建築探偵のアングル

アングル280

~ 京都・本願寺伝道院(重要文化財)

 

京都の中心にある浄土真宗本願寺派本山、西本願寺。そのワンブロック東に「真宗信徒生命保険」社屋ビルが、1912年(明治45年)に竣工しています。時の門主、大谷光瑞の依頼で東京帝国大学教授の伊東忠太による設計。建物の外観は、ヴィクトリア朝風(アン女王様式)の赤レンガに白い石の横じま模様としており、細部にサラセン(イスラム建築様式)やインド風の意匠を取り入れ、館内は和風意匠の天井にアール・ヌーヴォーなどの照明器具が使われています。館内外共に異風な意匠が目を引き、外構の柵柱には空想的な霊獣が施されています。この建物は、後に浄土真宗本願寺派布教研究所、1973(昭和48)には現在の本願寺伝道院となっています。2014年(平成26年)に国指定の重要文化財に。

大谷光瑞は20世紀初め、仏教伝来の道筋を探るべくアジア各地へ探検隊を3回派遣しています。これに対して、伊東は当時通常なら欧米に留学するのに、中国やインドなど東洋に目を向けて研究行脚しています。探検・研究を通して彼ら2人が意気投合し雄大な視野で日本文化を見つめ直していきます。伊東忠太は多くの寺社建築などを設計したほか、「法隆寺の中膨れの柱はギリシャ神殿と同じエンタシス」と唱えるなど、日本建築史の学問領域を確立していますし、「建築進化論」を唱えてもいます。建築界初の文化勲章を1943年(昭和18年)に受けています(本号は、アングル276278号に続く〔伊東忠太シリーズ3〕です)2023.12.01.HK.

 

 

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アングル279

遠野の旧伊藤家
遠野の旧伊藤家

~遠野のまちと商家建築の活用~

 

 民話の里として知られる岩手県遠野市は、昔から宮古や釜石などの沿岸、花巻や盛岡などの内陸に行くにも通らなければならない宿場町・城下町として栄え「市」が開かれるときは「馬千匹・人千人」と言われる賑わいだったそうです。現在では城下町、宿場町の特徴を活かした街並づくりがされ、碁盤目状の街路で歴史と伝統を残す修景の大工町通りは昭和63年「美しい都市づくり」に入賞しています。

現在の中央通りには江戸から明治にかけて一日市(ひといち)が立ちました。今は観光の中心として「とおの物語の館」というエリアを構成し、観光の中心となっています。民俗学者柳田国男が滞在した旅籠で国登録有形文化財の「旧高善旅館」や東京都世田谷区から移築した柳田国男の隠居所が展示館となっています。名物遠野そばの「伊藤家」は江戸末期から明治時代頃の建物で、元は半商半農。稲は馬に積んだまま中土間を通り作業場へ、馬を泊める馬小屋や15畳の大広間が二部屋という豪商でした。建物は1995年(平成7年)伊藤家から市へ寄付、2011年(平成23年)解体調査の後復元工事を行い、今は蕎麦屋として営業中。エリアにはほかに市内から幾棟もの蔵を移築、展示館や劇場、案内所としています。通りに面した茶商「仙台屋」は江戸時代からの老舗、今の建物は明治21年建築の国登録有形文化財。(2023.11.15

 

  

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アングル278

遊就館本館(登録有形文化財)
遊就館本館(登録有形文化財)

~遊就館(靖國神社の宝物館)

 

東京九段、靖國神社の拝殿の右手奥にある遊就館は、多くの戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示する施設として、1882年(明治15年)に開館した日本で最初、最古の軍事博物館です。その後、旧来の建物は関東大震災等で被害を受け、新たに1932年(昭和7年)、著名な伊東忠太(東京帝国大学教授;18671954)の設計・監督による近代東洋式、帝冠様式の本館が再建されました(登録有形文化財)。さらに1934年(昭和9年)、国民への軍事知識普及のため付属の国防館(現靖國会館)を建設、近年には本館右手に新館も増築し今日に至ります。館内には大変見ごたえのある展示物が網羅されています。

