建築探偵のアングル

アングル250

石畳のアプローチから松の大木がお出迎え
石畳のアプローチから松の大木がお出迎え

~逗子の別荘建築「松汀園」~

 

 逗子駅から徒歩で12分ほどのところに大谷石に囲まれたKKRの保養施設「松汀園」があります。KKRとは国家公務員共済組合連合会のこと、20の共済組合で組織され様々な事業を行っています。宿泊施設もその一つですが利用は公務員に限らず一般も利用できます。

 逗子市新宿の松汀園は海岸にも近く気軽に利用できるので特に夏は家族連れにも人気です。その名にちなむように松の大木が石畳のアプローチの両側に立っています。施設の建物は大正館と昭和に増築された昭和館が続いています。大正館は関東大震災前の1923年(大正12年)に建てられましたが、被害が少なかったそうで、1360坪という庭園を控え静かな佇まいは今も健在です。瓦棒葺き木造平屋建ての近代和風の別荘建築で、庭に面して雁行した部屋は明るい日差しと心地良い風に恵まれ、廊下を挟んで独立性が高く、それぞれに赤松・黒松・蝦夷松・唐松などと松を付けた部屋になっています。

 建築主は千葉県出身の実業家・銀行家の牧野元次郎(1874年(明治7年)~1943年(昭和18年))で、不動貯蓄銀行(現在のりそな銀行)の創業者で頭取も務め、定期積金を考案し業績を拡大、「貯金王」と呼ばれました。1949年(昭和24年)から保養施設となりました。

 横須賀市津久井の茅葺民家で暮らした銀行家、万代順四郎よりも9歳年上でした。(2022.09.01

 

 

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アングル249

最近若者に人気の若松マーケット
最近若者に人気の若松マーケット

~終戦後の暮らし~

 

 8月15日は太平洋戦争で日本の敗戦の日です。昭和20年に入ると日本各地で大空襲があり、8月には原爆投下。毎年慰霊の式典が行われます。大空襲はありませんでしたが横須賀も空襲がありました。横須賀の戦没者慰霊塔は平和中央公園にあります。  

戦後の暮らしを支えたのは闇市でした。横須賀中央駅Yデッキから諏訪神社側に大きな提灯の門があります。《若松マーケット》入り口で、お店が紹介されています。若松マーケットは戦後の闇市から今に続く飲食街で、入り組んだ路地に沿ってお店が並んでいます。代替わりしながら常に空き店舗は少なく、「横須賀ブラジャー」というネーミングのカクテルを売り出して話題です。昔からのスナック、居酒屋のほか、食堂、立ち飲み店、ジャズ喫茶、海軍カレーの魚籃亭、革細工店、昔のおもちゃの店、アメリカの古着やインテリアの店、古着の無人店舗も人気です。若松マーケット全体がおもちゃ箱のように何か楽しそうでドキドキするような空間になりつつあります。自分を表現するスペースとしても注目されているそうで「これから楽しいまちになりますよ」とはアメリカ古着PASUT のオーナー。

   「アーバンスポーツの街横須賀」の賑わいづくりが、戦後の路地文化として生きているようで懐かしくもあります。(2022.08.15

 

 

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アングル248

手前は浦賀道。かつての海軍病院への坂。歴史を伝えるブラフ積み
手前は浦賀道。かつての海軍病院への坂。歴史を伝えるブラフ積み

~ブラフ積み石垣~

 

 横須賀の中心市街地、若松町、大滝町などは埋め立て地なので平地ですが、平坂を境に上町方面は坂や階段、石垣などが多く、平地は商店街という地形がほとんどです。平坂が開通したのが明治10年ごろ、坂を境に現在の上町方面は明治22年から豊島町で、明治39年に横須賀町と合併し、翌年横須賀市が誕生。軍施設が拡張することでベットタウンとしての役割が急激に上町方面に求められ、丘陵地だった豊島町は住宅開発の必要から石垣を築いて官舎や住宅が建てられていきました。ブラフ積みと呼ばれる石垣は観音崎、千代ケ崎、猿島などの軍施設に明治初期から施工され、住宅地にも使われてきたと思われます。ブラフ積み石垣の積み方ではレンガのフランス積みのように長手と小口を交互に組み合わせ、小口の石は奥に差し込むのでしっかり崖を支えることができます。そのほかの積み方には横目が水平の布積み、石を斜めに積み重ねる谷積み、大小さまざまな石を組み合わせて積む乱積みなどが見られますが、ブラフ積みが一番強固です。住宅用石材は房州石のほか佐島、鷹取など地元産が多いようですが軍施設には房州石が多く使われています。

