建築探偵のアングル

アングル200

はまゆう公園の一誠神社と一誠園の碑
はまゆう公園の一誠神社と一誠園の碑

~はまゆう公園の一誠園の碑~

  

 現在のはまゆう公園の場所には終戦まで陸軍病院がありました。病院の創設は1890年(明治23年)の要塞砲兵聯隊医務室で、翌年に現在のはまゆう公園のところに要塞病院として新築、1907年(明治40年)に横須賀衛戍病院に、1937年(昭和12年)には横須賀陸軍病院と改称され戦後は国立横須賀病院として外地からの引揚者の治療にあたっていました。一誠園は1942年(昭和17年)に病棟が増築されたとき、回復期の患者の労力で造られた庭園で、患者の休養や運動など体力維持の場でもありました。精神修行の対象として同時期に祀られたのが一誠神社です。

 1988年(昭和63年)、市制施行80周年事業としてはまゆう公園が整備されたときに「一誠園」と「一誠神社」の碑はサブグランド近くのがけ下に移転され、この地の記憶を今に伝えています。当時の病院長は窪田精四郎で一誠園築造の由来が碑の背面に記されています。今では、はまゆう公園はサッカー場として、また、桜の名所として親しまれています。

    一誠とは軍人勅諭の5か条「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」で、その根本を一つの誠心(まごころ)としたものだそうです。また、「百術不如一誠」(百の術策も一つの誠意には及ばない)との解釈に基づくともいわれています。(2020.08.01

 

 

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アングル199

ブラフ積みの美しい擁壁
ブラフ積みの美しい擁壁

~佐野のブラフ積み~

 

   横須賀市佐野の佐野八幡社周辺にはひな壇状に房州石で積まれた擁壁が多くあります。フランス積みレンガのように石の小口と長手が交互に組まれたブラフ積みで、高さ約3メートル、長さ30メートルを超すかという見事な擁壁もあります。ところどころの小口面に「一」と読み取れる切込みがありますが、この印は金谷の石切鈴木家の石刻印です。ブラフ積みの中にはよく見るといろいろな切込みマークを見つけることができます。

 佐野村は明治の中頃までは農業主体の寒村だったようですが、幕末に横須賀製鉄所が開設され、のちに横須賀造船所、横須賀海軍工廠と改称され、国力の発展に伴って横須賀は東洋一の軍港と言われました。数万の従業員と海軍関係者で人口が急増したため佐野村、不入斗村にも住宅が必要となり、今まで田畑や山林だったところは宅地開発されました。1923年(大正12年)の関東大震災後は都市計画法が施工され佐野方面の道路も改善され、更に人口が増え宅地化が進みました。震災で被害を受けた佐野八幡社再建工事にあたり周囲に石崖築造工事が行われています。堅牢に積まれたブラフ積みは当時の作業かもしれません。ちなみに社殿造営の棟梁は根岸栄太郎、大工頭梶原藤吉、石工頭滝沢七三。扁額は横須賀鎮守府司令長官海軍大将野村吉三郎、彫刻師後藤義光。(2020.07.15

 

 

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アングル198

横須賀市章と造船所風景
横須賀市章と造船所風景

~京急汐入駅ガードの横須賀を知る壁画~

  

京急汐入駅からサポートセンターへ、右手の京急ガードの壁面に1888年(明治21年)の横須賀造船所風景の壁画があります。何となく暗いガードに横須賀市章が赤レンガ塀が描かれた上にちりばめられていて、その中央に造船所風景が描かれています。「壁画は、環境の美化と地域への愛着を深めるために横須賀中心市街地環境アート事業として、市民のご協力により描きました」と説明されています。反対側の壁面には横須賀市制100周年事業の一環として横須賀出身の学生グループ作成の《市制100周年記念ロゴマーク》と《横須賀が好き》《カレーの街よこすか》のイラストが描かれています。

