建築探偵のアングル

アングル230

ガラスが多用された金沢園
ガラスが多用された金沢園

~金沢園と航空廠~

 

 カフェ金沢園はシーサイドライン芝口からほど近い高台に建つ木造2階建て入母屋造り桟瓦葺きの建物です。1930年(昭和5年)に建てられ、金沢八景の景勝地として文化人や市民に親しまれてきました。与謝野鉄幹・晶子夫妻、高浜虚子なども訪れています。当初は料亭旅館、大広間と個室があり潮干狩りや海水浴など海を楽しむ金沢の観光拠点でした。当時は建物の下あたりまでが海で、その景色をどこからでも楽しめるようガラス戸が多用され明るく開放的な様子は今も変わりません。2004年(平成16年)、国登録文化財に登録、現在はお茶や食事を楽しみながら昭和初期の佇まいを残す建物内部を見学できます。

    玄関を入ると「海軍航空技術廠支廠指定旅館」の看板が掛けられています。横須賀の海軍追浜飛行場に1932年(昭和7年)海軍航空廠が誕生、海軍航空技術廠に改称したのは1939年(昭和14年)、その規模が拡大し金沢釜利谷に支廠が開設されたのが1941年(昭和16年)なのでそのころからは指定旅館として軍人や技術廠幹部の利用が増えたことと思われます。本・支廠あわせて3万3千人が働いていたとのこと。1945年(昭和20年)2月に改称され第一海軍技術廠支廠に。それを記す記念碑が釜利谷第2公園に建てられています。支廠は兵器部門として搭載機や爆弾の試作、研究、実験を行いました。建物から知る地域の歩みです。(2021.11.01

 

 

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アングル229

静かな佇まいのかなざわ別邸
静かな佇まいのかなざわ別邸

~旧伊藤博文金沢別邸~

  

 横浜市指定文化財の旧伊藤博文金沢別邸は1885年(明治18年)、44歳で初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文の別邸として1898年(明治31年)に建築された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築です。博文はハルピン駅で凶弾に倒れ68歳で生涯を終わりました。建物の所有は長男・次男と引き継がれ、1942年(昭和17年)には日産に移り保養所として使われてきました。1959年(昭和34年)横浜市が買収、実際に憲法草案を起草したのは割烹旅館東屋と夏島の別荘でしたが、博文ゆかりの別邸は憲法記念館と位置付けられました。2006年(平成18年)11月横浜市指定有形文化財に。老朽化が激しかったため翌年に解体工事・調査を行い創建時の姿に復元することになり、2008年(平成20)年6月に工事着工、翌年の10月に竣工、現在は各種イベント開催のほかは自由に内部の見学ができます。海に面した眺望や光を取り入れた雁行形に配置されている座敷、茅葺屋根と広縁のガラス戸など、横須賀市の万代会館と共通する佇まいの金沢別邸です。部材調査・旧材柱補修・上棟・茅屋根工事などの過程が写真展示されています。金沢小学校の生徒が土壁塗りを体験しました。野島公園の施設として公益財団法人横浜緑の協会が指定管理者となっており、茅屋根保存のため毎年燻蒸を行っています。横須賀市立万代会館も耐震工事を終え早く利用できるようになるといいですね。(2021.10.15

 

 

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アングル228

広い芝生エリアは子ども達に人気。左上に見えるのが平和モニュメント
広い芝生エリアは子ども達に人気。左上に見えるのが平和モニュメント

~平和中央公園から平和を祈る~

 

 中央公園が平和中央公園と名称が変わりました。横須賀市は1989年(平成元年)に「核兵器廃絶・平和都市」宣言を行ったことや、園内に戦没者慰霊塔があることに由来したからだそうです。リニューアルに合わせてステンレス製の平和モニュメントが設置されました。毎月1日と8月6、9、15日、市制記念日の2月15日の日没から天に向かって平和の光が照射されます。