   最近は建て替えや再開発の際にブラフ積み石垣が取り除かれてきました。横須賀のまちの発展を伝えるブラフ積み石垣を見ながら歩いてみると、何か発見があると思います。(2022.08.01

 

 

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アングル247

アーケードの撤去作業中のみどり屋
アーケードの撤去作業中のみどり屋

~上町銀座商店街のアーケード~

 

 レトロな街並みとして知られる上町銀座商店街でアーケードの撤去作業が進んでいます。3期にわかれた最後の撤去作業は2022年7月1日から30日までの予定で行われています。横須賀経済経営史年表新版によると、上町銀座商店街は1947年(昭和22年)に結成されています。初代のアーケードは鉄骨片屋根開閉式で1956年(昭和31年)に竣工しています。今回撤去されるアーケードは約40年使われたということで昭和56年ごろ建設された2代目と思われます。隣接する上町商盛会の結成は1926年(大正15年)、こちらのアーケードは初代が1958年(昭和33年)で、その後の建て替えを経て今も使用されています。

    アーケードがなくなると、商店もお客さんも日よけ雨風よけがなくなり当面ちょっと不便と感じますが、今までアーケードの後ろに隠れていた建物の装飾や銅板やモルタルなど建築材が表れて、昭和初期の看板建築をまぢかに感じることになりました。街並みとしてこれほど多く昭和戦前の建物が建ち並んでいるところはめずらしいところから、看板建築の商店街として新たな発信をしようと商店街の皆さんで検討しているそうです。建物にも街にもストーリーがあります。看板建築という資産を活かした商店街づくりで横須賀の魅力とまちづくりの歴史を知ることができると期待しています。(2022.07.15

 

 

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アングル246

下部が根継ぎされた鐘楼
下部が根継ぎされた鐘楼

~柱の根継ぎ~

 

 三崎口駅から三戸浜へは通称「御用邸道路」と呼ばれる県道を下ります。1928年(昭和3年)、三戸の小網代湾を望む高台に海洋生物学者としても知られた昭和天皇が、研究拠点として海辺の別邸を希望したのが御用邸計画の始まりと伝えられています。迪宮(みちのみや)のちの昭和天皇は1910年(明治43年)、当時9歳だったときに東京帝大の臨海実験所を訪れました。その後もたびたび三戸を訪問されていますが、戦時下となり御用邸建設計画は延期、1943年(昭和18年)になると時局が悪化したため計画は中止となりました。

   三戸の浄土真宗本願寺派の古刹・寶徳寺は関東大震災で被害を受け、1927年(昭和2年)に本堂と鐘楼が再建されました。2022年(令和4年)6月にほぼ同時期に建てられた鐘楼の傷んだ柱の根継ぎ(柱などの下部を新しいもので継ぐ)工事が行われました。根継ぎは金輪継ぎという寺社建築の伝統的な工法で行われ、①墨付け②のこぎり③穴をあけたり溝を掘る=鑿(のみ)③金づちなどは使わず手で押しながら薄く削る=突き鑿④木材を平らにする=平カンナ⑤最後に際を削る=際カンナで仕上げます。柱を5寸ぐらいジャッキで上げながらはめ込んで調整し、最後にくさびを入れます。材料は吟味されたケヤキ。100年は大丈夫とのことです。「気持ちを込めて仕事をする。お寺さんや地域の方にも喜んでもらえることが誇り」と棟梁の三上さん。(2022.07.01

 

 