これより先、明治天皇・政府は1869年(明治2年)、幕末から明治維新の歴史的大変革期に、近代国家建設のために尽力して亡くなった多くの人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えるために、この九段の地に「招魂社」を創建します。これが1879年(明治12年)には「靖國神社」の社号(別格官幣社)となります。近現代、明治期以降から太平洋戦争に至るまで、多くの関係者が国のため命を落としていますが、靖國神社はこうした戦没者、国事殉難者を祭神としています。「靖國」は「国を靖(安)んずる」の意味で、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。他方で、今日では政教分離などの「靖国神社問題」も生じています(伊東忠太シリーズ2、その1はアングル276)。2023.11.01.HK            

  

 

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アングル277

羅須地人協会の建物
羅須地人協会の建物

~宮沢賢治の私塾・羅須地人協会の建物~

  

 「雨ニモマケズ」の詩の作者、宮沢賢治(1896・明治291933・昭和8年)が1926年(大正15年)3月花巻農学校(県立花巻農業高等学校の前身)を退職した後、1912年(明治45)年に祖父喜助の隠居所として建てられたこの家に住みました。10畳の和室を板の間の教室に改修、個人の幸福と世界の幸せを願ってこの場所を拠点に羅須地人協会を立ち上げ稲作指導、肥料設計などの農事相談などのほか、農村の若い人たちに農民講座やレコードコンサート、器楽演奏などの文化活動を行いながら詩を書き農耕し自炊生活を送っていました。当時、建物は、現在「雨ニモマケズ」の詩碑のある花巻町下根子桜(現・花巻市桜町)にありましたが、賢治死後の1936年(昭和11年)、敷地内に詩碑が建立されることになり、宮野目村の農家の人に譲られ移築、住居として使われて来ました。1966年(昭和41年)、賢治が住み、羅須地人協会の活動拠点だった建物が昔のままあることが分かり同窓会が買受けて復元。その後1969年(昭和44年)、この敷地に県立花巻農業高等学校が新築され、賢治の家は学校のシンボルでしたが、1978年(昭和53年)花巻空港拡張に伴い150m北側の現在地に移築。1階は床の間付き八畳の居間と十畳の板の間、そこにはオルガン、火鉢、丸椅子、入り口には賢治のコートを展示、2階は書斎。敷地内に橋本堅太郎制作の賢治像が独特のポーズで立っています。(2023.10.15

 

 

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アングル276

山鉾のような祇園閣(太雲院)
山鉾のような祇園閣(太雲院)

~登録有形文化財の祇園閣~

 

京都一番のお祭りは夏の盛りの祇園祭、その中心は各町内がそれぞれにしつらえた伝統の山鉾。なかでも長刀鉾はひときわ優美な姿であるのは誰もが認めますが、その姿を建築物にしたのが祇園閣。八坂神社、円山公園の南側にある大雲院の一角に建っています。

ここはもともと真葛ヶ原で、東京の大倉喜八郎(1837-1928)が京都に惹かれ別邸(真葛荘)を建設。その建物の一つが祇園閣で、1928年(昭和3年)に完成。設計は大倉集古館の建設など長く大倉と縁のある伊東忠太(東京帝国大学教授;1867-1954)による。高さ36mの3階建て建物で、閣上から京都市内が一望できます(通常非公開)。大倉喜八郎が金閣銀閣についで銅閣をめざすべく屋根を銅板葺きに、現在は緑青の姿で落ち着いた風情です。1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に。伊東は築地本願寺、平安神宮、東京都慰霊堂など多くの名建築を残しており、文化勲章受章者。

なお、大雲院は天正年間(1573-1592)織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、父子の知遇を得ていた貞安上人が、信忠の法名で二条烏丸に創建したもの。のち寺町四条に移転しますが、天明・元治の大火で焼失。明治初期に復興、戦後は繁華街から離れるべく、1973年(昭和48年)に大倉の土地の一部を得て現在地に移転したものです。境内には信長父子供養塔や、石川五右衛門の墓も。個人の別邸内に建った祇園閣が、お寺の一部へと代替わりするのも歴史のなせるわざでしょうか(伊東忠太シリーズ1)。(2023.10.01.HK)                           

 

 

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アングル275

~双頭の教会堂~弘前教会

 