 海を見下ろすこの丘の上で、平和を願う気持ちが伝わるのは頂上近くに建つ島田修二の短歌《横須賀の丘に吹く風いちにんのいのちの重み世界に告げよ》ではないでしょうか。2004年(平成16年)に草木短歌会によって設置された歌碑です。島田修二は1928年(昭和3年)、市内大津に4男1女の次男として生まれました。海軍士官の兄陽一は戦没、修二も旧制横須賀中学から海軍兵学校に進みましたが終戦となり、戦後は新聞記者を経て短歌の道へ。宮中の歌会始の選者を務めるほどになりました。2004年(平成16年)にこの丘にきて、ふるさと横須賀の歴史を思い世界の平和と人のいのちの重みを思って詠んだということです。

市では猿島を中心とした東京湾の眺望を保全するため《眺望点》を指定し、建物の高さの限度を定めています。眺望点を記す小さいプレートが展望広場に埋め込まれています。修二の弟の章三は横須賀美術館の館長を務めた洋画家で、横須賀の風景を多数描いています。(2021.10.01

 

 

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アングル227

ヴェルニー公園から見えるクイーンエリザベス号の出港
ヴェルニー公園から見えるクイーンエリザベス号の出港

~英海軍空母クイーン・エリザベスの寄港~

  

 英国海軍最新鋭で最大級の航空母艦《クイーン・エリザベス》を中心とした空母打撃群が9月4日に米海軍横須賀基地に寄港しました。排水量約6万5千トン、全長約  280メートル、最新鋭のステルス戦闘機などを搭載しているそうです。前後してオランダ海軍の補給艦《フォートビクトリア》が海上自衛隊基地に停泊していました。ベストスポットの山の上には大きな望遠レンズのカメラを構えた人、ヴェルニー公園には連日見物人が大勢訪れていました。お目当ての空母は8日1330分、静かに基地をあとにしました。

 現在の米海軍基地は横須賀製鉄所(造船所・海軍工廠)として慶応元年に建設が始まり明治新政府へ引き継がれると近代化推進事業を一般の人に理解してもらうため横須賀造船所見学を始めました。明治10年ごろには各地から富士大山参りや伊勢参りの帰り、子ども達の遠足、造船所と鎌倉江の島めぐりなどのコース観光で名所となり、土産として《横須賀明細一覧図》が人気となりました。現在のヴェルニー公園側には見学者を案内する旅館も多数営業していました。米国の同時多発テロのころ、ベース内に建つティボディエ邸の調査が行われていました。バラの咲く公園と艦船の見物客、今が平和な日本であればこその風景です。

   横須賀は幕末以来、近代日本の礎であったとともに、今も軍港都市です。(2021.09.15

 

 

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アングル226

今も変わらない佇まいの浜田屋
今も変わらない佇まいの浜田屋

ホームベーカリー浜田屋~

 

 横須賀市上町4丁目、うわまち病院からはまゆう公園への通りは通称軍道と呼ばれました。かつて、うわまち病院は東京湾要塞司令部、はまゆう公園は陸軍衛戍病院、小中学校のところには不入斗聯隊があり、それらへ通じる主要道路だったからです。中里トンネルが開通したのは1937年(昭和12年)。ホームベーカリー浜田屋が開店したのは1935年(昭和10年)で、84歳の現在のご主人は2代目。

 横須賀で初めて製麺麭業を開業したのは浜田清太郎で1893年(明治26年)、場所は深田台でした。翌年、浜田パン店を創業しましたがそのころ汐入で板倉万兵衛が軍納を主にして板倉パン店を開業しています。ホームベーカリー浜田屋の先代は浜田パン店で修業してこの地で独立、開業当初は販売店でしたが、戦後の1949年(昭和24年)からは製造販売をしてきました。そのころは石窯で焼いていましたが、その後電気釜になったそうです。開店当時から変わらない手作りパンは人気でしたが、「パン作りは手間がかかるので体がきつくなった」ということで「最近はドーナツのみの製造販売をしています」と販売担当の妹さん。お砂糖がたっぷりついた昔ながらのドーナツがレトロな雰囲気のお店に並ぶのは午後3時ごろ。ただしお休みの日もあります。(2021.09.01

