建築探偵のアングル

アングル180

関戸家住宅主屋
関戸家住宅主屋

~青葉区の関戸家住宅~

 

 横浜市青葉区美しが丘西のバス停から少し下ったところに樹木に囲まれた関戸家住宅があります。明治初期に建てられた保木村の名家関戸家の住宅で、主屋、穀蔵、文庫蔵が2001年(平成13年)に国登録文化財として登録されています。主屋は幅14間(約25メートル)で、元は茅葺屋根だったそうですが現在は金属板でおおわれています。寄棟造り、六間取形式、建物の中に土間に接して馬屋がある構造だったそうです。市内最大級の古民家で、横浜郊外の農村の原風景を伝える価値ある建物です。現在は撮影スタジオ「エムズハウス」として映画のロケやスチール写真撮影に利用されています。時代劇撮影などにも使われているようで、文化財としての関戸家住宅よりエムズハウスのほうが名が通っているようでした。残念ながら見学はできません。

 エムズハウスは田園都市線のたまプラーザ駅から丘陵地の住宅街をバスで美しが丘2丁目へ。駅周辺は田園都市線でも有数のショッピングモール、あらゆる世代の人で賑わっていました。駅周辺の開発は2005年から計画され、「たまプラーザ地区計画推進連絡協議会」が発足、現在は「たまプラーザ駅周辺地区街づくり協議会」に。開発が進み2010年たまプラーザテラスが完成し、噴水広場を中心に140店舗が展開する街になりました。(2019.10.01

 

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アングル179

屋根が壊れた逸見波止場衛門
屋根が壊れた逸見波止場衛門

~日本遺産「逸見波止場衛門」台風被害~

 

 2016年、日本近代化の躍動を体感できるまち、との視点で、鎮守府の置かれた横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4市が日本遺産に認定されました。横須賀市内の構成文化財の多くは普段見ることができません。米海軍基地に存在するドライドック1号から6号、旧鎮守府庁舎、旧鎮守府会議所、旧海軍工廠庁舎、海自田戸台分庁舎、逸見浄水場緩速ろ過池調整室4棟・配水池入り口2棟・ベンチュリーメーター室1棟。普段見られるのは、自然人文博物館に展示されている横須賀製鉄所・造船所の刻印のあるレンガ、近代造船所建築図面資料、横須賀港周辺の絵図と、うみかぜ公園の第三海堡構造物、観音崎・走水地区の砲台群、猿島の東京湾要塞跡、走水水源地のレンガ造貯水池(鉄筋コンクリート造浄水池は見られない)、七釜トンネル、ヴェルニー記念館のスチームハンマーとヴェルニー公園内の逸見波止場衛門です。記念館三笠は未指定のようです。その中の一つ逸見波止場の衛門がこのたびの台風で屋根が破損する大被害を受けました。2棟のうち公園から向かって右側が建築当初のもので、左側はかつて火災にあい屋根は復元したものです。今回は当初のほうが破損し、ドーム型の屋根材が吹き飛ばされて剥がれました。また、説明ポールには建設時期を明治末から大正とされていますが最近の調査で昭和4~5年ごろと判明しています。早めに訂正を。(2019.09.15

 

 

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アングル178

江戸城天守台
江戸城天守台

~石垣を見る~

 

  探偵団では市内のブラフ積みを調査しています。ブラフ積みとは西洋式の石垣の積み方とされていますが、いつから使われた名称かははっきりしないようです。よく知られているのが横浜山手の造成地の石垣に用いられている方法で、80㎝×25㎝×20㎝ぐらいの房州石(砂岩)を長手と小口が交互に並ぶように各段に積む方法です。ブラフは英語で崖を意味し、横浜に来た外国人が山手をブラフと呼んでいたことから呼ばれるようになったそうです。造成地のほか護岸にも見られ、東京や横須賀にもあるということで、横須賀市内の調査を始めました。横須賀での最も古いブラフ積みは、現在再建が予定されているティボディ邸に使われていたとのことです。横須賀では、海軍・陸軍の施設が置かれるのに合わせ、住宅地の造成が主に東海岸側から行われてきたと思われます。