 横須賀造船所が横須賀製鉄所として今の米海軍基地内に建設所鍬入式を行ったのが1865年(慶応元年)閏9月27日。近代国家の始まりともいわれています。製鉄所建設のために石川島寄場人足200人が小栗忠順に交付されました。1871年(明治4年)には1号ドックが開業し、4月には製鉄所は横須賀造船所と改称されました。壁画の時代には3号ドックまで完成し、船や建物などの様子が読み取れます。

   富士見町の富士見公園には、軍港創設工事中の犠牲者従役囚人151名と行路病死者の鎮魂碑が篤志者により1922年(大正11年)5月4日に《忍塚》として建立されています。(2020.07.01

 

  

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アングル197

宿泊所に生まれ変わった金物屋さん
宿泊所に生まれ変わった金物屋さん

 ~三崎の古民家旅宿~

 

 三浦市三崎町サンロード商店街に建つのが「三崎港古民家の旅宿」と小さなお知らせのある蔵造りの建物です。商店街ロードから店舗部分が少し張り出した元金物店で、探偵団で三崎の建物調査をした2003年(平成15年)にはすでに閉店していました。「店舗付き住宅、2階建て、日本瓦葺きの切妻屋根、蔵造り(石造)、外壁モルタル、関東大震災以前の建築」と、当時の調査資料に書かれています。このどっしりした建物が三崎を訪れる観光客の宿として生まれ変わりました。建物の中心には蔵造りの構造がそのまま残り、2階の天井には見事な太い梁が安心感を与えています。1階の店舗部分は27帖の土間で大きなテーブルと椅子。市場で買った食材をキッチンで調理してここで食べることもできます。1日一組で最大8人まで、1泊素泊まり5000円、蔵造りの部屋もあります。バス、トイレなど水回りは改装、冷暖房完備で快適に三崎を楽しむ拠点になりました。

   古民家旅宿は三崎港バス停4分の立地ですが、バス停前の山田酒店も2階が宿泊所になっています。朝の散歩がてらの朝食は6時から営業の、ここも古民家を活かした食事処「朝めしあるべ」。地元を愛する知恵が、新しい魅力発見とまちづくりを進める力となっているようでした。テレワーク時代で街も変化するのでは。(2020.06.15

 

 

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アングル196

往来の安全を願って祀られた馬頭観音
往来の安全を願って祀られた馬頭観音

 ~坂本の坂の馬頭観音~

 

 坂本の坂は汐入と坂本を結ぶ坂です。右手の駐車場下あたりは横須賀線のトンネルにあたります。坂を上がりきると坂本町で、現在では桜小学校、坂本中学、不入斗中学、聖佳幼稚園などの学校群。この一帯に横須賀重砲兵聯隊の前身である要塞砲兵第一聯隊が置かれたのは1890(明治23)。この陸軍施設に通じるのが坂本の坂でした。昔は馬力が主力で荷車を曳くのは馬、下るのがより大変だったようです。旧道は現在の子の神社の後ろから浦賀道の枝道として今も残っています。軍道としての坂本の坂の中ほどに1930年(昭和5年)9月17日に横須賀運送組合が創設したと記された馬頭観音が祀られています。ブラフ積みの擁壁に彫り込まれるように祠があり、明治から昭和までの馬頭観音が並んでいます。道路の改修に合わせて集められたと思われ、急坂の往来の難儀さを物語っています。

 ブラフ積みは各段に長手と小口が交互に並ぶように積む方法で、レンガのフランス積みに相当し近代工法と言えましょう。ブラフとは切り立った崖を意味する英語で、横浜山手地区に多く、かつては外国人の間で山手はブラフと呼ばれました。横須賀にも多く見られ特に軍に関係した施設や砲台、住宅などの擁壁は丁寧に積まれているようです。立派に祀られた馬頭観音から、馬の役割の重要さと馬を大切に思い供養した組合員の気持ちが伝わります。(2020.06.01

