建築探偵のアングル

アングル190

撤去作業中のモニュメント
撤去作業中のモニュメント

 ~「ヘイワ オーキク ナーレ」28年で撤去~

  

 中央公園の中心に「核兵器のない天上界(宇宙)と、われわれの住む地上の交流、対話のできる発信基地」を表現した高さ約20メートルのステンレス製モニュメントがあります(した)。横須賀市が「核廃絶・平和都市」宣言を行ったのが1989(平成元年)。その意思を伝えるために1992年(平成4年)に設置されたのが平和モニュメントです。設計者は横須賀市出身の彫刻家 最上寿之 武蔵野美術大教授(19362018年)で、10人の彫刻家のコンペの中から選ばれた作品でした。事業費1億4,100万万円のうち市民からの寄付が335万円。近年の点検で老朽化などのため撤去され新たにモニュメントを新設する、とのことで現在のモニュメントには足場がかけられ撤去作業が進んでいます。設置当初は近隣の電波障害や音の問題など話題になりましたが、どこからでも望める中央公園のシンボルとして親しまれてきました。メンテナンスに手落ちがあったのが早期老朽化となったようです。跡地には何が造られるのでしょうか。市役所前には市民から寄贈されたからくり時計塔があります。新設当時は時間になるとトラ踊り、飴や踊り、とっぴきぴー踊りが飛び出す仕掛けが話題でした。仕掛けは複雑でよく故障していました。そのうち透明なカバーがかけられ人形は見られなくなり、今では時計の針も片方だけ。せめて時計だけでも修復できないものでしょうか。(2020.03.01

 

 

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アングル189

氏家のレンガ倉庫
氏家のレンガ倉庫

~宇都宮線氏家駅のレンガ倉庫~

   

  JR東北本線宇都宮線の氏家駅ホームに沿って小さなレンガ造りの倉庫があります。「建物財産標 鉄 倉庫3号 明治42年 月 日」と書かれています。駅のかたの話によると、昔は手前駅の宝積寺駅からの切り替えポイントが冬場は凍ってしまうのでポイントを温めるための燃料倉庫だったそうですが、今では普通の倉庫に使っているとのことでした。建屋はかまぼこ屋根、オランダ積みレンガで側面は28段、正面のアーチ先端は34段積みで、入り口はフラットアーチになっています。氏家駅前には大谷石の穀物倉庫があり貨物駅としても活躍していた様子がうかがえます。駅周辺の商店などからは賑わっていたころの様子が伝わります。喜連川温泉へはここが最寄りです。

 レンガのサイズは1925年(大正14年)に日本標準規格(JES)で長さ210㎝、巾100㎝、厚さ60㎝の企画が公布され、統一されましたがそれ以前は年代や地域によって少々の違いがありました。横須賀には明治期のレンガの構造物や、擁壁などに再利用されたものなどがところどころに見られます。中には明治時代に焼かれた桜や楕円など刻印があるものもあります。見つけながら歩くのも街歩きのツールですが、最近はレンガ擁壁がモルタルで塗られたりコンクリートや間知石に置き換えられたりされたところも多くなりました。(2020.02.15

 

  

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アングル188

鶴岡ミュージアムとして継承された旧県立近代美術館
鶴岡ミュージアムとして継承された旧県立近代美術館

~鎌倉文華館鶴岡ミュージアム~

  

 鎌倉鶴岡八幡宮境内の源平池は太鼓橋を挟んで源氏池と平家池があります。平家池のほとりに建つ鶴岡ミュージアムは白鷺が舞い降りたような姿を池面に映してたたずんでいます。本館の建物は1951年(昭和26年)に開館した神奈川県立近代美術館の鎌倉館を継承し、現在は鶴岡八幡宮の歴史を主軸に、企画展のほか禅や天神信仰、鎌倉文士など鎌倉の魅力を映像やパネルも含め展示しています。