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アングル245

鋸山の石の文化と繁栄を伝える石蔵
鋸山の石の文化と繁栄を伝える石蔵

~房州石の蔵~

 

  千葉県金谷は久里浜から東京湾フェリーで40分。金谷港の近くに鋸山美術館と房州石の資料館があります。美術館は2010年開館の私設美術館で、外壁にはかつて切り出された鋸山の石がはめ込まれ、大きなアジのモニュメントとともに金谷を表現しています。美術館付属の資料館は国登録有形文化財の石蔵で1902年(明治35年)に建てられ、関東大震災にも耐えたそうです。外壁が漆喰になっていますが昭和50年ごろに補強のため塗り固めたということですが最近の度重なる台風で被害を受けたため、砂じっくいでかさ上げしたのち再び漆喰仕上げを。そのとき家紋の「抱き茗荷」の漆喰細工が施されました。傷んだ屋根瓦の交換は蔵にしまってあった明治時代の瓦を載せ、瓦も日の目を見ることになりました。入口への路地には大きな井戸があり、井戸神様の小さな祠があります。蔵は2階建てで入り口は下屋で漆喰が塗られていないので積まれた石に触れることができます。鋸山の石は凝灰質砂岩で品質の良い順に・上石・中石・下石のランクがあり、その中で桜目という桃白色の粗い軽石が点在する石が最上級とされています。資料館の当主は屋号を芳家という鈴木家で最後まで石切を行っていたという家柄、蔵全体が桜目の石が使われており、内部の造りの確かさも見どころです。上総と安房の境の鋸山は世界遺産の候補にあがっているそうです。(2022.06.15

 

 

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アングル244

ひっそりと歴史を伝える奉行所跡
ひっそりと歴史を伝える奉行所跡

浦賀奉行所跡~

 

 日本が近代へのみちを踏み出すきっかけともいえるペリー艦隊来航で知られる歴史の町浦賀。幕末の1729年(享保5年)10月、奉行所が徳川吉宗の時代に下田から浦賀へ移り翌年から業務が開始されました。浦賀奉行所では、船番所を置いて船改めという船の積み荷と乗組員を検査するのが主な仕事でした。そのほかにも税務署・裁判所・海上保安庁などの役目も兼ね、のちには江戸を異国船から守る最前線ともなりました。1868年(慶応4年)新政府に接収されるまで存続しましたが、船改めは1872年(明治5年)まで行われてきました。

 近年、住重から奉行所跡地を譲り受け、社宅を取り壊したことで2018年(平成30年)~2019年(令和元年)にかけて発掘調査が行われました。その結果、役宅、お白洲、炊き出し所などの遺構が確認されました。浦賀奉行所300年記念事業が計画されましたが、運悪くコロナの感染状況が悪化したため2年間ペンディングになりとうとう中止となりました。奉行所跡は更地になって説明板と、「浦賀奉行所跡」の看板が掘割に架かる石橋の近くに設置されています。掘割には夏草が茂っていました。

   浦賀奉行所の正確な模型が浦賀コミュニティセンター分館に、中島三郎助ゆかりの品とともに展示されています。見学は自由です。(2022.06.01

 

 

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アングル243

登録有形文化財申請が考えられている吉野活版印刷所
登録有形文化財申請が考えられている吉野活版印刷所

~洋風ファサードの吉野活版所~

 

 新潟市の花街、鍋茶屋通りの近く古町通10番地に建つ元「吉野活版所」は、木造3階建て、桟瓦葺き洋小屋組み、1916年(大正5年)に塩谷棟梁によって建てられた看板建築です。設計は当時の当主吉野松次郎。活版所の創業は1903年(明治36年)で松次郎さんは3代目にあたります。大通りに面してインパクトのあるファサードはラス下地にモルタル塗り、側面もモルタル塗りの外壁でコンクリート造のように見せています。両開きの出入り口、窓庇から3階まで二本のイオニア式と思われる円柱が建ち、3階正面には豊穣のメダリオン、縦長窓や窓庇など洋風デザインが見られ、円柱には「吉野オフセット印刷所」の文字が浮き出ていました。2017年(平成29年)まで営業していたそうですが跡地を現オーナーが買い取り建築当時のまま残ることになりました。今は動きませんが新潟初のエレベーターを設置、お客さんを3階まで乗せて驚かせたと伝わっています。