  石積みは古くから様々な美しさ、堅牢さで時代の移り変わりの証人という見方もできます。日本の場合は城の石垣で、今回の写真は江戸城の天守台です。1657年の明暦の大火で天守が全焼、その後万治元年(1659年)に再建を目指して築かれた天守台でしたが結局天守は築かれず天守台だけが時代の流れを物語っています。日本での石垣は野面積み、打込接、切込接、亀甲積み、算木積み、布積み、乱積み、谷積みなどがありました。(2019.09.01

 

  

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アングル177

開智公園に建つ司祭館
開智公園に建つ司祭館

~取り壊しから保存へ・松本の旧司祭館~

 

   長野県松本市は松本城はじめ見どころの多いところです。2019年5月には旧開智学校が国宝となりました。1876年(明治9年)に建てられた擬洋風建築の文化財的意義が評価され、近代学校建築で初めての国宝指定となりました。この堂々とした建物のそばに建つのが「旧司祭館」です。189年(明治22年)、松本カトリック教会神父フランス人のクレマンにより、昔の武家屋敷跡地に建築されたアーリーアメリカン(コロニアル)風木造2階建て、各部屋には暖炉があり外壁は下見板張りの洋館です。

   松本城周辺の都市計画事業で一度は取り壊しを予定されましたが、貴重な文化財保存を願い平成元年に松本市へ寄贈されました。市では開智学校のある開智公園で移転復元することとし、1990年(平成2年)10月に解体工事をはじめ翌年10月に竣工しました。移転事業に市内の事業者キッセイ薬品工業から文化財事業のためと6000万円が寄付されたのをはじめ、多くの地元の方の尽力があったということです。

   鎌倉市には茅葺の社寺がいくつかあり、それぞれ屋根の葺き替えのために勧進(寄付)を呼び掛けていました。横須賀市の茅葺民家、万代会館は保存活用が決まっていますが、今後の維持保存のための具体策を知りたいところです。(2019.08.15) 

 

 

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アングル176

白川郷の茅葺民家
白川郷の茅葺民家

白川郷を訪ねる~

 

 初めて白川郷と高山を訪れたのは今から50年ほど前でした。次は今から12年ほど前、今年で3回目でした。この間、世界遺産に登録されたこともあり観光地としての人気は増すばかりで、外国人の姿が予想以上に多くありました。ナショナルトラストと多くのボランティアで屋根の葺き替えをした時には、大きな話題になったこともありました。昔は村民総出の「結」が組織され、秋に刈り取った茅で基本的には1日で100人から200人で作業終了したそうです。そういう機会に屋根葺きの技術が次世代に受け継がれていきました。昔は囲炉裏で常にいぶされていたので40年か50年に一度の葺き替えでよかったようです。現在は結で屋根ふきを行うことはできなくなりました。観光客は大型バスで送り込まれ、写真を撮ってお団子をほおばり、重要文化財となった明善寺に併設された郷土館の本堂、屋根裏の養蚕飼育場などを見学し、あぜ道に並んだお土産を見ながら立ち去ります。

   上三之町も押すな押すなの人混みで「昔を楽しむこと」を「楽しんでいる」風景が観光都市高山であることを改めて感じました。

   養蚕、農林業、農家、社寺、住宅や小屋など茅葺の建物は様々ですが、横須賀の万代会館は数寄屋風別荘建築という、いわば都会風茅葺住宅というところが特徴でしょう。(2019.08.01

 

 

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アングル175

金沢に移転する旧近衛師団司令部庁舎の工芸館
金沢に移転する旧近衛師団司令部庁舎の工芸館

~東京国立近代美術館工芸館~

 