   戦後間もない1949年(昭和24年)、神奈川県在住の画家や評論家が中心となり《神奈川県美術家懇話会》を設立、県知事に美術館建設を要望しました。中心メンバーは有島生馬・安井曾太郎・鳥海青児・鏑木清方・前田青邨・伊東深水など33名でした。美術館が建設され65年間活動してきましたが県と八幡宮との土地借地契約満了となり2016年(平成28年)に閉館となりました。建物は同年11月神奈川県重要文化財(建造物)に指定、神奈川県から鶴岡八幡宮に土地の返還と合わせ建物が無償譲渡され補強・復元されミュージアムとして開館しました。設計は東京帝大で美術史を学び渡仏、20世紀建築のル・コルビュジエに師事し、1937年のパリ万博で日本館を手がけた坂倉準三(19011969)です。2022年のNHK大河ドラマは鎌倉を舞台にした北条義時にきまり、三浦氏も登場することでしょう。(2020.02.01

 

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アングル187

なまこ壁に改修された安直楼
なまこ壁に改修された安直楼

 ~お吉の小料理屋「安直楼」~

 

 伊豆下田港近くの「安直楼」は、かつて唐人お吉が小料理屋を営んだという建物です。市の調査によると建築時の建物は主屋と土蔵で、主屋の建築年代は諸部材の外見から1854年(安政元年)以降と推定され、桁行4間、梁間3間半、2階建て、切妻造、平入でした。現在の外観は1階の出格子は当初から変わっていませんが2階戸袋や1階前面が板張りから《なまこ壁》に変わっています。下田のなまこ壁は四半張りという張り方で、風雨・潮風が強い地域の特徴から目地の水はけをよくするためと考えられています。一般には30×30㎝の壁瓦の四隅の穴に竹釘で止め、水漏れを防ぐため漆喰で盛り上げるので、この形がなまこ型なのでなまこ壁の名がついたということです。

 愛知県知多郡内海の船大工市兵衛・きわの次女として生まれた《きち》は4歳の時一家で下田に移り住み、14歳で芸妓に。評判の美貌が目に留まり、17歳でアメリカ総領事タウンゼント・ハリスのもとへ看護婦との名目の待妾として奉公に上がります。ハリスのもとを去った後も唐人お吉とさげすまれ、流転ののち一度は元の恋人鶴松と暮らしますが離別。1882年(明治15年)ごろ安良里の船主亀吉の後ろ盾を得て安直楼を開き4年間ほど営業、その後建物は栁田家に移りました。吉は、1891年(明治24年)3月27日に入水して果てました。やりきれない出来事です。(2020.01.15

 

 

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アングル186

一般公開されている旧澤村家住宅
一般公開されている旧澤村家住宅

~下田の歴史を伝える旧澤村家住宅~

  

  下田市では歴史的風致維持向上計画が進行中です。国指定文化財了仙寺前を流れる平滑川がペリーロードの東端から下田港へと曲がる突き当りにあるのが旧澤村家住宅です。1915年(大正4年)に建築された木造2階建て、規模は桁行6間、梁間4間半、寄棟造、なまこ壁、2階の軒先は漆喰で塗りまわされています。1985年(昭和60年)下田市歴史的建造物に指定され、下田まち遺産に登録されました。2008年(平成20年)主屋と蔵が下田市へ寄贈され耐震工事などを行い、隣接する蔵部分を広場と公衆トイレに整備し、主屋を観光客の休憩・案内施設として2012年(平成24年)から一般公開しています。建築当時にはなかった伊豆石の石塀もその時整備されました。和室・資料展示室・主屋裏手の蔵ギャラリーなどの見学・休憩は無料ですが、貸し会館としても午前・午後・全日がそれぞれ有料で利用できます。横須賀の万代会館にも参考となる活用ではないでしょうか。

    建築主は旧下田ドック創業者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門で澤村家は江戸時代後期から造船業を営みました。日露交渉のため下田港に停泊中の軍艦ディアナが地震による津波のため破損、代船のヘダ号建造にかかわった下田の船大工の一人でした。横須賀市立図書館の山を緒明山と呼びますが、同じく戸田村出身の船大工嘉吉の息子で品川台場で緒明造船所を創業した緒明菊三郎の持山だったことに由来しています。(2020.01.01