 

 

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アングル225

鹿鳴館から移設されたと言われる黒門
鹿鳴館から移設されたと言われる黒門

~逗子の黒門~

 

 逗子市の田越川にかかる富士見橋から少し行ったところに《黒門》と呼ばれる立派な門があります。黒門屋敷は1915年(大正4年)から1919年(大正8年)まで第15銀行頭取を務めた成瀬正恭の別荘として建てられました。黒門は鹿鳴館から移設されたと言われています。大正時代には成瀬氏の長男正一の一高での同級生だった芥川龍之介や菊池寛も遊びに来ていたということです。1937年(昭和12年)に新潟の豪農・伊藤家が別荘として買い取りました。終戦後の農地改革で伊藤家は農地を開放、新潟の豪農の館は財団法人北方文化博物館となり、逗子の別荘は逗子分室となりました(建築探偵のアングル20920201215日参照)。現在は20年ほど前から『黒門カルチャーくらぶ』として昔の建物を一部改修し、研修棟として貸し出して活用しています。研修室・談話室・サンルームはそれぞれ1時間500円、そのほかダイニングキッチン700円やお茶室1000円などもあります。

 1889年(明治22年)、横須賀線が開通し逗子駅が開設されると、海岸周辺を中心に皇族・華族・京浜の外国人・政治家・実業家・横須賀海軍将校の別荘地、保養地、住宅地として発展し、田越村は1913年(大正2年)に町制施行し逗子町となりました。逗子町は1943年(昭和18年)横須賀市に合併、戦後の1950年(昭和25年)に横須賀市から分離独立しました。(2021.08.15

 

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アングル224

廃止のお知らせが貼られた逗子郷土資料館
廃止のお知らせが貼られた逗子郷土資料館

~逗子市郷土資料館~

 

逗子ゆかりの文学作品に関する展示、民俗資料、市内の遺跡から出土した資料などを展示してきた逗子市郷土資料館は、2年間の休館ののち2020年(令和2年)4月に廃止となりました。展示品は池子やコミニテイーセンターなどの施設に随時移動して展示を続けるそうです。

 資料館は市制施行30周年記念の1984年(昭和59年)4月に開園した《蘆花記念公園》の一角にあります。近代の文豪徳富蘆花ゆかりの地として名付けられた公園で、桜山の緑と逗子湾を望む景勝の地です。資料館の建物は1912年(大正元年)に横浜の実業家の別邸として建築され、1917年(大正6年)から徳川宗家16代当主家達の別荘としても使われた由緒があります。木造平屋建て、寄棟造、桟瓦葺き、8畳間を一直線に連ねる海側の眺めを重視した間取りになっています。2018年(平成30年)、逗子市では緊急財政対策での見直しがありその対象となった資料館は、建物の老朽化による雨漏りなど展示・収蔵施設として適さないことや市民利用が減っているなどが理由でパブリックコメントなど市民の意見も参考にしながらも廃止の方向が示されたそうです。資料館としての役目はなくなりましたが、今のところ建物は存続され現在は風入れなどの管理を行いながら、雨漏り等の建物の小修繕などで維持し、今後の活用を検討しているとのことです。地形を生かした近代和風の別荘建築なので、活用方法が見つかるといいですね。(2021.08.01) 

 

 

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アングル223

トンボの王国の石造トンネル見学は8時30分から17時
トンボの王国の石造トンネル見学は8時30分から17時

~ブラフ積みの下水道トンネル~

 