  地下鉄東西線竹橋駅は毎日新聞社に直結、飲食店が並ぶ地下から地上へ出て竹橋を渡ると千鳥ヶ淵戦没者墓苑まで続く代官町通り。国立近代美術館、国立公文書館を過ぎると、旧近衛師団司令部庁舎として建てられたレンガ造の東京国立近代美術館工芸館があります。明治以降現在までの優れた工芸品の所蔵・展示などのほか販売されているものもあります。近衛師団とは天皇と宮城の警護、儀仗の任務にあたる最精鋭部隊でした。司令部庁舎は1910年(明治43年)陸軍技師田村鎮(やすし)の設計で建てられた2階建てレンガ造、八角塔屋付き、両翼に張り出しのあるゴシック様式の建物で、官庁建築の昔の姿を今に伝える貴重な建物であることから1972年(昭和47年)、国重要文化財に指定されました。翌年から近代美術館の設計者谷口吉郎の設計で改修工事がされ、屋根材が震災後に桟瓦葺きにされたものが建築当初のスレート葺きに復元されました。

 工芸館は石川県金沢市の文化の森に2020年ごろの開館予定の国立工芸館に移転することになっており、アングル174の県立歴史博物館隣に工事が進んでいました。日本海側初めての国立美術館として発信力・ネットワーク機能などが期待されています。東京のレンガの建物は他の用途に活用されるそうです。(2019.07.15

 

 

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アングル174

旧金沢陸軍兵器支廠兵器庫の第1棟
旧金沢陸軍兵器支廠兵器庫の第1棟

~石川県立歴史博物館~

 

 いしかわ赤レンガミュージアムは3棟並んだ赤レンガの建物で、金沢陸軍兵器支廠として1909年(明治42年)に第3棟(5号兵器庫)が、1913年(大正2年)に第2棟(6号兵器庫)、1914年(大正3年)に第1棟(7号兵器庫)が竣工しました。近代歴史遺産の活用が盛んな金沢市ですが、3棟並んだ赤レンガ建物は圧巻で、隣接する緑豊かな公園には国立工芸館(東京国立近代美術館工芸館)が東京からの移転に伴う整備が進んでいます。陸軍兵器庫は戦後、金沢美術工芸大学などに使用されましたが1986年(昭和61年)石川県立博物館として開館。1990年(平成2)年に歴史的建造物の保存と博物館としてしての再利用が評価され国重要文化財に指定されました。いずれもレンガ造2階建て、左右対称、長さは8590メートル。外観は創建当時の姿に、内部は1棟ごとに異なった手法での構造補強を行い建物の文化財的価値と展示設備の調和が工夫されています。1棟はレンガの外壁を残し中は鉄筋コンクリート、2棟は鉄骨補強、3棟は木造をそのままに耐震補強し、建てられた当時に最も近い姿になっています。この地は江戸時代には加賀藩本多家の上屋敷や藩士の屋敷が並んでいた武家屋敷街だったそうです。1棟ごとに石川県の歴史、交流体験、加賀本多博物館となっています。(2019.07.01

 

 

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アングル173

印象的なレンガ造の四高記念館
印象的なレンガ造の四高記念館

~「学都」金沢の誇り旧第四高等中学校本館~

 

   石川県金沢市は加賀100万石の城下町として知られる人気の観光地です。香林坊や片町といった繁華街に近い「いしかわ四高記念公園」に建つひときわ目立つレンガの建物が「石川四高記念館・石川近代文学館」です。1887年(明治20年)に第四高等中学校として設立され1894年(明治27年)に第四高等学校に改称した略称「四高」の本館建物です。設計は文部技師の山口半六と久留正道で、1889年(明治22年)6月に起工し2年後に竣工しています。レンガ造2階建て、桟瓦葺き、正面玄関を中心としたシンメトリーの寄棟づくりで、外観の特徴は腰回り軒回り、2階窓アーチに釉薬レンガや白レンガを使い、赤レンガの壁面に単調さを感じさせないデザイン効果が見られるところです。近代日本の高等教育機関の黎明を伝える数少ない建造物として貴重である、ということで1964年(昭和44年)に国重要文化財に指定されています。