 

 

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アングル195

「枇杷山トンネル」望洋台入り口
「枇杷山トンネル」望洋台入り口

 ~枇杷山トンネル~

 

   個性的なトンネルの多い横須賀。衣笠栄町と望洋台の間にある枇杷山トンネル(通称望洋台トンネル)もその一つです。令和元年、望洋台町内会によってトンネル内に「枇杷山トンネル」の銘板が取り付けられました。そこには「1956年(昭和31年)、望洋台の佐藤留次郎氏が私財を投じて建設されました。ここに先人の偉業を称え、感謝の思いを表します。」と書かれています。町内会の説明には、「1953(昭和28)ごろ、望洋台地区は枇杷山と呼ばれる山林で、衣笠駅(衣笠栄町)から望洋台・汐見台・鶴が丘地区には山越えするしかなく非常に不便でした。当時56歳で望洋台在住の佐藤留次郎氏が自己資金を投入し、家族総出で工事にあたり素掘りのトンネルを建設、枇杷山トンネルと名付けました。のちに横須賀市の管理となりました」と記されています。現在はコンクリートでおおわれ「望洋台トンネル画廊」として子ども達などの作品が展示されています。トンネルの上は衣笠栄町2丁目公園で、すぐ下は横須賀市のはまゆう会館です。

 1915年(大正4年)発行の「現代の横須賀」に名所旧跡として《百菓園》(枇杷山)が紹介されています。退職機関大佐正五位勲四等佐久間国安氏の農園で、枇杷のほかにも季節ごとの果物栽培、釣りのできる池、東屋、山頂からの見晴らしなどが楽しめる私公園と記されています。(2020.05.15

 

 

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アングル194

横須賀市の歴史遺産「禁廷水」
横須賀市の歴史遺産「禁廷水」

~禁廷水~

 

 横須賀市緑が丘の聖ヨゼフ病院が敷地内に新築しました。白とブルーの明るい外観の病院で、設計は建築一家、施工は馬淵建設。地形に合わせたアール状の現在の建物は1939(昭和14)に、当時モダニズム建築家として知られた石本喜久治事務所の、建築家であり詩人でもあった立原道造がかかわったとされる、旧海軍家族のための横須賀海仁会病院として建てられました。この建物は取り壊され駐車場となる予定ですが、裏手のがけ下に「禁廷水」と刻まれた碑とその脇に大きなコンクリートの蓋のある井戸があります。

 明治天皇の行幸は1871年(明治4年)に2泊、明治6年と8年に1泊、向山行在所で宿泊され造船所を見学されています。向山行在所は海軍兵学校分校教師館としても使用された洋風2階建て、現在のどぶ板通りから階段を上がった幼稚園のある場所で、国道沿いに行在所跡入り口の石柱があります。幼稚園前に明治天皇横須賀行在所阯と聖蹟の碑が建てられています。幼稚園上段には「明治天皇御駐蹕」の碑もあります。明治天皇行幸の際に食事などに使われたのが禁廷水でした。

 初代横須賀市役所、第一横須賀小学校、海仁会病院、ヨゼフ病院と刻んできた横須賀の歴史を伝える歴史遺産として、禁廷水の碑と井戸が保存されることを期待しています。(2020.05.01

 

 

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アングル193

汐入1号隧道。右は旧道。
汐入1号隧道。右は旧道。

~トンネルのある暮らし~

 

 正確な数はわかりませんが「日本一トンネルが多いまち」と言われている横須賀には鉄道トンネル、道路、人道、水道、防災など様々なトンネルがあります。古くから知られるのは梅田トンネルです。榎戸バス停から船越方面へ100mほどを右折、旧道を行くと梅田隧道之碑があり、その先にあるのが1887(明治20)3月に完成した梅田隧道です。1886(明治19)に田浦、船越、浦郷の海岸は海軍用地となり船を使うことができなくなりました。そこで民間有志の寄付で開通したのが梅田坂に掘られた梅田トンネルでした。水道トンネルでは1876(明治9年)に走水水源地から現在の米海軍基地内の造船所への送水用に掘られた走水トンネルで、現在はバスも通過し観光スポットともなっています。

