昭和6年)に取り付けられたシャンデリアなどがあります。建物保存までには曲折があったそうですが保存の要望、署名活動、テレビの放映などもあり、町全体で協議した結果、少しずつ修理しながらの保存に。子ども達に郷土の歴史を伝えるとともに、現存する県内最古の木造校舎としての学校建築の公開を行っています。婦人会の方々による清掃ボランティアも行われており、地域全体で大切にされています。(2022.01.01

 

 

**********

アングル233

観光施設の中心となっている旧大戸家住宅
観光施設の中心となっている旧大戸家住宅

~下呂温泉の合掌村~

 

 江戸時代の儒学者林羅山により有馬、草津と並ぶ三名泉と賞された下呂温泉に白川郷などから10棟の合掌家屋を移築した観光施設が「下呂温泉合掌村」です。中心となるのが1964年(昭和39年)移築された国指定重要文化財の旧大戸家住宅とその棟札で、建物規模は桁行21.4m、梁間12.27m、棟高13m、切妻、茅葺、内部は4階建ての合掌住居です。説明板には合掌造りは平家の落武者が奥飛騨の白川郷に住み着き編み出した建築方法とのこと。民俗資料館の旧岩崎家は富山から移築した200年前の建築、案内人の説明で暮らしの道具などが展示されています。気になる消化設備を案内していただきました。園内数か所に放水銃が備えられ、司令塔のポンプ小屋も完備、事務棟からも即時指令が可能です。夜間は警備会社に委託し、園内を管理。設備等を見せていただきましたが常に点検を行っているとのことできれいに整えられていました。肝心なのが水槽、水がなければ放水銃も使えませんが、豊富な湧き水を2か所の水槽に貯め、オーバーフロー水は日本庭園の池に流れ込んでいます。移築した芝居小屋、体験工房や食事処、展示場などに活用している合掌家屋もありますが、文化財建物はそのままの姿を伝えることを目的に見学のみ行っているとのこと。

   横須賀の指定文化財万代会館は茅葺の補修をしながら、耐震工事の進むのを待つのみです。(2021.12.15

 

 

**********

アングル232

大迫力のシンボル「水道タンク」
大迫力のシンボル「水道タンク」

~水道公園のシンボル「水道タンク」~

 

 新潟県長岡市水道町3丁目に水道公園があります。長岡市水道発祥の地である旧中島浄水場の敷地の一部を水道公園としてオープンしたのは2004年(平成16年)の4月。まちのシンボルとして「水道タンク」の名で親しまれているのが金井彦三郎設計の鉄筋コンクリート造、一部鉄製の高さ41.5メートル、赤い帽子を乗せたような旧配水棟で、今でもランドマークです。中島浄水場は1924年(大正13年)に工事が始まり完了したのが1927年(昭和2年)、1993年(平成5年)に運転休止に。翌年廃止となり跡地の水道緑地整備事業が始まり配水タンクはまちのシンボルに。1996年(平成8年)にタンクのライトアップが始まり、普段はオレンジ色のところ2021年5月には新型コロナ感染防止を訴え紫色に。水道タンクは1998年(平成10年)に国登録文化財に、ポンプ室棟、予備発電機室棟、監視室棟は平成25年に文化財登録されました。2009年(平成21年)からは「水道タンクのある街」活性化事業として監視室にミニギャラリーを開設、歴史的建造物に接し歴史と文化を伝えています。設計者の金井彦三郎は土木会の功労者で新橋や京橋、万世橋など東京の主だった橋梁の設計をしています。

    横須賀市の逸見浄水場は半原系統が廃止となり役目を終わりました。海軍水道、市民の水道でもあった横須賀水道のシンボルで登録文化財建物も7棟あり、活用が期待されます。(2021.12.01

 

 

**********

アングル231

扉にも軒にも色鮮やかに描かれた鏝絵蔵
扉にも軒にも色鮮やかに描かれた鏝絵蔵

~横綱級の鏝絵・旧機那サフラン酒製造の蔵~

 

 新潟県長岡市は太平洋戦争で市街地のほとんどが焼失しました。長岡戦災資料館には空襲の記録、戦時中の暮らしなどを伝える資料が展示されています。摂田屋はその難を逃れ現在も明治・大正時代の建物が多数残っており、味噌・醤油・酒の蔵元が集まる醸造の町です。摂田屋という地名は、武士や僧侶の簡易宿泊所「接待屋」に由来するとのこと。観光拠点として整備が進む摂田屋の中心となるのが「旧機那サフラン酒製造本舗」で、国登録文化財10棟が登録されています。特に目を見張るのが鏝絵蔵です。圧倒される鏝絵は地元の左官職人河上伊吉の作品で、1926年(大正15年)に建てられた2階建て桟瓦葺きの土蔵です。藤森照信、東大教授は「全国鏝絵番付をつくれば横綱」と評しています。普通は建物の一部に点景として描かれる鏝絵が軒から戸袋まで唐草、十二支など動物がカラフルに描かれ、1階部分のナマコ壁との白黒のコントラストがお互いを際立たせて見せます。一時は取り壊し計画が出たそうですが、市民の会が立ち上がり保存を実現し休日公開には内部の説明を行っています。現在は米蔵を整備、未来醗酵本舗(株)が管理運営をする観光拠点です。

   建て主は創業者吉澤仁太郎、豪快で独創的な人だったそうで昭和初期にはハワイまで販路を広げ、財を成しました。サフランは江戸時代から鎮静・鎮痛などに効能がありました。(2021.11.15