  

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アングル185

自然を活かした別荘建築の旧山本条太郎荘
自然を活かした別荘建築の旧山本条太郎荘

~満鉄総裁を務めた旧山本条太郎別荘~

 

 江ノ電長谷駅から大仏方面へ徒歩で約6分、そば屋と駐車場の間を左へ入り突き当たると正面に門柱があります。旧山本邸は桑ケ谷の南面する約5000坪の土地に150坪の数寄屋造りの別荘建築で、現在は神霊教・霊源閣の道場として保存活用されています。建築主の山本条太郎は三井物産出身の実業家で立憲政友会の政治家として幹事長や第10代満州鉄道総裁を務めました。東海大学の小沢朝江教授の調査により棟札が発見され、1918年(大正7年)3月1日完成、設計者は数寄屋師として知られる笛吹嘉三郎、棟梁は福嶋國蔵であることがわかりました。建物の特徴は標高40mの高低差を活かした敷地の崖線に合わせた雁行型で、公的な棟(表)、私的な棟(奥)、使用人の作業空間(裏)を置く近世以来の構成を取り入れ、全体を自然と融和させた伝統的な中に近代的趣向が凝らされているところです。屋根は桟瓦葺の入母屋、銅板葺きの庇、屋根勾配が緩くて軒が深く穏やか。関東大震災にも耐えました。1956年(昭和31年)に九鬼悠嚴氏に譲渡され、奥の茶室・待合などが増築されました。神霊教に譲渡されたのは1982年(昭和57年)。2016年(平成28年)11月国登録有形文化財に登録されました。普段は非公開ですが湘南邸園文化祭に際して11月末から4日間公開され紅葉と鎌倉の海の景色も楽しめました。横須賀の万代会館も湘南邸園文化祭を1019日に行いました。(2019.12.18

   

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アングル184

モダンでクラシックな公会堂
モダンでクラシックな公会堂

~鎌倉・由比ケ浜公会堂~

 

 由比ケ浜公会堂は六地蔵の交差点を渡った斜め前にあります。山手総合計画研究所代表の菅孝能さんの調査によると《和風木造2階建て、1936年(昭和11年)ごろの建築と思われるが、鎌倉震災誌に「倒壊を免れ、救護所として機能した」とあることと「寄贈昭和5年 国勢調査員」と記載された柱時計があることから震災前に建てられたとも考えられる》とのことです。外観は破風、懸魚、窓の手すりなどに和風の特徴があります。正面左側にたて3本の明り取り窓が1、2階通しでつけられているところは洋風な印象で、垂直と屋根庇の水平が緊張感を持ったデザインになっています。建築にあたっては地主の武川氏が1000円を寄付し、大貫力三大工が設計施工したということです。

   2階に大広間があり正面には葛原が丘神社の神輿蔵があります。柱型の中央にある扉を開けると神社神輿や提灯が収納されており、鴨居に寄付者の木札がかかっていてこの建物が地域の中心であることを物語っています。

  鎌倉の公会堂建築にはこのほか和風木造2階建て1918年(大正7年)建築の材木座公会堂、1936年(昭和11年)建築の洋風木造2階建て大町会館、1957年(昭和32年)建築和風木造の長谷公会堂があります。(2019.12.1)

 

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アングル183

篠原家住宅母屋
篠原家住宅母屋

~防火対策完璧だった篠原家住宅~

 

 栃木県宇都宮、かつての奥州街道口に1895年(明治28年)に建てられた旧篠原家住宅があります。江戸時代からの旧家で醤油醸造業や肥料商を営んでいました。切妻造、桟瓦葺きで野地板の上に杉皮・土を乗せその上に桟瓦を葺いてあります。第2次世界大戦での宇都宮大空襲では醤油醸造蔵や米蔵は焼失しましたが母屋と石倉3棟は残り明治時代の豪商の姿を今に伝えています。