   谷戸の多い横須賀に孤立対策と防災を目的とした防災トンネルが初めてできたのは1978(昭和53)で、汐入1丁目と5丁目を結ぶ汐入1号トンネルと、同4丁目と5丁目を結ぶ汐入2号トンネルです。地形の複雑さが読み取れますが、その他には船越、西逸見吉倉、ながかま(長浦田浦線)の合計5か所の防災トンネルがあります。緊急時以外は車が入らないので夏は涼しい遊び場です。防災トンネルに限りませんがトンネルの脇には階段や坂の旧道があり、頂上付近に庚申塔が祀られていることがあります。(2020.04.15

 

 

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アングル192

出現した弾薬庫
出現した弾薬庫

~確認された米が浜砲台の弾薬庫等~

 

 中央公園には1891(明治24)に米が浜砲台が置かれました。28サンチ榴弾砲6門と24サンチカノン砲2門が据えられ東京湾要塞砲兵聯隊が東京湾防備の任に当たっていました。1923年(大正12年)の震災後に廃止され演習砲台となりました。1970(昭和45)に市制施行60周年記念事業として中央公園が誕生しました。

   このたび公園再整備にあたり確認の発掘が行われ、明治20年代後半の弾薬庫と兵員詰め所を確認した後、埋め戻されました。弾薬庫入り口には水に強い焼き過ぎレンガが使用され、小菅のレンガ刻印も確認できたようです。初期鉄筋コンクリートの使用、ブラフ積み擁壁は観音崎と同じ仕様のようでした。石材は房州石とそれ以外にも使用されたかもしれないそうです。地上から弾薬庫への石段は踏板部分に前面を面取りした御影石が敷かれその下に砂岩、さらに裏込め砕石を入れるという全体に丁寧な仕上げは他の遺構には見られないもののようでした。弾薬庫の奥からはレンガ製の排気筒が建ちあがっていました。公園内に《ぬりかべ》のように普段なんだかわからなかった塊が排気筒と初めて知りました。

  中央公園には、横須賀と日本の歴史を語る遺構がまだ眠っていると思われます。今回発掘の遺構も本格調査の上公開されることを望みます。(2020.04.01

 

 

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アングル191

床屋さんだった建物
床屋さんだった建物

~個性的な三崎の建物~

 

 三浦半島の先端、城ヶ島大橋を望む三崎のまちは、いつ訪れてもちょっと楽しみな気持ちになります。探偵団では20年ほど前に三浦市教育委員会に協力して三崎の建物調査を行いました。商店街には昭和初期の看板建築、出し桁づくりや蔵造りの商家や会社、網元や船具など漁業の道具を扱う風格ある建物がまちの個性を語っていました。調査をもとに街歩きも行い、横須賀市内からも大勢参加、また横須賀の街歩きには三浦市の方も参加され、お互いの街を楽しみました。頼朝の三御所をはじめ寺社や北原白秋など文学者の足跡をたどることなど街歩きの目的も多様でした。房州石を多用した蔵や擁壁、石造りのバーやスナック、路地を抜けた先の民家や井戸などにも出会いました。

 それからたびたび訪れるごとに街は変化してきました。閉店したところもある代わりに若い人たちの発想で昔の建物を活用した新しい商売や宿泊施設などが人気で、移住者も出てきました。新しいまちづくりが三崎を愛する人たちで進んでいます。写真の建物は商店街の三差路に建つ、元は床屋さんです。撮影に使われたそうでその時の看板が付けられています。中をのぞくと床屋さんのアーチ型の鏡が並んでいます。(2020.03.15