 入り口を入ると2020年(令和2年)のリノベーション中に見つかった1925年(大正14)年当時のオフセット印刷の見本を展示、色あせもなくカラフルな当時の印刷技術が見られます。また、オリジナルコーヒーを焙煎した無人コーヒーショップにもなっていて、売り上げは建物の保存と修復にあてられています。奥は英会話教室です。平日の午後展示室の見学ができます。(2022.05.15

 

 

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アングル242

落ちたことがないということで「合格祈願石」といわれる石置き小羽葺き屋根
落ちたことがないということで「合格祈願石」といわれる石置き小羽葺き屋根

~米沢街道の渡邉邸~

  

 1995年(平成7年)のNHKドラマ「蔵」のロケ地となった渡邉邸は1954年(昭和29年)国重要文化財に指定された新潟県関川村の米沢街道に面した邸宅で、廻船業・酒造業・金融業も行う豪商、豪農、大庄屋でもありました。3000坪の敷地に500坪の母屋と、現在は6棟の土蔵があります。母屋の桁行は351m、梁間178m、1817年(文化14年)に村上の板垣棟梁によって建てられたということです。街道に面した建棟とT字型に建棟の建つ撞木(しゅもく)づくりという寺院建築に見られる建て方で、強度が高いとされています。屋根は「石置き小羽葺き屋根」で、2223万枚の小羽板(杉薄板)と約15000個の玉石が使われており、石置小羽葺屋根の中では日本最大級です。重ねた小羽の上に押木で玉石を固定、度重なる大地震にも落ちなかったそうです。玉石は近くの荒川のものだということです。渡邉邸の隣には重厚な茅葺屋根で県指定文化財の津野邸、国重文指定庄屋の佐藤邸、向かい側には村内唯一の洋館旧斎藤医院(いずれも非公開)が建ち並び歴史を伝える街並み景観をつくっています。渡邉家の分家として建てられた村指定文化財の東桂苑母屋は瓦葺寄棟造りで修復ののち中央公園として見学やカフェに活用されています。お米のおいしい関川村は、荒川水運の船着き場、米沢街道の宿場として発展しましたが、今ではローカルな米坂線越後下関下車です。(2022.05.01

 

 

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アングル241

展示されている写真から。平成10年頃の赤レンガ倉庫
展示されている写真から。平成10年頃の赤レンガ倉庫

~川崎赤レンガ倉庫の記憶~

 

 再開発が進む川崎市の川崎駅周辺。西口の音楽ホール「ミューザ川崎」近くのロータリーの場所に東海道線電化のために1914年(大正3年)設置された旧鉄道院川崎変電所の蓄電室として建てられた赤レンガ倉庫がありました。東京駅のレンガ駅舎と同時期の建設で川崎市内最古の赤レンガ倉庫、近年まで川崎の建物と土地の歴史を伝える語り部としても市民に親しまれていました。西口一帯の再開発にあたり赤レンガ倉庫保存の声もありましたが、1999年(平成11年)に解体されることになったとき、復元することを前提に外壁正面部分が保存されました。商業施設「ラゾーナ」と「ミューザ川崎」の間にあるロータリーには、レンガ倉庫の正面のデザインがレンガを使ってかつての姿をわかりやすく展示しています。

2009年(平成21年)に川崎駅西口駅前広場の改修工事に合わせて、川崎駅西口の中心となるミューザ川崎シンフォニーホール玄関前に、オブジェとしてレンガ倉庫の一部が復元されました。ロータリーが見下ろせる遊歩道デッキに2017年(平成29年)、川崎市幸区が設置した説明板がかつての写真とともに掲示されています。

まちの記憶を伝える赤レンガ倉庫モニュメントの建つ街並みは、重厚感のあるデザインで統一され「音楽のまち・川崎」の中心となっています。(2022.04.15