 国道16号から逸見駅前、池上方面への市内環状線の拡幅工事が最終段階にかかっています。工事中だった199811月に石造暗渠が発見されました。沢山小学校付近の根岸東逸見線の信号のある横断歩道両側、東逸見3丁目23番地と81番地の間の道路下を通り抜ける水路として造られた石造トンネルで、1999年3月に下町下水処理場のトンボの王国に移築復元されました。トンネルはアーチ状のヴォールト天井で側壁はブラフ積み。レンガのフランス積みのような長手と小口を交互に積むことで強度を付ける工法です。幕末から明治に西洋技術の影響で広く使われるようになりました。1921年(大正10年)に完成した海軍水道半原系逸見浄水場の下みちにあたり、近くには坂本の水道トンネルから不入斗練兵場へ送水していたなど、この辺りは海軍水道の施設などが多かったのではと考えられることから、しっかりした技術の水路が設えられていたのではないでしょうか。実際の長さは約6m30㎝ぐらいだったようですが移築の際に短くしたと説明板に書かれています。この遺構は横須賀市の都市形成と近代化を考えるうえで重要な文化遺産であるとも記されています。

 トンボの王国は下水処理した水で池や樹木でつくられた小公園で2000年(平成12年)に《甦る水100選》として建設大臣賞を受賞、散歩や憩いの場として親しまれています。(2021.07.15

 

 

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アングル222

解体中の石蔵
解体中の石蔵

~取り壊し中の石蔵~

 

 米ヶ浜通りの横須賀共済病院駐車場に隣接して建っていた蔵が取り壊されました。

その蔵は室田酒店の倉庫として使われていました。解体中の職人さんに聞いたところ、「この蔵は外壁がモルタル仕上げだったので土蔵と思っていたが石蔵だった。解体には上から重機で組んである石を持ち上げてはずした」とのことでした。以前、室田さんからの聞き取りでは「昭和11年に前の酒屋さんから買って越してきた。明治のころ造られたと聞いている。買ったときは蔵に続いて大きな家があったが、終戦の10日前に建物強制疎開で取り壊されたが蔵は免れた。蔵には三重に引き戸、網戸があって火事の時には引き戸を閉めて火から蔵を守るようになっている。2階は6畳の和室で桐たんす、長持、着物などを入れ、下は酒類、米の倉庫にしている。」終戦後、店と住居は建て直されました。蔵の後ろにお稲荷さんが祀ってありましたが職人さんの話ではお祓いして取り壊したとのことです。

横須賀製鉄所建設以来、街の発展に伴って蔵造りの商家が多く建てられるようになりました。関東大震災では土蔵に火が入って崩れた蔵もあり、建て直しには石が使われたようです。「佐島石は軽くて水には弱いが火には強い、房州石は硬くて風雨に強い」といわれています。震災後は道路整備がされて看板建築や出桁造りの商店建築が登場しました。(2021.07.01

 

 

 

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アングル221

煉瓦ドックとクレーンと盤木
煉瓦ドックとクレーンと盤木

~活用が期待される浦賀ドック~

 

 2021年3月に住友重機械工業から横須賀市へ浦賀ドックと周辺土地約27000㎡が寄付され、現在土地の整備が行われています。シンボルであった大型クレーンは解体されましたが1945年(昭和20年)6月建造の7トンクレーンが健在です。終戦間際の建造で鉄を集めるのも大変なことでした。レンガドックに使われているのは215万個の焼過ぎレンガと呼ばれる水に強い褐色のレンガで、愛知県の岡田煉瓦株式会社の製造、船で運ばれてきました。愛知県には瀬戸物で知られるように焼き物に適した良い土があります。ドック以外の工場内のレンガ構造物は、ポンプ室の内壁、専用水道、敷地と県道の境界のレンガ塀があり、レンガ塀の一部は現在も保存されています。2003年(平成15年)工場閉鎖までに約1000隻の艦船などの建造や修理が行われました。最後の仕事は東京湾フェリーのしらはま丸で、盤木はその時のままの位置になっています。寄付された跡地活用で賑わいづくりが期待されます。 

浦賀船渠株式会社は榎本武揚などが中心となり1896年(明治29年)に創立、船渠(ドック)は1899年(明治32年)に竣工しました。設立のきっかけとなったのは1891年(明治24年)に愛宕山で行われた函館戦争で戦死した中島三郎助の23回忌に主席した荒井郁之助の提唱でした。会社敷地は陸軍要塞砲兵幹部練習所と民有地を取得して建設されました。(2021.06.15