 藩政期の社寺建築や明治期の洋風建築などが今も街の魅力になっている東北有数の文化財建築のある街弘前市。西洋建築と伝統的な和風をマッチさせた擬洋風建築と呼ばれる日本独特な建築を多く手がけたのが弘前藩お抱え大工の堀江佐吉と兄弟や子ども、孫、弟子などの堀江一族でした。県重宝に指定されているフランスゴシック風の双頭の堂々とした木造2階建ての弘前教会は、教会の長老・桜庭駒五郎の設計、堀江佐吉の4男斎藤伊三郎の施工で1906年(明治39年)に完成しました。レリーフで飾られたメダリオンのある正面を中心としたシンメトリーで、胴蛇腹で水平線を強調、石造風のバットレス(控壁)、尖塔アーチ窓が印象的です。内部も白漆喰仕上げとなっています。

日本基督教団弘前教会は1875年(明治8年)に東奥義塾塾長で弘前出身の本多庸一が横浜から宣教師ジョン・イングを伴い「弘前公会」を設立したことに始まる東北最古のプロテスタントの教会です。本多庸一は東奥義塾塾長、青山学院院長、弘前学院創立者など教育者と同時に青森県議会議長を務める政治家でもありました。青山学院時代は「紳士を育てる」人格教育を尊重し、学生たちとの触れ合いも大切にしていたそうです。本多院長に可愛がられた万代順四郎の終の棲家、横須賀市津久井の「万代会館」は順四郎の足跡を今に伝えています。(2023.09.15

 

 

 

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アングル274

ラ・リューシュ=集合アトリエ兼住宅   ~手前はセザールの彫刻「親指」
ラ・リューシュ=集合アトリエ兼住宅   ~手前はセザールの彫刻「親指」

~山梨の清春藝術村 / ラ・リューシュ~

 

1900パリ万国博覧会に、ギュスターヴ・エッフェル (1832-1923) ボルドー・ワイン館として設計したアール・ヌーヴォー様式の3階建て円形建築物(十六角形)がありました。これパリ15モンパルナス地区南に移設、集合アトリエ兼住宅のラ・リューシュ(=「蜂の巣」)となりました。ここを拠点に1920年代には芸術家がコミューンを形成、シャガール、モディリアーニ、藤田嗣治などエコール・ド・パリの画家・彫刻家が集った場所として、近代フランス絵画史上で知られています。

ラ・リューシュは時代を経て、老朽化で取り壊し問題が起きます。日本の吉井長三(吉井画廊主;1930-2016)が取り壊すなら買い取り日本に移築をと申し出ますが、シラク・パリ市長(のちの大統領)が保存を決定。そこで吉井は設計図を買い取り同じ建物を1981年に北杜市に清春藝術村の中心施設として再現しています(建坪約150坪、幅25m)。村内には、この他に白樺派の作家たちの夢を託された吉井が1983年に清春白樺美術館(谷口吉生設計)を完成、またフランスに留学し、日本での洋画を確立した梅原龍三郎のアトリエ(吉田五十八設計)を東京より移築してもいます。さらに安藤忠雄や藤森照信設計の建物も新設。この藝術村は旧清春小学校跡地(約5,000坪)で、1925(大正14)の学校落成記念に植樹した桜の木が外周に残り、一年を通して風光明媚な場所となっています。吉井は日仏文化交流の功績で2007年にフランス国家功労勲章コマンドゥールを受章しています。 (2023.09.01.HK

 

 

 

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アングル273

2度の移築を経て今もシンボルの旧図書館 
2度の移築を経て今もシンボルの旧図書館 

~旧弘前市立図書館~

 