   四高は1950年(昭和25年)の学制改革により金沢大学となり、現存する本館は理学部として使用されたのち金沢地方裁判所、石川県立郷土資料館などを経て2008年(平成20年)に学びとふれあいの複合文化スペース「石川四高記念文化交流館」として開館しました。入場無料の記念館には休憩室・歴史資料展示室があり、有料で利用できる多目的室も人気です。金沢の誇りと文化を感じる建物でした。(2019.06.15

 

 

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アングル172

被服廠あと横網町公園に建つ記念館
被服廠あと横網町公園に建つ記念館

~東京都復興記念館~

 

 両国駅から10分ほどのところにある墨田区横網町公園には1930年(昭和5年)に建てられた東京都慰霊堂がありその近くにあるのが東京都復興記念館で、1931年(昭和6年)8月18日に開館しています。どちらも伊東忠太が設計にかかわった東京の歴史を伝える建物です。記念館は鉄筋コンクリート2階建て、関東大震災と東京大空襲からの復興を記念し、約1000点の遺品、絵画などが展示され、無料で見学できます。1999年(平成11年)には東京都選定歴史的建造物に選定されました。この公園はもと陸軍被服廠があったところで、関東大震災の時に避難した多くの人が亡くなりました。

 山形県米沢に医師の次男として生まれた伊東忠太(18671954)は、明治末から昭和初期まで日本を代表するような建築を数多く手がけています。探偵団の研修ツアーで有形無形の動物彫刻が隠された築地本願寺(国指定重要文化財)と慰霊堂・記念館、最後に鶴見の総持寺に忠太の墓を訪ねました。大谷石で築かれたドーム型の墓は細工しやすい柔らかな石のためか風化が進んでいるように見受けられました。

 忠太は1943年(昭和18年)に、建築学会として初めてとなる文化勲章を受章しました。ちなみに、第1回の文化勲章は、1937年(昭和12年)で、横須賀市の北下浦に記念館のある物理学者長岡半太郎が受章しています。(「まちの記憶」2018年2月に関連記事)(2019.06.01

 

 

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アングル171

東西南北と日本語で表示された風見鶏のある誠之堂
東西南北と日本語で表示された風見鶏のある誠之堂

~渋沢栄一ゆかりの誠之堂~

 

 埼玉県深谷市にある「誠之堂」は、渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行の行員たちの寄付により1916年(大正5年)に東京の世田谷区瀬田に建てられました。1999年(平成11年)に生まれ故郷である深谷市に移築されました。移築建物では初めて2003年(平成15)年に国重要文化財に指定されました。建物の設計者は田辺淳吉、施工は清水組。設計にあたって「西洋風田舎家」との条件が付けられたそうですが、外観は英国風田舎家、室内の装飾は中国、朝鮮、日本など東洋的意匠がバランスよく取り入れられています。屋根材は宮城県雄勝の硯石が使われ、シンメトリーを意識するためベランダ側の屋根中央に飾りとしての小屋根が張り出しています。森谷延雄のデザインによる大広間のステンドグラスは中国風の宴会の様子を表したもので、貴人と侍者、歌舞奏者から厨房の人などがかわいらしく表現されており部屋を訪れた人をもてなしているようです。

   レンガ造建物の移築は日本では初めてのことで、深谷市では移築保存検討委員会を設置、レンガ壁をなるべく大きく切断し、移築先で組みなおす「大ばらし」という工法で行うことになりました。2年間の解体・復元工事を経て移築復元は完成しました。ひし形模様の浮き出るレンガ壁をよく見ると壁面につなぎ目が見えます。(2019.05.15