   母屋は1,2階合わせて100坪、高さ11メートル1辺45センチのケヤキの通し大黒柱は2階の床柱、さらに上に伸びて棟木に達しています。町中が焼け野原となった大空襲に対応できたのは黒漆喰や大谷石を用いた外壁、炎が内部に入らないようにアールをつけた漆喰の軒、雨戸は三層で一番外側に銅板、次に漆喰を塗り屋内の部分は木製という念の入れ方です。道路に面した窓の扉は火事に備えて内側にひく漆喰扉。焼けなかった3棟の蔵は明治28年建築の新蔵、嘉永4年建築の文庫蔵、醤油醸造道具用の石倉です。

 1996年(平成8年)2月宇都宮市に寄贈され、復元・修復工事を経て翌年3月から一般公開されています。2000年(平成12年)、主屋と新蔵が国重要文化財に指定されました。市教育委員会文化課が所管し、ボランティアグループの篠原家保存会のメンバー20人ほどが案内や管理などを受け持っているとのことです。(2019.11.15

 

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アングル182

大谷石の教会
大谷石の教会

~大谷石の教会・松が峰教会~

  

 栃木県宇都宮市大谷は大谷石の産地として知られています。大谷石地下採掘場跡は大谷資料館として地下空間そのまま展示場として見学できます。

   大谷石の教会として知られるカトリック松が峰教会は1888年(明治21年)、宇都宮天主堂として発足。現在の教会堂は1931年(昭和6年)に着工し翌年完成した鉄筋コンクリート造、大谷石仕上げ、銅板葺き双尖塔を備えた近代ロマネスク建築で、コンクリート製の聖堂としては日本で最も古いとされています。献堂式は1932年(昭和7年)、横須賀上町教会と同年です。1938年(昭和13年)には幼稚園が開園しました。1945年(昭和20年)7月の宇都宮大空襲で大屋根が焼け落ちましたが、2年後に修復。1998年(平成10年)国登録文化財に登録されました。北関東では最初の本格的パイプオルガンが設置されたのが1978年(昭和53年)、ドイツのアルビーツ社製1244本のパイプのあるバロック様式です。オルガンの組み立てと整音にあたった須藤宏さんはドイツでオルガン製作マイスターとして認められ、横須賀市で1976年(昭和51年)工房を立ち上げました。現在ではオルガン製作の第一人者として活躍しています。

   横須賀の登録文化財横須賀上町教会・めぐみ幼稚園には大正時代のリードオルガンがあります。演奏会が企画されていますのでニュース欄を参照の上ご参加ください。(2019.11.01

 

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アングル181

スクラッチタイルが美しい水道記念館
スクラッチタイルが美しい水道記念館

~神奈川県水道記念館~

 

 水道記念館は寒川町宮山、JR寒川駅から徒歩で20分弱、寒川神社参道に隣接しています。記念館の建物は1935年(昭和10年)竣工の旧送水ポンプ所だったところで、床面積416.18㎡の鉄筋コンクリート造平屋建て、スクラッチタイル貼りの外観は神奈川県庁同様の昭和初期官庁建築の特徴でもあります。

 神奈川県営水道ができた1933年(昭和8年)ごろは、ほとんどの家庭で井戸水や民間水道会社の水を飲み水としていましたが水質や量に問題があり、県営水道を造ってほしいとの要望が寄せられました。これを受けた県では水源を相模川下流の寒川地区に求め、同年11月から1936年(昭和11年)4月までに建設を完了して、湘南地域1市9町(平塚市、藤沢町、茅ケ崎町、鎌倉町、腰越町、逗子町、葉山町、大磯町、浦賀町、片瀬町)を給水区域とする県営水道が発足しました。

   建物はポンプ所としての役目を終わり、1984年(昭和59年)、おもむきのある建物は子ども達にも人気の体験型展示場とし第2の役割を果たしています。2013年(平成25年)には「土木学会推奨土木遺産」に大磯配水池・水道記念館・茅ケ崎配水池が認定されました。横須賀市の猿島要塞は2000年(平成12年)に認定されています。(2019.10.15