 弘前城を中心にレトロモダンが調和した街並みの弘前市。弘前公園の追手門通りに面してルネッサンス様式を取り入れた木造3階建ての旧弘前市立図書館があります。外観は石積基礎に白漆喰塗り、レンガ色銅板葺きの八角形の双塔が目印です。設計・施工は弘前城お出入りの大工棟梁堀江佐吉で、青森県内初の私立学校「東奥義塾」の敷地の一角に1906年(明治39年)3月の竣工でした。洋風技法の中に和風の伝統的デザインを取り入れた擬洋風建築で、資金は第八師団関係の建築や鉄道工事で成功した斎藤主(つかさ)などが提供しています。1931年(昭和6年)まで市立図書館として利用され、その後、堀江家の子孫に払い下げられ、富野町へ移築後は下宿や喫茶店に。1990年(平成2年)、市制100周年記念施設の一つとして元の場所の近くに再移築復元されました。1993年(平成5年)に県の歴史を伝える重要な建物として「県重宝」に指定されています。現在1階は当時の図書館の様子を復元して公開し、2階は郷土資料の展示、郷土関係団体の発表の場となっています。

   なお擬洋風建築では松本市の旧開智学校が知られています。設計施工は東京・横浜で学んだ地元の大工棟梁立石清重。2019年(令和元年)近代学校建築初の国宝に指定されました。(2023.08.15

 

 

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アングル272

湖畔に建つ秘湯 大牧温泉観光旅館
湖畔に建つ秘湯 大牧温泉観光旅館

~秘湯一軒宿の大牧温泉~

 

富山駅から山方向に車で一時間弱、庄川を眺めながらの道、途中に小牧ダムがあり、そこから船でしか行けない秘境の一軒宿があります、なぜそんな不便なところなのか。元々は庄川峡の川畔にあった大牧温泉でした。

ある時、富山県氷見に生まれた男が上京、必死に様々な仕事をし、ついには官営深川セメント製造所の払い下げを得て、浅野セメントを経営(戦後に日本セメントに、現・太平洋セメント)。さらに大開発をして京浜工業地帯の父と呼ばれるのが浅野総一郎(1848-1930)です。他方、都会では電気を便利に使う時代、貧しい郷里にも電化生活を提供すべくダム建設したのも浅野で、1930年に小牧ダムが完成(登録有形文化財)。庄川峡の新たなダム湖畔に大牧温泉観光旅館が建ったものです。

浅野の実業活動を支えたのは、安田保善社、安田銀行(現みずほ銀行)などを起こし、近代日本経済を下支えした安田善次郎(1838-1921)でした。二人は同県人で刎頸の友として長年助け合います。なお、横須賀はこの浅野、安田とも深き縁があります。安田は、地主らによる公郷地先海岸埋立計画の途中挫折を救い完遂、1923年に埋立地は安田にちなみ安浦町の町名となっています。また浅野は、浦賀ドック(浦賀船渠、戦後に住友重機械工業)の再建を渋沢栄一、安田らの要請で引き受け、第3代社長にもなっています。

本号は、修善寺・新井旅館(264号)、渋温泉・金具屋旅館(266号)、法師温泉・長寿館(270号)に続く〔旅館ホテルシリーズ4〕です。 (2023.08.01.HK)

 

  

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アングル271

 ~旧盛岡高等農林学校本館~

 

 岩手大学の前身である盛岡高等農林学校は、1902年(明治35年)にわが国最初の高等農林学校として設置されました。今も堂々とした姿で建つ旧本館は旧文部省技師谷口鼎(かなえ)の設計で1912年(明治45年)5月に着工、同年(大正元年)11月に完成しました。青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造欧風建築の2階建て、1階に校長室、事務室、会議室があり2階は大講堂で行事などに使われました。今でも畜産課の卒業式はここで行われることがあるそうです。その後岩手大学が設置されてからは1974年(昭和49年)まで大学本部として使用され、老朽化のため取り壊しが検討されましたが、歴史的建造物の修復保存の声が上がり修復された後1978年(昭和53年)から農業教育資料館として研究資料や宮沢賢治在学中の資料などが展示公開されています。明治期の国立専門学校の中心施設で学校建築の歴史を知る建物として1994年(平成6年)国の重要文化財に指定されました。2階の大講堂には第1回から歴代の卒業写真が掲示されており、当初は詰襟、終戦後は自由になった服装にも時代を感じます。外壁は何度も塗りなおし、その時々の色のストラップが販売されています。

 「盛岡高等農林学校に来ましたならば、まづ標本室と農場実習とを観せてから植物園で苺でも御馳走しやうではありませんか」宮沢賢治盛岡高農3年文芸同人誌「アザリア」1号(1917) (2023.07.15